第38話 掴む

 神殿の前から伸びる坂道、それをずっと下っていったところにある孤児院に着いたのは、三の鐘が鳴る頃でした。

 面倒をみて貰えるのは準成人前の子供だけですが、完全に独り立ちする成人までは、寮に住むことができるようになっています。

 旅に出る前と同じように、フレッド君はそこに身を寄せていました。


 セレスタンお兄様も一緒でした。わたしは大丈夫だと言ったのですけれど、「王女が一人で出歩くものではない」と却下されてしまったのです。それにはクロヴィスさんも真剣な顔で頷いていて、拒否することはできそうにありませんでした。

 どうやら本格的に、わたしは王女として扱われるようになったらしいのです。


 枯れた蔦の絡まっている門をくぐってそのまま、裏庭の方へ向かいました。フレッド君はこの時間、鍛練をしていることが多いと踏んでのことです。


「はっ! やっぱお前、愛想尽かされたんじゃねーか!」

「『忌み子のお方』にまで捨てられて、可哀想になぁ?」


 これは……! 寮の建物、その角の向こう側から、嘲りを含んだ笑い声が聞こえてきました。慌てて駆け寄ろ――


「――っ!」

「リリアーヌ!」


 ジリッと擦り剥いた手の平と膝が痛みました。外套を羽織っていたとはいえ、中に着ているのは儀式用の薄手の服です。

 失敗したな、と思いながら立ち上がるために魔力を動かそうとして、身体を支えるだけのそれがないことに気がつきます。がくっと崩れたところを支えてくれたのは、クロヴィスさんでした。


 たくさんの気まずい視線を受ける中で、ひとつ、隠しきれていない呆れの視線を感じました。


「フレッド君! だい――」

「まずは自分の心配をしてくれ」


 フレッド君を取り囲んでいた孤児達が、セレスタンお兄様の姿に慌てて下がります。結果、わたし達は、真正面から向き合うこととなりました。


「……」


 たっぷり三つ数えられるくらい、無言で見つめ合います。それから、わたしは口を歪めました。


「怪我を、しているではありませんか」

「大したことじゃない。それに、リルだって同じだろ?」


 そう言って片方の眉を持ち上げてみせた彼に、くす、と笑みを溢します。クロヴィスさんにお礼を言ってフレッド君の方へ寄ろうとすると、こほん、とわざとらしい咳払いが聞こえてきました。


「セレスタンお兄様……」

「魔獣を呼ぶから、待ちなさい」


 セレスタンお兄様は溜め息をついて、そしてクロヴィスさんまでもがやれやれといった様子で、それぞれ腰に下げていた魔法具を発動させました。すぐに、王城の方から彼らの魔獣が飛んできます。




「わたし、分かったのです!」

「……何をだ?」


 セレスタンお兄様達にわたしの離れまで送って貰い、早速、怪我の治療を始めました。


 外で待っていると言われたので、部屋の中にいるのはわたしとフレッド君の二人だけです。

 わたしは小さな擦り傷だけでしたし、フレッド君もここ最近のことを考えれば随分と軽い怪我でした。薬の用意をしながら、話を切り出すことにします。……何かをしながらでないと言いにくかった、というのもありますけれど。


「この国の、この世界の、秘密ですよ」

「……。はぁ?」


 彼は珍しく固まって、何かを考えるように目を瞬かせました。言葉が足りなかったことに気がつき、慌てて付け足します。


「光の“気”と闇の“気”は、同じものだったのですよ。悪魔のいた洞窟は、光の“気”が足りなかったでしょう?」

「……あぁ、神殿の話か」

「わたしが本当にすべきなのは、この地の“気”や魔力を巡らせること。ですから、わたしが国王になる必要は、なかったのです! わたし、フレッド君と一緒にいても、良いのですよ!」

「……っ!?」


 作り置きの薬を傷口に塗りながら、考えます。

 このまま国王になってしまったら、きっとこういうことも、できなくなるのです。それは嫌だな、と、素直に思いました。


「……気づいていたのです。自分がだんだん、フレッド君に惹かれていっていることに。それなのに、ダン君に申し訳なくて。彼のことが大好きなのだと、最高の婚約者なのだと言い聞かせて。ずっとその気持ちを、見ないようにしていました」


