第38話 室矢カレナに定跡なしー①
「いらっしゃい、カレナさん!」
「ゆっくりしていってね!」
「今、将棋盤と駒を用意するから……」
いつもは静かな対局の場所が、にわかに騒がしくなった。
1人で棋譜並べを行いつつ、新しい手筋を考えていた
しかし、すぐに自分が持っている棋譜に目を落とし、再び思考の海にダイブした。
時間を忘れ、没頭していた寛己は、ようやく我に返る。
そろそろ家に帰るかと、窓のほうを見た。
だが、自分を見つめている女子たちに気づいて、振り向く。
「あ、あのさ……、寛己くん。悪いんだけど、一局いいかな?」
「カレナさんが強くて、私たちじゃ相手にならないから……」
寛己は、先ほどから女子の中心にいる美しい少女を見た。
長い黒髪と、荘厳な神殿で、奥に安置されているような神秘性。
その青い瞳が、寛己を映し出している。
まるで女神像と、それを礼拝する信者たちだな。
内心でそう思った寛己だが、とりあえず質問に回答しなければならない。
「……いいよ。でも、一局だけだ」
本当は、すぐに帰りたかった。
しかし、こういう場面で冷たくすると、すぐに悪い噂が立つ。
なら、とっとと相手をしたほうが良い。
寛己は輪になっていた女子の合間を縫って、見慣れぬ少女の対面に座る。
「
「それは、私に『飛車と角を落とせ』と言っているのか?」
カレナが返した瞬間に、その場の空気が張り詰めた。
周りのギャラリーが、寛己の様子を窺う。
彼は、相手は初心者だと自分に言い聞かせて、冷静に説明する。
「違うよ。僕の飛車と角を落として、君はそのまま、という意味さ」
「あまり強そうには見えないのじゃが……」
強情な少女に対して、寛己は心の中で嘆息した。
そして、分からないだろうが、と思いつつも、カレナに説明をする。
「僕は、奨励会員だ。今は三段で、プロになれる四段にリーチをかけている。あまり言いたくなかったが、六枚落ち……。飛車と角、両方の桂と香をなくしても、君には負けないと思う」
「…………平手で良いのじゃ」
「分かった……。ただし、僕は一切の手加減をしない。どんな時に、誰が相手でも全力で叩き潰すのが、プロだからね」
ここまで言っても、目の前の女神のような少女は黙ったまま。
さすがに、ここまで舐められて、接待をする気にはならない。
駒落ちをするように、と勧めたのだから、周りの女子たちも納得するだろう。
「お願いします」
「お願いしますのじゃ」
棋力が低いカレナを先手にしたので、振り駒はなし。
カレナは飛車を動かさず、先手番横歩取りに入る。
すでに戦法を決めていたようで、定跡通りの歩を進める動き。
寛己は、いかにも素人らしいと、慌てずに応じる。
横歩取りの歴史はかなり古く、時代によって、最適な指し方が変わっている。
大きく進歩したのは、パソコンによるデータ分析が可能になった現代とも……。
その現代ですら、新たな戦法が生み出されていることは驚異的。
先手番の横歩取りは、相手の土俵で戦わされる。
ゆえに、プロですら避けるケースが多く、万が一なったら、生きた心地がしない。
先人が研究し尽くした有名な戦法ですら、即死の手順が多い。
そのうえに、裏定跡も山ほどある。
相手に誘われても横歩を取らず、相掛かりに持ち込んだほうが賢明だ。
将棋に詳しい寛己は、横歩取りの恐ろしさを痛感している。
どうせ、目の前の少女も、すぐに泣きを入れるだろう。
そう思いつつ、中指と人差し指で駒を動かしたら、パシッという盤上の音が将棋部に響いた。
対局相手であるカレナも、すぐに反応する。
時計の針は、対局開始から10分も経っていない。
しかし、寛己は、かなり動揺していた。
…………おかしい。
どうして、大駒を交換する急戦で迷わない?
カレナは、ここまで時間をかけずに指している。
それに釣られて、寛己が指すまでの時間も短い。
とんでもない早指しになっていることから、周りの女子生徒たちは困惑ぎみだ。
その時、寛己は自分の詰みに気づいた。
しまった。
相手のペースに巻き込まれすぎたか。
星の数ほどの手順があるのに、たった一手を誤っただけで負ける。だから、横歩取りは、嫌なんだ……。と、心の中で愚痴を言う。
駒落ちでも勝てると豪語したのに、この体たらく。
淀みなく指し続けているのだから、よもや勝ち筋を見逃すまい。
室矢さんには、もう終局図が見えているのだろう。
対局が終わったら、目の前の少女に何を言われるのかと、寛己は憂鬱になった。
「あれ? カレナさん、それは……」
「ん? どうかしたのじゃ?」
「えーと、それ……
唐突な終了に、その場にいる全員が白けた表情になった。
ともあれ、対局が終わったので、挨拶を交わす。
「ありがとうございましたのじゃ」
「……ありがとうございました」
納得できない。
あれだけの棋力を見せておきながら、二歩で負けるとは……。
いや、プロでも、たまにあるんだ。
まして、素人なら……。
考え込んでいた寛己は、カレナが盤上の駒を片付け始めたことに気づく。
「あ……。ここまでの流れを見たかったのに!」
「カレナさん。対局が終わった後は、感想戦をするのですよ?」
「うー。今の一局は、ぜひ解説して欲しかった」
口々に残念であることを告げる女子生徒に対して、カレナは素っ気なく、返事をした。
「すまんが、もう帰る時間なのじゃ」
窓の外は、だんだんと暗くなってきた。
これ以上の滞在は、それぞれの親が怒る理由になるだろう。
「分かりました……」
「また来てね、カレナさん!」
「カレナさんの力なら、プロを目指せるんじゃない? …………あ」
最後の女子生徒の言葉に、再び沈黙が訪れた。
失言をしてしまった女の子は、声を震わせながら謝る。
「あ、あの……。ごめんなさい、寛己くん。わ、私、そんなつもりじゃ……」
「いや、構わないよ! 僕も、室矢さんの強さに驚いたから……。じゃ、さよなら」
寛己は自分の駒を仕舞った後に、置いてある自分のカバンを掴み、足早に出て行った。
カレナが周囲を見回すと、女子生徒の1人が話し出す。
「寛己くん。今回の三段リーグで、もう脱落しちゃってさ。まだ中等部で、年齢制限の足切りにはまだまだ時間があるけど……。奨励会の成績が伸び悩んでいて、戦法も固まっていないことから、今度どうするべきかと悩んでいるみたいなの」
その発言を呼び水に、他の女子生徒も自分の意見を言う。
「各エリアで負け知らずの神童を集めて、その中で潰し合いだからねえ……。私たちには想像もできない世界だと思う」
「寛己くんが学園に来ることも、けっこう珍しいからね。私、部室に入って、一瞬、誰なのかな? って思っちゃった」
紫苑学園には、幼稚舎から高等部まである。
さらに、芸能活動のような登校しにくい生徒のために、通信教育のレポートやテストによって単位を取得する制度も。
プロ棋士を目指している寛己にとって、将棋漬けになれるのは大きなメリットだろう。
「……体験入部は、できるかの?」
カレナの言葉に、周りの女子生徒が一斉に沸き立つ。
「もちろん!」
「いっそのこと、正式に入部してよ!」
「
「あ、そっか!」
大喜びの女子生徒たちに囲まれながら、話題の中心であるカレナは別のことを考えていた。
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