耳が見えるよ

蒼天 隼輝

耳が見えるよ

 数年前、僕は、大学の長期休みを利用して一人でパワースポット巡りをしていた。単純にきれいな景色を楽しみたいという思いもあるのだが、真の目的は別にあった。

 当時の僕は、決まって普通の人が通らないようなルートでパワースポットにたどり着くようにしていた。パワースポットというだけあり、古い物や言い伝えになぞらえた建造物が、目的地の周りにもわんさかある。順路になっているような道はともかく、裏側の道は人の手が全く行き届いていない。そんな場所は、ぞっとするほど怪しいのだ。腐って屋根が苔にまみれた社、台風か何かで崩れた石柱、原形をとどめないほど風化した家……。僕は元々、怪しく恐ろしさをたたえた何かが大好きだった。


*****


 あの日の目的地は、山の中にある滝を売りにしたパワースポットだった。早速僕は順路を大きく外れて山の中に立ち入った。その周りに何があるかを探しては、写真を撮ったり目に焼き付けたりと、充実した探検を楽しんでいたと思う。


 問題はその後だった。夕方、天候が変わって滝が増水し、山のあちこちが急にできた川に分断されてしまったのだ。案の定、僕がいた滝の裏側付近は分断されて、宿に帰れなくなってしまった。とにかくこの雨が引くまでは川を無理やり渡らない方がいいと思った僕は、まず身の安全を確保するのに必死だった。

 服がありったけ雨水を吸い込んだ頃、ようやく僕は小さな小屋を見つけた。さすがに普段は建物の中に足を踏み入れたりはしないのだが、雨脚は強まる一方で、気を抜けばいつ崖下に滑り落ちるか、わからない事の方が怖かった。幸い家の周りは地盤がしっかりしている。僕は、何も考えずに中に飛び込んでいった。


 中は、玄関代わりの土間と4畳半の畳張りの部屋だった。もちろん明かりなんてない。持ってきたランタンを中央に置き、僕は濡れた服を何とか絞りつつ、雨が弱まらないかどうか耳を傍立てて聞いていた。雨の音しかしない、暗くて冷たい日本家屋。正直何もすることがないので、山を駆けまわっていた疲れもあって、僕はいつの間にか眠ってしまっていた。



 自分の体の痙攣で目を覚ますと、雨の音はほとんど変わらず外がさらに暗くなっていた。ランタンは切れていたが、そもそも電池の残量を確認していなかったのでどれぐらい時間が経ったかはわからない。参ったなあと思ったその次の瞬間だ。


 正面、木の板を打ち付けただけの壁に、何やらこぶしより小さめの白い影が見える。そして、だんだんと暗闇に慣れてきた目が、ついに像を結んでしまった。


 ……耳だ。向きとしては、左耳にあたる。


 僕は唖然として、誰かが合いの手を入れてくれるわけでもないのに、「は?」と口に出してしまった。なぜ耳なのか。ランタンをつけたときにはなかったのだから明らかに怪異の類なのだが、僕は気が抜けてしまった。

 普通、怪異というのはその姿、行動、音声など何らかの悪意を感じる。正体不明の何かが自分に向けられ、脅かされる。だから怖い。よって、「逆に悪意を感じようがないものというのは怪異であっても怖くない」……というのが僕の持論だった。よく仲間たちとホラー物の映画や作品を見る時に、僕が振りかざしていた論評でもある。


 なので、壁に耳が生えている事に一瞬驚きはしたが、僕の反応はそれだけだったのだ。それどころか、恐怖が薄れたせいで好奇心の方が勝っていく。うごめくわけでもなく、ただそこに生えているだけの耳とあればこれほど無害なものはない。正直、なんだそれだけか、とすら思っていた節があった。



 それからしばらく、僕は耳をぼんやり見つめながら雨が止むのを待っていた。耳の正体も気になりはしたが、このまま何もなければ僕はここで雨宿りをしただけになる。やり過ごせば問題ない、と思っていた。


 ……ごぽん。


 小さくも、しかし明らかに雨とは異なる異音に僕は体を震わせた。まだ何かある。さすがにこれはやばいかもしれない。そう思った僕は、つかないランタンにそっと手を伸ばし、バッグの中にしまった。雨は弱まる気配がないが、いざとなったら逃げなければ。僕はこの時になってようやく緊張感を取り戻していた。

 しかし、なかなか次の音はならない。音も小さかったし、空耳だろうか。ついでに耳も消えてないだろうかと、僕は正面の壁に視点を戻した。


 しっかり見なければよかったと、今でも思う。白い耳から、何かがつー、っと垂れ落ちていた。急に胸やけを覚えたのも、ほぼ同時だった。それも視覚的な嫌悪からではなく、嗅覚が異常を訴えていた。直感的にそれがはわかったはずなのに、突然のことで気が動転していた僕は、すぐに壁から離れることができなかった。


 ……ごぽっ、べちゃっ、じょろっ、じょろろろろろろ


 何が起きたかを理解した僕は、絶叫した。壁に生えた耳の穴から、湯気を伴った生暖かい液体が噴き出していた。暗くて何が吐き出されているのかは見えないが、この独特な酸味を帯びた刺激臭はどう考えても吐瀉物だった。僕に向かって吐き出されたようには見えなかったが、耳からそんなものが出ていること自体が異常事態だ。半狂乱になった僕は、 雨脚の強さも気にせず荷物をもって外に駆け出した。




 そこから、どうやって下山して宿のドアを無理やり叩いたかは覚えていない。声にならない叫びをあげていただの、服についていた匂いがひどかっただの、いろいろ教えてもらったが、心当たりがない。とりあえず言えることは、あの時はたまたま雨が弱くなっていて、僕は無事に帰ってこられたという事だけだ。


 あの耳の正体を、僕はもう考えたくはない。

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