迷宮入リノススメ

 目が合うと、少女はぱっと花が綻ぶように笑い、こちらに駆け寄ってくる。「書庫内で走るな」と友人――少女の兄が苦言を零す。「気をつけます」と屈託なく応え、隣の書棚の前で大きく背伸びをした。

 眉一つ動かさずに少女の背後に回った友人は、所望するものを棚の上段から黙したまま取り出してやった。こくこくと嬉しそうに頷く妹君と淡々と頷き返す兄君の身長差と年齢差は大きく、なんとも微笑ましい。

 淡い紫色の瞳をきらきらと輝かせ、大きな図鑑を腕いっぱいに宝物のように抱える少女はとても可愛らしい。

「なるほど。このあと君の王子様とサロンで読むんだね。道理でうきうきするわけだ」

「婚約者という立場に甘えず、ヘンリー殿下に失礼のないように」

「まあまあ。君のこわいお兄様の愉快な嫉妬は気にせず、素敵な時間になりますように」

 末弟と同じ色の瞳を片方つむって笑いかければ、少女は嬉しそうに頬を染めた。


「きっとなります。このところ、ヘンリーおにいさまと一緒にお茶を飲むととってもおいしいんですもの!」


 おやおやと瞬くと、少女はとっておきの内緒話をするように第二王子に微笑み返した。


「はじめのころはヘンリーおにいさまと一緒だとお茶もお菓子もほとんど味がしなかったのに、このごろはとってもおいしいんです。一緒でもきんちょうしなくなったということなのでしょうか?」

「ははは。それはきっと恋の魔法かもしれないね」


 今度は友人の返事がなかった。ついでにその姿もなかった。なんとなく足元を見ると、机の横で突っ伏すように彼が倒れていた。少女は三度、ゆっくりとまばたきを繰り返した。

「おにいさま、どこかぐあいが悪いのですか?」

「……いや、単にこけただけだ」

 友人は突っ伏したまま妹君に端切れ悪く応じた。

 と――

 扉の向こうから第四王子殿下の来訪を知らせる侍女の声がした。第二王子は学院帰りに直接寄ったので末弟より先に到着していたのであった。

「お先に失礼します。おにいさまたちもすてきなお時間を!」

 少女は惜しみなく笑い、淡い金髪を軽やかに揺らして扉の向こうに走り去った。

 手を振り返したまま友人を見やる。うめき声をあげながら、彼はのろのろと起き上がるところであった。王子は笑顔のまま、問う。

「真相は?」

 鋭く光った紫色の瞳をじっと向けられ、こちらにも思わず緊張が走る。やがて、友人は重々しく口を開いた。

「殿下が不敬罪に問わないとお約束いただけるのであればお話します」

「わかった。許す」

 頭でも痛むのか、こめかみを抑えて彼は重苦しい吐息と共に語り始めた。

「最近、我が家の茶と菓子がやけにうまく感じるのは、残念ながら恋の魔法というスパイスによるものでも魔術による幻覚作用でも料理人のレベルアップでもありません。全て父からの厨房への指示です」

 腑に落ちない顔をしていたら、彼は淡々と続けてくる。

「ですから、全ては父の指示だったのです。弟君のヘンリー殿下が味の極端に薄い茶と菓子に少しでも我が家を居心地悪く感じることで可及的速やかに王宮にお戻りいただいてしまえという寸法です」

「ええと、最近とても美味しく感じるようになったのは……」

「妹が先程とは反対にヘンリー殿下といると味が全然しなくて食が進まないと母に零したところ、『きっと素敵な恋の魔法にかかって緊張しているせいよ』等と返されて舞い上がったからですね。それで父が泣く泣く元のレシピで出すよう指示を出し直しました」

「……そのこころは」

「つまり、恋の魔法ということは一切関係なく、味付けによる物理作用で大きく味の変化があったということです。ヘンリー様が訪問する休日はいつも可愛い娘が父親のそばに一切寄りつこうとしない。その悲しみを父は単に晴らしたかった。それだけです」

 斜め上方向の真相に、第二王子は笑えばいいのか悲しめばいいのかわからなくなる。

 だが――

 その真相が娘の耳に届いたら休日どころか当分の間、侯爵は確実に口を聞いてもらえなくなることだけはよくわかったし、娘を持つ父親という生き物は悲しく難儀な運命を背負っているのだなあと理解した。

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