第三話

「あ、お兄ちゃんやっと起きた?」

「ん、あぁ、おはよう。琴葉」


 琴葉が自分のアパートに家出してきて今日で六日目。

 朝、こうして誰かの声を聞いて起きるようになったのはいつ以来だろう。でもそれは不快ではなく、僅かではあるが人間らしい生活を取り戻す一助になっていた。誰かと一緒に生活するだけでここまで不安が取り除かれるなんて、少し前の俺は想像していなかった。これがもし真の両親だったとしたらまた違うんだろうが、きっと相手が妹の琴葉だったからだろう。


「朝ご飯、作ったから早めに食べてね」

「毎朝悪いな」

「お兄ちゃん、こんなに朝弱かったっけ?」

「一人暮らしをしてるとどうもね。琴葉も大きくなったら分かるよ」

「私もう子供じゃないし。それに私が一人暮らししてもお兄ちゃんみたいな生活絶対にしないもん」


 そう不貞腐れながら、琴葉は昨日までと同じように部屋の隅にちょこんと座って俺のノートパソコンを何やら弄っている。雪の降るこの時期にどこかへ遊びに行く気にもなれず、かといって娯楽品が充実しているわけではないこの狭いアパートで琴葉が暇をつぶせそうなものといえばそれしかなかった。幸い大学にほとんど通っていないからパソコンは新品そのものだし、見られて困るデータが入っているわけでもない。

 用意してもらったカップスープに口をつけながら、何の気なしに琴葉に聞いてみた。


「琴葉、いつも俺のパソコンで何してるんだ?なんかずっとキーボード叩く音がするけど」

「何って、決まってるでしょ。いつものやつだよ」


 いつものやつ?いつものやつとはなんだ?どうやら本物の真しか知らないことらしい。

 どう返事をするべきかと頭を悩ませていると、琴葉がこちらにノートパソコンのディスプレイを向けて寄越してきた。


「ん、どうした?」

「これ、今までで一番の自信作なんだけど、読んでくれない?」


 ———読む?

 

 琴葉に渡されたノートパソコンには、おびただしい数の文字の羅列があった。

 それは小説だった。タイトルと思われる一番大きな見出しには、【また明日、僕を殺しに来てくれ】などという物騒な題名が記載されていた。その後に続く本文を目で追って読み進めていく。


『僕の人生は二十歳の誕生日に終わる。そう宣告されたのは、今から九年前のことだ。』

『九年前、僕は一人の少女を死に追いやっている。彼女が死んでしまったのは紛れもなく僕のせいだ。そして、恐らくそれが原因で、僕の人生は二十歳で終わることになったのだと思う。』

『そう、この僕が決定的に他の人間と異なっている部分。それは自殺願望が異常に強いということだ。』

『僕が理想とする天国とは、自分以外に誰も存在しない世界、いわば“僕だけの世界”だ。』


「……琴葉」

「ど、どうかな?」

「これ、本当にお前が書いたのか?」

「んなっ!あ、当たり前でしょ!!馬鹿にしてるの!?」

「いや、違う。むしろ逆だ」


 高校生でここまでちゃんとした物語を書けるなんて凄い才能じゃないか。少なくとも素人の俺から見れば書店に売っている小説だと言われても疑いようがない。


「大したもんじゃないか。こんな難しい言葉よく知ってるな。それでいて内容もユニークですごく面白い」

「本当?すごく嬉しい」


 率直な意見を伝えると、琴葉を目を輝かせて満面の笑みを浮かべた。その無垢な笑顔が、今の俺にはどうしようもなく眩しい。罪悪感すら感じる。琴葉は兄である真にこれを読んでもらいたかったんだろうが、中身は兄じゃない誰でもない誰かだ。兄への親愛の情が強ければ強いほど、心が締め付けられる。


「まぁ、ネットの感想も結構評判良いんだけどね」

「ネット?小説をネットに上げてるのか?」

「?お兄ちゃん何言ってるの?昔からずっとそうしてきたじゃない私」

「ッ、あ、あぁそうだっけな」


 どうやら妹の琴葉は小説を書く趣味があったらしい。そんな話は生きていた頃の真には一度も聞いたことはなかったけど。


「ねぇ、お兄ちゃん。私、小説家の才能あると思う?」

「あぁ、あると思うぞ。少なくとも俺よりかは」

「———あのさ、お兄ちゃん。私が家出した理由なんだけど」


 琴葉は視線を俯けながら何やらモジモジとしている。

 家出の理由。琴葉を部屋に置いてから今日まで聞いてはいなかったし聞く気もなかった。悩み多い年頃だ。ましてや女の子なら尚更。一応世間的には家族ということにはなっているが、そう安易に踏み込んでもいい話でもないだろうと思っていた。


