第’話

颯は今、盛大に理性が試されていた。


目の前にはお風呂上がりで全身から柔らかく甘い香りを放っている叶。微妙に乾いていない髪が額に張り付いているのを、指でちょいちょいといじりながら颯を見上げている。


「ゆーま、お風呂気持ちよかったね?」

「そうだな」


叶がごろごろと寝ている姿勢を変えるたびに、颯の視線は揺らぐ。パジャマという無防備で危機的な恰好をした彼女を見る、ましてや凝視するなんてことはできず、視線をさまよわせ続けていた。


薄いパールカラーのパジャマの隙間から、叶の白い肌が覗く。


「もうちょっと女子として危機感を持とうぜ」


耐え切れなくなって、冗談めかしつつも颯が一応持ってきていた薄手のパーカーのようなものを渡す。それをもらった叶はより一層はしゃぎ始めた。


「わーい、ゆーまのパーカーだー!」

「ほら、早く着ろ」


このままだと俺の理性が危ない。ひっじょうに危ない。


いそいそとパーカーの袖に腕を通し、楽しそうに飛び跳ね始めた。何がここまで彼女のテンションを上げるのかわからない。


落ち着いてきた彼女は、それはそれで胸の奥をくすぐられるような恰好だった。

腕はともかくいろいろな部分がオーバーサイズで、いわゆる彼シャツのような姿になっている。叶が自分のものを着ているという事実は、避けようがないほどに否応なく意識させられる。


そんな颯の心持とは裏腹に、叶は楽しそうに笑っていた。


「なんかすっごい楽しーい」

「よかったな」


すすす、と颯の方にすり寄りぺちぺちと叩き始める。

何がしたいのかわからないものの、なんとなくかわいいその行動を見守るしかなかった。妙にはしゃぐ、まるで猫のような叶が周りで遊ぶのを見つめる。


「あははー」

「いつになくハイテンションだな」

「なんでだろね?……なんか、ふわふわする」


叶がその場で大きく伸びをする。そのままこてんと颯の膝の上に転がってきた。


「ゆーま。ゆーま」

「どした」

「……えへへ」


………さすがにおかしいと思って叶を見つめ、額に手を当ててみると、頬から何から熱をもって赤くなっている。


「なあ、叶。さっき飲み物呑んでたけど何呑んでたんだ?」

「え?なんか、フルーティなやつ」

「何色だった?」

「………ちょっと白っぽいけど透明だったよ?氷が入ってた気がする。冷たくておいしかったー!」


颯らが買ってきた飲み物の中に透明なものはなかった気がする。百歩譲って買ってきていたとしても、氷を使って飲み物は飲んでいなかったはず。もしかしたら親が用意してくれたものかもしれないが。