 わたしは、最低です。


「本当に申し訳ないと思うべき相手は」

「リル、それは良――」


「今ここにっ! ここにいて、ここで生きているのは、フレッド君なのに……っ!」


 大切なものを全部守りたいのだと言いながら、こんなに近くにあるものにすら、手を伸ばせていないなんて。


「わたしは、いちばん蔑ろにしたくない人を、あなたを、真正面から見ていなかったのです」


 誠実であろうとするところが好きだと、そう言って貰ったのに。全く違うではありませんか。


 ……今からでも、遅くはないでしょうか。


 過去の間違いを背負い続けることが、それだけが正解なのだと、そう思っていました。奪ってしまった命や、救えなかった命を前に、幸せを知るべきではないのだと。確かにそれも、ひとつの正解なのでしょう。


 けれどもわたしは、もうひとつの正解を見つけました。

 この手を掴むこと。それは結局同じことなのだと、今は信じられます。星空の部屋で世界の秘密を知った、わたしには。


 フレッド君、と呟いた自分の声は少し掠れていて、薬を塗っていた手を止めます。その手には触れたまま、彼の目をしっかりと覗き込みました。


「わたしも、いえ……わたしは、フレッド君が好きです」

「言い直さなくて良いだろう。俺も、リルが好きなんだから」

「……」


 喉の奥が、ぐっ、と詰まりました。けれどもそれは、悲しい痛みではありません。身体中の血が、温かくて、ふわふわします。

 ……たったこれだけの言葉を交わすことが、こんなにも嬉しいものなのだと。今、初めて知りました。


「だから、お前はお前の大切なものを、全部守れば良い」

「都合が良すぎるのです。わたし、欲張りが過ぎませんか?」


 フレッド君の優しさを嬉しく思う反面、怖くもありました。けれども彼は、いつも通りの笑みを浮かべて、それには答えてくれません。じっとこちらを見つめ返してきます。


「後悔、しないな? 俺はずっとお前の隣にいるつもりだぞ?」


 このような言い方をするのも、フレッド君の優しさです。

 もう難しいことなど考えられるはずもなく、ただただ、喜びで心が溢れそうになります。それが何だか悔しくて、「そうでないと困ります」と口を尖らせました。


「……それにわたし、まだ旅を終わらせるとは言っていません」

「あぁ、そうだったな」

「ですから、また一緒に、旅を続けましょう」


 互いに試すような視線を交わしたのも一瞬、いつもの空気に戻ります。穏やかな空間を撫でるように、ふぅ、と息を吐きました。まだ大事なことが残っているのです。


「……それで、どうしましょうか」

「何がだ?」

「お父様やセレスタンお兄様の説得ですよ。わたし、先の試練の時にも念を押されたのです」


 セレスタンお兄様の、あの熱を孕んだ瞳を思い出します。わたしの中では自分が国王になる必要はないと確信していても、それを上手く伝えられるのでしょうか。


「あぁ、そのことだが……」

「……?」

「問題ない」

「え?」


 気まずそうなその言葉に、首を傾げます。まさかフレッド君まで……?


「許可はもう、出ている」

「……えぇっ!?」


 わけがわからなくて、口をぱくぱくさせてしまいます。きっと今、わたしはとても間抜けな顔をしているはずです。


「リリアーヌ、そろそろ良いか?」


 と、部屋の外からセレスタンお兄様の声が聞こえてきました。握っていた手を慌てて離そうとすると、逆に強く握り返されて、離してくれません。あげく、「どうぞ」と勝手に答えるフレッド君。


「ちょっ、え……。えっと?」

「話は済んだようだな」


 セレスタンお兄様は何やらしたり顔で頷いていて、その後ろに控えるクロヴィスさんは、何故か顔を背けていました。


「え、と。本当に、知っていたというのですか……?」


 とにかく、問題はなかったのだと。そう、ほっとしたのも束の間でした。


「口づけくらいはしているかと思ったが」

「なっ……! そ、そのような仲ではありませんっ!」

「いや、そのような仲だろ?」


 ……え。


「へっ!?」


 強く握られていた手が軽くなったと思った瞬間。

 わたしの右手の指先は、フレッド君の顔の前にありました。そしてそれが、軽く唇に触れて。


「あ、え……と、あの……」


 頭の中では色々な思いが駆け巡っているのに、わたしの口は言葉を忘れてしまったかのように、意味を持たない音しか発してくれません。


 それなのに。指先から離した口を、その端を、ゆっくりと持ち上げるフレッド君の笑みに、今までに感じたことのない愉悦を覚えました。それは夢のように、心地良いものでした。


「……そういうのは、後にしてくれないか?」


 苦みを含んだその言葉に、一気に引き戻されます。同時に恥ずかしさに襲われて、叫ぶようにそれを振り払いました。


「せ、セレスタンお兄様が言い出したことではありませんかっ!」

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