「あのね、私の書いた小説が出版されることが決まったの」

「え?本当に?」

「うん、ネットで応募した作品が出版社のコンテストで入賞したから」

「マジか、良かったじゃないか」

「それでね、私———」


 どうやら琴葉に家出した理由を聞こうとしなかったのは正解だったらしい。


「高校卒業したら、小説家になりたいの」

「……お前、それは」


 この手の話には詳しくないが、小説家で生計を立てるということの難しさは俺にもなんとなくイメージできた。少なくとも、賢い進路選択ではないということは。

 とりあえず、探りを入れてみよう。


「お父さんとお母さんには話したのか?というか、それが原因?」

「……うん。二人に話したらもうとんでもない勢いで反対されて。出版だって決まったのに。一ノ瀬家始まって以来の大喧嘩だよ」


 琴葉はそう力なく笑ったが、両親に自分の夢を否定されてどれだけこの子の心が傷ついたのかは本当の兄ではない俺にも察することができた。

 だが、両親が反対するのも無理はない。娘に幼い頃から様々な教育をさせてきたのに、目指す進路が小説家という不安定な道というのはそう簡単に許せるものではないだろう。

 

「それでね、お兄ちゃん。お兄ちゃんに、二人を説得してほしいの」

「俺に?」

「うん。お兄ちゃんが賛成してくれれば、二人も納得してくれるかもしれないでしょ?」


 それは、俺じゃないお前の兄さんだったらの話だ。

 そう言いたくなった。

 今の俺は自堕落で生きる気力のない燃えカスなんだから。

 

 ———真だったら、こういう時妹になんて言ってやるのかな。


 俺の知っている真なら。完璧で清廉潔白で模範的で理想的な一ノ瀬真だったなら。

 俺は、それだけを考えて口を開いた。


「琴葉、それは俺にも無理だ」

「え……」

「いくら才能があるといっても高校を卒業してすぐっていうのはちょっと焦りすぎだと思うよ。せっかく進学校にも通ってるんだし、大学に進学して勉強しながら目指していくっていう道も———」

「ひどい!!!」


 琴葉は一際大きな言葉で叫んだ。

 目に涙を溜めて、睨むように俺を見つめていた。


「ひ、どいよ。お兄ちゃんは、私のこと信じてくれるって、思ってたのに……」

「いや、だからな、琴葉」

「もういいよ!お兄ちゃんの嘘つき!!」


 そのまま琴葉は部屋を飛び出していった。雪の降る寒空の下、コートも手袋もマフラーも持たずに。

 本当なら、追いかけるべきなんだろう。本当の兄でなくても、良識のある人間なら、追いかけて、それから謝るべきなんだろう。でも俺は、その場から動けなかった。

 ただ、悔しさと怒りだけが心に渦巻いていた。目に涙が滲んだ。怒りに任せて壁を殴りつけた。鈍い音が部屋に響く。隣の部屋の住人は驚いただろう。


「…………畜生」


 ———畜生。畜生、畜生。畜生畜生畜生。


「俺は、お前の兄貴じゃねぇんだよ」


 ———真じゃないんだから、真ならどうするかなんて分かるわけないだろ。


「———じゃあ、俺は……誰だ?」

「誰なんだよ、俺は……?」


 琴葉に用意してもらったカップスープは、いつの間にかすっかり冷めきっていた。


***


 信じられない。お兄ちゃんがあんなことを言うなんて。

 お兄ちゃんだけは、私のこと応援してくれるって思ってたのに。


 カッとなってお兄ちゃんのアパートを飛び出して、どれくらいの時間が経ったんだろう。気付くと私は知らない住宅街の雪道を歩いていた。歩道はそれなりに除雪されていたけど、雪は現在進行形で降り積もっていてやっぱり歩きづらい。


「……寒いなぁ」


 勢いで出てきたから、上着もろくに着込んでいない。空から絶え間なく降り続ける雪は確実に私の体温を奪い続けていた。

 どうしよう。どこへ行こう。

 家に帰る?お金もないのに?