十中八九、置いてあった酒類のどれかを呑んでしまったのだろう。

きちんとしまわなかった親が悪いのだが、さすがに酔っている状態でそれをするのは難しいだろうし、わざわざ酒を手の届かないところに置く道義もない。


はあ、とため息を吐くと、膝の上の叶が手を伸ばしてくる。


「どうした。頭が痛かったりしないか?」

「別に大丈夫だよー。ゆーまは心配性だなー」

「それぐらいでいいよ。叶に何かあったら困る」

「にしし、嬉しいな」


首の後ろに手を回され、颯は行き場のなくなった両手を上にあげた。

今どうにかしようとすると、絶対に叶に触れる。そうなったらいろいろとまずいことになる自信がある。


ぎゅう、と視線の下にいる叶に抱き寄せられ、仕方なく首を下げていく。だんだんと彼女の整った顔立ちが目の前に来て、心臓の刻みが早くなっていくのが分かった。


「ほらー、叶さんちょっと自重してー」

「今アピールしてるの」

「何を?」

「……私を」


耳元の叶の吐息が脳を揺らす。さすがに心臓が持ちそうにないのだが、叶はどうするつもりなのだろうか。


「ねえ、ゆーま」


颯の耳に甘噛みせんかという勢いで、近くで声が聞こえてくる。その吐き出す息一つ一つが首筋にかかった。


だんだんと自分の鼓動が早くなっていくのが分かった。叶との距離が近すぎて、鼓動音が混ざっているような気さえする。


「私ね……」


ぎゅう、と手にさらに力を入れて、叶の柔らかい体に抱きしめられる。そして───………。


そこまで言って、かくんと叶の体から力が抜けた。


もはや力の入っていない彼女の腕をゆっくりと外す。その伏せられたまぶたにかかりそうな前髪をそっとずらし、自分は少し離れたところに座る。


「はぁぁぁ………」


乱れた息が妙に虚しい。

続きを聞きたいと思えばいいのか、安心すればよかったのだろうか。


自分が叶に思いを寄せているのは確実だ。ただこういう時にはどうしても腰が引けてしまう。今の関係が壊れてしまうのが怖いと言ってもいいのかもしれない。


ただ、そんなときに限って叶の距離の詰め方が乱雑だったりするのだ。適切な距離を保とうとしたら、いつの間にか抱き着かれている、みたいな。

何が言いたいのかと言えば、非常に心臓に悪かった。


(俺は、どうすれば………?もういっそのこと楽しめばいいのか。それはそれで不誠実なのではないだろうか?)


颯は、傍から見れば「何言ってんだこいつ」とでも言いたくなるような思いを抱いていた。明らかに詰めても変わらないような至近距離にいるというのに。


颯の男性的な指先が叶の頬を撫でる。

叶は、酒の影響か未だに頬が紅潮していた。普段とは違い淑やかな様子の彼女は、小さく微笑みを浮かべたまま颯の方に手を伸ばしている。その手を優しく握り、そのか細い指を折れてしまわないようになぞった。


「んん………。ゆーま」


叶は小さく身じろぎをし、薄く瞼を開けて颯の名前を呼ぶ。彼女は握られている手を大事そうに抱きしめた後、もう一度目を閉じた。


………本当に、心臓に悪いから急に行動しないでほしい。


しょうがないというか、彼女の親がそういう人なので仕方がないかもしれないが。希子は特に、自分の身内には本当に甘い人だ。それに加えていつでも微笑んでいるような博人の性格が混ざっているのだから、破壊力が高いことこの上ない。


あきらめにも似た感情が沸き上がった。

本来は寝袋の中で寝るものなのだが、叶はもう既に寝てしまっているのでそれもできない。寝袋を開いてブランケットのような形に広げ、叶と自分の両方に掛けて横になった。


明日の朝、叶が普通に起きられればいいのだが。今日飲んだ酒の影響を心配しつつも、颯は眠りについた。






朝、鳥の優しげな鳴き声が耳朶を打つ。それ以前に、なぜかたびたび手を強く握られていて目を覚ましかけてはいたのだが。


視線を横に向けると、薄く頬を染めた叶が俺の手をにぎにぎといじっていた。


「………おはよう、叶」

「おおおおお、おはようゆーま!?」


叶は、颯の手をいじっていたのがばれてまずいと思ったのか後ずさろうとする。そのの手を握って、自分の近くに戻す。

ぽすん、と颯の胸元に縮こまった様子の叶が収まった。


「別にいくらでもいじっていいけどな」


思わず漏れ出たあくびを止めることもせず、ぼんやりとした頭で体に掛けていたものを引き寄せる。


同じ布団の下に入っていた叶が、観念したように颯の手をいじり始めた。途中から真剣な瞳になった彼女を見つめつつ、もう一度まどろみの中に体を投じる。


叶のその柔らかく細い手を、握り締めながら。



その後の「目を覚ましてー!」とか「……寝起きのゆーまかわいい」とかいう叶の言葉は、再び熟睡し始めた颯の耳に届くことはなかった。

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