2.


「ここだな」

 マスク越しのくぐもった声で呟きながら綾城が車を止めたのは、小高い丘の上に建てられた真新しいマンション。小春日和の柔らかな風に揺られる真っ黄色のイチョウ並木に外周を彩られ、その先に見下ろせる街並みと合わせて非常に良好な景観を描き出している。

 この辺りは東京郊外の中でも比較的土地が余っている方であり、バブルがはじける前と後で新築の数は大して変わらない。いわゆるベッドタウンと呼ばれる町であったが、生まれてこの方地元から出たことがない寮住まいの千尋にはいまいちその感覚が分からなかった。

「いいとこに住んでたんですねぇ」

 駐車場に降り立った千尋の呑気な一言に眉をひそめつつ、綾城がリストにあった情報を読み上げる。

小島こじま おさむ、27歳会社員。勤め先から欠勤の知らせを受けた両親からの通報だ。実家が遠いらしく、連絡もつながらなくて不安なので捜索をお願いしたいと」

「なるほど、じゃあ自宅にはまだ誰も立ち入ってないんですかね?」

 オートロックの自動扉前で立ち止まり、千尋が問う。ガラスの向こうに見えるエントランスは暗く静まり返っており、人の気配は感じられない。

「そうらしい。管理会社の方に話は通してあるが……っと」

 綾城が管理人室のインターホンを押すと、待ち構えていたかのように通話がつながった。

〈あ、警察の方ですか?〉

 こちらが何のために覆面パトカーで来たと思ってるのかと綾城は僅かに顔をしかめたが、動揺を隠せない様子の管理人のために手帳を見せつつ努めて穏やかに答える。

「はい。お話はどこまで?」

〈ええと、その、行方不明の方が出たのでお部屋を確認したいと……〉

「そうです。案内をお願いできますか?」

〈は、はあ。少々お待ちを……〉

 通話が切れて十数秒後、エントランスに現れたのはまだ年若く不安に怯えた青年だった。

「お、お探しのお部屋は四階です。こちらへ……」


 エレベーターを出て、夕暮れが影を落とす薄暗い廊下を進む。

「あ、あの、連絡がつかないということは、つまり……お部屋で亡くなっているかも知れないということですかね……?」

 歯の根が合わない声で管理人が早口に捲し立てる。社会に出て間もないためなのか、オブラートに包むだとかそういうことは苦手なようだった。

「その、落ち着いてください。まだそうと決まったわけでは……」

 見かねた千尋がなだめようとするが、あまり効果はなかった。

「す、すみません。私、こういうことは初めてで……あ、こ、このお部屋ですね」

 最も奥まったところにある部屋の扉を、管理人が震える手で開けていく。

「ありがとうございます。ここからは私たちだけで大丈夫ですんで、ここで待っておいてください」

 ゴム手袋を着けながら綾城がそう告げると、彼はどこか安堵したような目で頷いた。


 綾城が勝手知ったる様子で玄関口のスイッチを入れると、仄かにオレンジがかった電球の明かりが灯った。電気はまだ止められていないようだ。

「……とりあえず、ニオイはないですね」

 肩越しにひょっこりと顔を出した千尋が小さく呟く。

「まだ分からん。手分けして見ていくぞ」

 管理人によると間取りは特に特徴もない1LDK。誰かと住むには手狭だが、一人では持て余すくらいのスペースがある。

 つまり、どこで冷たくなっていてもおかしくはないということだ。

 綾城がバスルームやトイレを見ている間に千尋はその先のリビングを目指す。わずかに西日の差す暗い部屋の天井に、電灯以外の何かがぶら下がっている様子はない。

 明かりを点け、お世辞にも片付いているとは言えない埃っぽい床を踏みしめながらテキパキと他人のプライバシーを侵害していく。この職に就くまでは、自分がこんなことを無表情で出来るようになるとは想像もしていなかった。

 思えばまだ日が浅いとはいえ、色んなものを目にしてきたものだ。

 人が凶行に及ぶ瞬間の歪んだ表情、ちょっと前まで人の形をしていたはずのモノ、自分だったら死んでも人に見られたくない人生の恥部、などなど。最初こそ涙と吐瀉物と羞恥に塗れていたものの、やがては慣れた。肝が据わるというのはこういうことなのかと思った。

 そうやって自分の心に鎧を着せたつもりになって日々を過ごしていたところに飛び込んで来たのが今回の事件だ。

 行方不明者の同時多発。原因がなんであれ、死体の一つや二つ見るだろうと覚悟は決めていた。

 ところが、続いて訪れた寝室の明かりを灯した瞬間、その覚悟は意味を失った。


 天井を見るな


 ヒッ、と小さく声を上げ、壁一面に書かれたその文字に釘付けになる。インクか何かで直接──おそらく素手で──乱雑に書き殴られたそれは、警告以外のなにものでもなかった。

 予想もしていなかった光景に思考は完全に止まり、呼吸音と心音だけがうるさいくらいに鳴り響く。何もない。あるはずがない。たまたまこの部屋で最初に目に入ったのがこの文字だったので確認したわけではないが、一体そんなところに何があると言うのか。

 ちょっとだけ見てみよう。なんてことはない。せいぜい電灯か、あったとしても器用に張りついた髪の長い──


「おい!」

 

 突然肩を叩かれ、比喩でなく飛び上がった。

「綾城、さん……」

 後ろに立っていたのは他の部屋の探索を終えた綾城だった。

「何突っ立ってんだ。何か見つかったのか?」

「い、いえ。でも壁に……あれ?」

 振り向いた先にあったのは、ただ真っ白なだけの壁。何度見直しても結果は同じだった。

「どうした」

「いえ……何でも、ないです」

 他に何も言えず、千尋は黙りこむ。

「なんだ、疲れてんのか? ……まあいい、少なくともここに本人はいないみたいだな。生活の痕跡を見る限り、しばらく帰ってもいないらしい」

 綾城は署内ではまだ若手扱いだが、鑑識課を経て刑事課で何年も泥を啜ってきたベテランである。カンも優れており、見立ての精度は折り紙付きだ。本人はあまり断定口調で話すことはしないが、千尋からすればそれはほとんど確定事項に等しい。

「財布やケータイはなかったですけど、通帳と印鑑はありました。強盗に入られたとか、夜逃げとかじゃなさそうですね」

「だとしたら、なんだ? ちょっとコンビニに買い物しに行ってそのまま拐われた、って感じか? ……自分で言うのもなんだが、飛躍しすぎてるな」

 顎をつまんで綾城が唸る。

「情報が足りないですね」

「そうだな。とりあえずは次に向かうか。それで状況が同じなら、ひとまず誘拐の線で捜査を進める」

「分かりました。……ちなみにその場合、リストの残りはどうするんです……?」

 千尋が恐る恐る聞くと、綾城は溜息を吐いた。

「どうもこうも、捜索願が出てるんなら行くしかないだろう。全員が全員こうして消えてるとも限らんしな」

「ですよね……」

 捜査はまだ始まったばかり。行く末に一抹の不安を覚えつつ、千尋は部屋を後にする綾城に続いた。

 意識したわけではないが、結局天井は見なかった。

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