 お兄ちゃんのアパートに戻る?今は無理。

 なら、私の行く場所なんて、もうどこにもないじゃない。今も、これから先も。たった一つの夢も否定されて、いったい私はこれからどこを目指して歩いていけばいいんだろう。

 

「……嘘つき」


 お兄ちゃんがあの時ああ言ってくれたから、私は小説家になる夢を持つことができたのに。


▼▼▼


「———以上、めでたしめでたし」

「お兄ちゃん、ちっともめでたくないよ!」


 まだ私が小学校に上がったばかりの頃。お兄ちゃんは勉強の合間を縫って私に短い児童文学書を読んでくれていた。


「え?なにが?」

「なんで最後ヒロインの女の子が消えちゃうの?主人公と結婚とかするんじゃないの?」

「いや、それがハッピーエンドではあるけどね。でもね琴葉、現実はそんなに甘くはないんだよ」

「やだ!私悲しいのやだ!」

「うーん。琴葉、そこまで言うなら自分で作ってみたらどうだ?」

「え?」


 自分で作る?何を?


「琴葉ももう小学生だろ?文字の読み書きはできるんだし、自分で物語を書いてみるのはどう?」


 それが、私が小説を書き始めたきっかけだった。

 ハッピーエンドのお話が読みたい。そんな子供っぽい考えもあるにはあったけど、それ以上に私は、大好きなお兄ちゃんに褒めてもらいたかった。

 自由帳のページを切り抜いて、画用紙に表紙の絵を描いて作った私の初めての小説は、今にして思えばひどく不格好で内容も稚拙だった。でも、お兄ちゃんは、それをすっごく褒めてくれて。


「これ、琴葉が書いたのか?」

「うん」

「すごいじゃん!うん、すごく面白いよ!」


 私に気を遣ったお世辞だったのかもしれない。でも、それでも私は嬉しかった。私の書いた小説をお兄ちゃんに読んでもらえること。読んだお兄ちゃんが褒めてくれること。いつも忙しいお兄ちゃんが、私の小説を読んで笑顔になってくれること。

 三冊目の小説を読んでもらった頃に、お兄ちゃんは言った。


「琴葉はきっと良い小説家になるんだろうな」

「え?小説家?」

「ああ、琴葉ならきっとなれる。お兄ちゃんも応援してるよ」

「う、うん!私、頑張る!」


 あの時のお兄ちゃんの笑顔が、今も忘れられない。


▲▲▲


「嘘つき……嘘つき………」


 嘘つき、と一言ずつ言葉にするたびに、目から熱いものが流れ落ちる。どれだけお父さんとお母さんから与えられる勉強が厳しくても、小説とお兄ちゃんだけは私を裏切らないと思っていたのに。小説を書くことだけが、私の支えだったのに。小説家になることだけが私の夢だったのに。

 私の人生は、私のものじゃないの?

 どうして、やりたいことをやらせてもらえないの?

 どうして?


「琴葉!」


 聞き覚えのある声がして振り向くと、そこには息を切らしてこっちを見るお兄ちゃんの姿があった。その手には、私の着てきたコートがあった。きっと、沢山走り回って私のことを探してくれていたんだと思う。

 でも、私はお兄ちゃんがいるのとは反対の方向に駆けだしていた。


***


「琴葉!」


 やっと見つけた。一体どれだけ探し回っただろう。琴葉は携帯を持ってないし連絡の取りようもないから本当に苦労した。もっと早く追いかけていればここまで走り回る羽目にもならなかったんだろうけど、そこはまぁ、俺も頭を冷やす時間が必要だったし。

 これでようやく安心だと足を止めて呼吸を整えた瞬間、目の前にいた琴葉は踵を返すように駆け出した。

 琴葉の行動に俺は一瞬動くのが遅れてしまう。

 そして、琴葉の走り出した先が赤信号の横断歩道だと俺が気づいた時には、走る琴葉のすぐ傍に乗用車が接近してきていた。

 その時、俺の頭にはあの日の光景が鮮明に浮かんでいた。俺と真の呼び声でこちらに駆け寄ってくる琴葉。トラックの走行音。血相を変えて琴葉を助けに飛び出す、柚木良平の姿を借りた真。

 俺は、無我夢中で駆け出した。


「琴葉、危ない!!」


 それはもう、陸上選手のような美しく無駄のない走りからは程遠い、無様に手足をばたつかせたような動きだった。


 ———間に合え!とど、け……!


 俺は腕が千切れるくらいの勢いで琴葉の背中に手を伸ばし、そして確かに右手が彼女の背中を突き飛ばす感覚を覚えた。

 

 その直後、俺の意識はこの世界から断絶された。

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