第56話

 それから2日の後、依里子が出かけて屋敷に一人残された貴禰は寝室でぼんやりとホワイトボードの計画表を眺めていた。本当なら、今日は、依里子が休みのはずで、あれこれ考えた計画のうちいくつかを実践するつもりだったのに。だが、またしても職場から急な呼び出しがあり、彼女は慌ただしく出て行ってしまったのだった。


「勤務の変更について相談したい、とのことなんですけど。何かしら? これ以上、仕事を減らすという話でないといいんですけど」

 そう言いながら、梅雨寒の雨の降る中を、走るようにして家を出て行くその背に、走らないの! 焦るとろくなことないわよ、道も滑りやすいし、気をつけなさい、と声をかけたが、聞いていたのかどうか。


「まったく、困ったものね」

 誰が? 何が? 自分でもしかとはわからないまま、貴禰はそう呟いて思考を断ち切るように立ち上がった。いつまでもこうしていてもしかたない。プランBに、取り掛かろう。


        ***


 一方、大急ぎで元の職場に駆け付けた依里子は、こちらの施設でも週2日ほど勤務してくれないか、せめて昼の時間帯だけでも、との打診を受け目を丸くしていた。


「なぜです? こちらは、あのアイさんが活躍してらっしゃると思っていましたが」

 皮肉でも何でもなくそう聞くと、所長は、嫌だなあそんな言い方、勘弁してよ、とへらへらと笑って見せた。そんな言い方って、何よ? 私の言葉に含みがあるように感じるのは、あんたがやましく思ってるからでしょ! と内心で毒づくが(最近こればっかり…)、とりあえず、話を聞くことにした。


「どうも、入居者ウケがよくないんですよ」

「何の?」

「あのロボット。認知機能がイマイチな方々相手なら、イケると思ったんだけどね」


 先日までは『職場のエース』とかなんとか呼んでいたくせに。それが一転、うまく行かないとなったら苦々しげに物扱いの呼び方、しかも、入居者の皆さんをイマイチ呼ばわり。依里子の心中に、もやっとした嫌悪感が沸き上がった。


 …なぜかしら? 仮にも、私のほうをより評価してくれて、今より高い給与が期待できる申し出を受けているというのに。以前の自分だったら、それはもう、愛想よく感謝の言葉を述べて、『アイさん』をさりげなく貶める、所長の発言に迎合するような言葉の1つや2つ、口にしていただろうに。これは、義憤というものかしら?

 いいえ、そんなはずない、私がそんな正義の味方みたいな感情を抱くなんて。これは、そう、自分のことをいかにも邪魔者扱いでいたくせに、今は歓迎だなんて、とてもじゃないけど信用ならない、尻尾を振ってほいほい戻る気にはなれない、そういう意味のムカつきだわ、きっと。

 大体、元の職場に出戻ったら周囲からどのように受け止められるのかだって、気になる。入居者の人に、あらあなた戻ってきたの? 今さら? とか言われたらと思うと、すごく気が重い。


「ロボットの介護に抵抗感を覚える人が、想像以上に多くて。一部の入居者からは、怖いとか嫌だとか言われてしまう始末でね。口にこそ出さないけど、違和感を覚えている人も結構いるみたいなんですよ。だから、入居者と直接接する仕事を減らして、裏方の業務をしてもらっているんだけど、それも限界があるしねえ」


 高いリース料払っているのに、まったくまいっちゃうんだよね、と、依里子の胸中など一顧だにしない所長は、“使えないロボット”の扱いに関する苦悩を、滔滔と話し続けている。より一層ムカつきを強めながらも、長年培ってきた猫かぶりテクで話を聴き通し、結局、元の施設と今の施設、2日ずつ勤務することで合意した。


 それにしても、アンドロイドのアイさんの働きぶりは完ぺきに見えたのに。なぜ、ウケがよくないのかしら?

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