アマシキさんの言うことにゃ、まだあなたを選ばない。

綾乃雪乃

本物の夢

なんでもなかったある日のこと。

夢を、見ていた。


真っ白なキャンバスに大きな平筆でがむしゃらに描いたような、

色とりどりの色彩が目の前に広がっている、ゆめ。


ペンキをつけて、垂れるのも気にせず壁にべちゃりと叩きつけてしまったようなそれらは、よく見たらゆっくりと、ゆっくりと動いていた。


自ら空を表現するように左右に流れていく、青色。

職人が麺を創り出すように縦に伸びていく、黄色。

くるくると不規則に回っては分裂していく、緑色。



ぼうっと眺めていた僕は、その色彩を生み出す背中に視線を移した。



白いTシャツに白いオーバーオール。

まるで1つの作品のそのもののように色とりどりのペンキの色に濡れている。

でも、その髪の毛だけは、長く、黒く染まっていた。


ふわり、

ふいに髪が大きく揺れて、新しい色が現れる。


それは、肌色。



知弦ちづるくん、だ」



色の薄い唇が、僕の名前を呼んだ。

僕は過去の記憶を呼び起こす必要もなく、本当に驚くほどすんなりと、その名前が口からこぼれた。



天識あましきさん」






―――――――――――――――――――




この色彩の夢は、2度目だった。

最初は遠い遠い昔の話。

いつの季節だか忘れたくらいおぼろげだけど、景色ははっきりと覚えている。



「知弦くん」



高校生の時だった。

初めて同じクラスになった隣の席の女の子。

突然名前を呼ばれたことが印象的だった。



「……天識さん、だっけ」

「うん」



どうしていきなり下の名前?と聞いた。

そうしたら、黒い大きな瞳をぱちりとさせて、微笑む。



「いい名前だなって思って。

 知弦。千鶴、色とりどりの千羽鶴。ね」



柔らかな表情は恐ろしさを感じるほど純粋で、瞳は希望に煌めいていて。

僕は心を掴まれた感覚を始めて知った。




彼女は美術部だった。

1度だけ、誰もいない教室で絵を描いている姿を見たことがある。


なぜか僕の席に座って。



「天識さん、何で僕の…」

「うん、いい絵が描けそうだと思って」

「どういうこと?」



長いまつげを伏せてから、立っている僕を見上げてくる。



「千羽鶴。その色彩がほしい。

 そうすれば、この絵は完成する」

「……」



キャンバスを覗くと、それは眩しい世界が広がっていた。

青、黄色、黒、緑に紫。

様々な色が乱れているのに、どの色の主張も強すぎず、弱すぎず。

眺めているだけでこの色彩の世界に吸い込まれてしまいそうな、引き込まれる絵だった。



「すごく、綺麗な絵だね」

「………」

「天識さん?」

「………………足りない」

「え?」



こんなにきれいな絵なのに、何が足りないんだろう。

あいにく絵心のない僕にはちっともわからない。

既に十分完成されてると思うのは僕だけなんだろうか。


だけれど、その不満は彼女の表情からまるで文字が書いてあるかのように読み取れた。



「『赤』がね、足りないの」

「赤?」

「そう、赤が足りない」

「絵具は残っているみたいだけど」



ううん。

彼女は首を振る。



「私の欲しい『赤』は、この赤じゃない」




そんな会話をした夜、僕は始めてその夢を見た。




『知弦くん!』



目の前にいる夢の中の彼女は、あの時よりも大袈裟なほど機嫌がよかった。

頬に身体にべっとりと青色のペンキをつけたまま、僕の腕を強くつかんで引きずるように連れていく。

今まで一度も見たことのない、晴れやかな笑顔。

こんなに、口角を上げて笑う人だっただろうか。



『見て!見つけたのよ、私の『赤』!!』



彼女の隣で見たその色たちは、近づいても動いている。

でも昔教室で見たキャンバスの絵と同じものと、なぜか僕はそう信じて疑わなかった。



『本当だ。いい『赤』だね』



その『赤』は水面に雫が落ちたような波紋となって広がっていた。

ぽたり、ぽたりと垂れては時が戻るように縮み、だらりと垂れては大きなシミを作って消える。

明らかに異質な動きをする『赤』に、僕は完全に心を奪われていた。



『すごいよ、天識さん。こんなすごい絵、僕初めて見た』

『ほんと!?ねえ、いい絵?きれい?』

『うん、すごくきれいだ』

『嬉しい!私ね、この『赤』が欲しかったのよ!

 ずっとずっと知弦くんに見せたかったの!』

『そっか、見つけられてよかった』



うん!

満面の笑みに僕の心はどきりとする。

いつまでも見ていたいくらいのその表情をじっと見ていた。

じっと。

ずっと。

永遠に見ていたいとさえ思った。



けれど、ここは夢の中。

朝を告げるように、意識が遠くなっていく。

名残惜しい僕は、何も言わずに彼女を見つめ続けていた。


彼女の唇が動く。



『最後に見せる人、あなたを選んでよかった』



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