第6話 北條小百合の真実
家に近づくまで、誰も気を向ける者はいなかった。玄関先に立つと、家の外にまで緊急事態を告げるアラームが聞こえてくる。やや困惑気味に中に入る。恐ろしいことに、誰も咎める者はいなかった。それほど慌てていたのだろう。アラームが聞こえてくるほうへと足を向ける。
――あそこは、婆さんの部屋?
庭からのぞきこむと、アラームの音がうるさく鳴り響いていた。開けっぱなしになった障子の向こうに空のベッドがある。置かれた機械からつながった管が、引き千切られてぷらぷらとぶら下がっていた。一本や二本じゃない。ここにいた人間の衣服に隠れていた部分もあったのだろう。自宅で療養ができるのは日本の強みだが、これでは病院のほうがまだマシな治療ができそうだ。
「おい、何があった?」
部屋で呆然としていたアイに尋ねると、驚いたような顔で振り返った。
「あなた、どこから――いえ、そんなことはどうでもいい」
「逃げたのか」
「端的に言うとそう」
アイは苛ついたような声で言った。
あれほど冷静に受け答えしていたのが嘘のようだ。
しかしそれは認知症を発症した人間に対するものというより、自分自身に向けられているようだった。
「引き留められなかったのか。これだったらすぐにアラームが鳴っただろうに」
「そのときにはもう居なかったのよ。たぶん、ボタンがあるのを覚えてたのね……」
苦々しい顔をして続ける。
ボタンとは、おそらく管の交換時などに押すボタンのことだろう。一定時間アラームが鳴るのを停止するものに違いない。おそらく婆さんはそれを押してから管を引っこ抜いたのだろう。
「そのボタンの機能はどれくらいだ。まさか一時間とかってことはないだろう」
「まさか。せいぜい十分くらいよ」
「十分か……。警察には言ったのか」
「いえ、まだ……」
「そうか。俺も探してやる。どこか行きそうなところは?」
警察を呼ばれたら俺が困る。とはいえ警察は中を漁ったりはしないだろうが。仕掛けた盗聴器くらいは回収しておきたい。
「わからないわ……あの足だから遠くまでは行けないと思うけど」
「そうか」
そのとき、ばたばたと廊下を走る音が聞こえてきた。
「お嬢様、わかりました。どうやら門のくぐり戸から出ていったようです」
俺はそれを聞くと、すぐに玄関のほうへと足を向けた。
「待って。私も行く」
アイはそう言って、庭先の下駄サンダルを履いて出てきた。
「靴は履いていそうか」
彼女は首を振った。俺は返事をせず、代わりに腕時計に向かって声をかけた。
「アクサス。このあたりの地図を表示しろ」
目の前に近辺の地図が表示された空中ディスプレイが現れる。いまいる地点に青色の三角マークが現れ、いま正面を向いている方向に三角の頂点が向けられていた。いなくなって十分程度、いまのやりとりを考えても十五分から二十分と考えても、老人の足ではそう遠くへは行けまい。
予測される行動範囲は、大きな邸宅が建ち並んでいる。道路もそこそこ広いが、ほとんど車は通らない。他の家に忍び込んでいたらそれこそ大騒ぎだろうから、おそらくは道にいなければ公園の可能性もあるだろう。
早足で歩きながら道を確認する。
「もしもこのあたりで見当たらないとなると、公園くらいか。結構でかい公園みたいだが」
「そうね。ぐるっと回って……。いなければそこぐらいだけど」
そうして二人で走り回ったが、やはり道路にはいなかった。
公園の入り口は、竹林の向こうに隠されていた。地元の人間でなければわからないだろう。アーチをくぐり、木々に囲まれ鬱蒼とした道を奥へと歩く。昼間なら気持ちが良かったのだろう。いまは誰もいない。
広い空間に出ると、左手側に子供用の大きな遊具が見えた。誰もいない公園など不気味でしかないが、代わりに月の光が妙に明るく見えた。
「あそこ」
アイが言って走っていった先には、石造りの舞台があった。
円形の舞台だった。それを囲むように、奥にある舞台を見下ろす形で作られた階段状の座席がなだらかな円を描きながら設置されている。ここで音楽の演奏などがされるのだろう。そう思っていると、澄んだ声が聞こえてきた。
――青空の下 私と踊ろう――
しっかりした、どこかで聞いたことのある歌だった。
声はかすれているが、つい最近どこかで聞いたはずだ。
そうだ、映画の中だ。
北條小百合だ。
間違いなかった。
だが、俺は目の前で見ているものを信じられずにいた。
「……おい、まさか」
「あなたがたはいつもひとつだけ間違っていた」
アイはこっちを見もせずに言った。
「それは、北條小百合が存在しない人間であると確信を持っていたこと」
つぶやきに似た声が続ける。
「アバターをかぶってるってことくらい、すぐにわかりそうなものだったのにね」
「そ、それじゃあ、北條小百合は」
「あの人はね、小さな劇団で、自分を隠して仕事をしていた時のほうが楽しかったって、いつも言っていた。こんな家だから、いつかは戻らなきゃいけなかったって。全身を癌に冒された彼女の、最後の望みを私は叶えたかった」
そこには、老婆が一人立っていた。
彼女の姿がくるりと回った。スカートではない入院着は翻らない。だが月に照らされる姿は、映画そのままだった。
雨など降っていないのに、そこで映画のシーンが重なる。傘を放り投げて、一人踊る。誘われている人間などいないのに、そこに誰かがいるようだ。
誰も彼も、難しく考えすぎていたのだ。
新規の技術を持ったマネージャーがいる、というだけで、皆その事実に目を眩まされていた。北條小百合は確かに実在していた。
「あれが、あなたがたが会いたがってた北條小百合よ」
着物の老婆は、いまだけは月明かりに照らされ、美しいまま踊り歌っていた。
両手が広げられると、まるで魂だけが月へと向かうようだった。
やがてその体が崩れ果て、アイが急いで駆けつけても、俺はその光景を目に焼き付け続けた。
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