一 章

夏でも冷たい流れに素足を差し入れて、水を楽しんでいると、目の端にキラッと光る何かがあった。

手を伸ばして川底を探ると、ゴロリと子供の拳ほどの石が指に触れる。灰色の地にところどころ深みのある緑の色が見える。

奴奈川姫(ヌナカワヒメ)はふふっ、と声に出して笑って、腰に下げた袋に石を入れた。ヌナカワは、この越の国を治める若き女王である。父の奴奈川彦(ヌナカワヒコ)がまとめ上げた越の国をさらに豊かにしていくために、何が必要か日々考えているところであった。

越の国の特産品は翡翠である。

先ほどヌナカワが腰の袋に入れたのも、翡翠の原石であった。翡翠を磨いて丸く加工し、穴を穿つと身分の高い者が身につける玉になる。越の国の翡翠は色が美しく、加工もしやすい。遠くからも欲しいという者がたびたび訪れては、代わりに貴重な物を置いていく。鉄器や焼き物、米や豆などの穀物など。顔料や、染め物に使ったり、薬にしたりする植物など、ありとあらゆる物が集まって来ていた。

その日も川底から数点の翡翠の原石を見つけて、ヌナカワは宮に帰って来た。

「姫さま、お客がお見えですぞ」

帰るのを待っていた佐川彦(サガワヒコ)が、走り出て来た。サガワヒコは家老のような仕事をしてくれている、ヌナカワにとっては従兄弟に当たる人物だった。

ヌナカワは首を傾げた。今日は誰も訪れる予定はなかったはずだった。

大広間に行くと、見知らぬ男性が窓際に佇み、外を眺めていた。

ヌナカワの心臓がとくん、と音を立てて鳴った。

その男性は濡れたような黒髪をみづらに結い上げ、こちらに無防備な横顔を見せていた。大きな二重の目は黒目勝ちで、今は微笑むように少し細められている。

(なんと美しい人だろう)

ヌナカワは今まで男性を美しいと思ったことなどただの一度もなかった。父のヌナカワヒコは一人娘のヌナカワヒメをまるで男の子のように育てた。屋外での作業も積極的にさせたし、乗馬も力仕事もさせた。冷たい川に足を浸けての翡翠とりも、無論させた。そのおかげでヌナカワは誰よりも上手く石を探せるのだった。

男勝りに育てられたこともあって、ヌナカワは男性を意識したことはなかった。ずっと近くにいたサガワヒコのことも、男性という感覚ではなく、部下という捉え方をしていた。

「あの…あなたは?」

ヌナカワの問いかけに、男性はこちらを向いた。正面から向き合う形になって、ヌナカワの心臓はますます高鳴った。

男性はまだ若かった。20歳をいくつも越えてはいないだろう。背が高く、均整の取れた体つきをしている。そして左右が完璧に整った顔立ちをしていた。弓形の漆黒の眉に象られた大きな目。ほっそりと高い鼻梁。笑みを含んだような唇。額は広く、輪郭はほっそりとしながら、男性らしさを失わない鋭い顎が印象的だった。

(太陽の光が人の姿を取ったらこんなふうになるのだろうか?)

「翡翠の女王…噂に違わぬ美しい方だ」

男は目をほんの少し細めながら言った。

「私はオオナムチという者。翡翠の美しさを聞きつけて参ったのだが、翡翠よりも美しいものを見つけてしまったようだ」

まるで星が降るような美しい声で、男は言った。

雷にでも打たれたように動けないでいるヌナカワのすぐ近くまで男は近づいてきて、静かにため息をついた。

「ヌナカワヒメ、あなたはとても若くて美しい。川底を探って拾い集めた翡翠たちよりも、もっと。あなたと一緒に永遠に暮らして、あなたが年老いてもまだ美しいその姿を、私だけのものにしておきたい」

オオナムチと名乗った男は、歌うように言って、ヌナカワを抱きすくめようと手を伸ばした。

ヌナカワはひらりと身をかわした。

あまりの素早さとしなやかな身のこなしに、オオナムチは驚いたように一歩下がった。

ヌナカワは音を立てて打つ心臓に手を当てて、大きく息をひとつ吐くと、言った。

「明日もう一度私を訪ねていらして。そうすれば少しは真心があると信じましょう」

オオナムチはハッとしたようだったが、薄く微笑むとゆっくりと頷いた。そして音も立てずに出て行った。

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