接触
翌日。朝食を済ませたエンティーナは、コーヒーを飲みながらゆったりとした時間を過ごしていた。
昨晩はルルメニゲ夫妻が監督したサマンサの料理──サーモンのムニエルを食べさせてもらった。きちんと教えられた料理だけあって味は良く、楽しい時間だった。
この日は夕方までには屋敷を出て寮に帰らねばならない。
「では行ってまいります」
サマンサは夕飯の食材を買いに市場へ向かった。使用人見習いとして毎日頑張っているようだ。
エンティーナは持ってきた教科書を開いて、明日からの授業に備える。クロウアリスは、大陸最難関学校というだけあって授業のレベルが高い。入学早々つまづくわけにはいかない。事前の復習はやっておくべきだろう。
今エンティーナが開いているのは『大陸前史』だ。大陸歴の前、つまり魔族と戦った人魔戦争以前の歴史をまとめたものだ。中等学校までの授業では触れられなかったところではあるが、200年ちょっとの歴史しかない大陸歴に比べて前史の期間は長い。長いが、前史はあまり重視されない。理由としては、人魔戦争でこれまでの国の枠組みや文化が破壊、滅亡し、リセットされてしまったからであって、今の生活と地続きになっていない部分が多いのだ。まるで他所の国の歴史を学んでいるかのようである。
だが、それでも同じアルフェクト大陸の歴史、高等教育を受けるものとして、知っておかねばならないポイントである。
そうしてお昼も近くなってきた頃。扉をコンコンと叩く音がした。人間がノックした音よりも軽いこの音は、おそらく鳩通信のお届けである。
【調教】スキルを持つ者によって運用されている、鳥によって手紙を素早く届ける巨大通信網。鳩通信とは言っても、あくまで昔の名残でそう呼んでいるだけで、実際は鷹や隼などが届けてくれる。
ブラニさんが扉を開けると、大きな鷹が鳩通信用の止り木に立っていた。首からぶら下げた小さな鞄に手紙が入っており、それを受け取って受取用紙にサインをして鞄へ入れると、鷹はどこかへ飛び去っていった。
「あら、御当主様からですわ」
ブラニは驚いた様子である。御当主様、つまりエンティーナの父親からの手紙が、寮にではなく屋敷にくるとはどういうことだろうか。
開封して読み進めると、ブラニの表情が曇る。
「エンティーナ様もお読みになってください」
「私が?」
渡された手紙を読むと、驚きの知らせが書かれてあった。
要約すると以下の通りになる。
『同じ内容を寮の方にも送っている。ルルメニゲ夫妻とエンティーナで連携して対処してほしい。
先日、フレイム王子が王宮から姿を消した。どこへ行ったは不明であるが、サマンサを追って帝都へ行った可能性が有る。
万が一帝都へ行っていた場合、サマンサに危害が及ぶ可能性がある。
おそらくヴィエント家の屋敷の住所は知られているであろう。
帝国貴族のワシゲ子爵にも手紙を送っておくので、一旦子爵の屋敷へ避難させるように。
また進展があれば連絡する』
「お嬢様。荷物をまとめます。今日のうちの移動させましょう」
「そうですね。お願いします」
エンティーナの頭に、昨日の光景がよぎる。サマンサは、フレイム王子に似た人物を目撃したと話した。
もしかして、あれは本人だったのではないか?
だとしたら、今ひとりで市場へ向かったサマンサに接触する可能性がある。
「サマンサを迎えに行ってきます。嫌な予感がする」
エンティーナは屋敷を飛び出して市場へ向かう。場所は昨日訪れているので問題はない。杞憂であれば良いのだが、こういう時、嫌な予感とはやはり悪い方へ的中するものである。
ちょうどその頃。サマンサは市場からの帰り道、ヴィエント家の屋敷から500mほどの場所でフレイム王子と鉢合わせになっていた。
はじめは知った人だと気が付かなかった。
そこはちょうど教会の目の前で、たくさんの人が行き交う通りの真ん中だった。サマンサの歩く道を塞ぐように誰かが立っている。
ふと顔を上げると、フードを深く被った男の人だった。だらしなく髭を伸ばしていて、返帝都に帰ってきたばかりの冒険者か、どこかの組の所属しているならず者かと思った。だがここは貴族の邸宅が立ち並ぶ高級住宅街、彼らがこの辺まで来ることは稀である。
サマンサと向かい合い、道を開けようとはしない。仕方なくサマンサが避けようとするが、手で遮られてしまう。
「あの……何か御用でしょうか?」
サマンサの声にその人はやや戸惑った様子を見せた。
「あぁ、そうか。こんな格好だからな。気が付かないのも無理はない」
暗い、陰湿な声だった。そのせいで、目の前の人物が誰か理解できなかった。狼狽えるサマンサに、男は愉快そうに笑った。
「そうだね。わからないね。でもね、これも全て君の為なんだ」
何を言っているんだろう。気味の悪い状況だ。それとも、誰かと間違えているのか?
男はゆっくりとフードを外して顔を見せた。
痩せこけた頬、生気を失った眼、伸ばしきった髭と髪のせいでいくつも歳を重ねたように見えたが、間違いなくそれはフレイム王子だった。
「フレイム王子……ですか?」
「そうだよ、サマンサ。迎えに来たんだ。一緒に逃げよう」
サマンサは驚きと恐怖で動けなくなった。なぜ、王子がここにいるのだろう。
「どうした?一緒に行こう。大丈夫だ。エンティーナが追ってきても殺す算段はついている。安心しろ」
その言葉がサマンサを現実に引き戻した。
「殺す?何故ですか?」
「決まってる。エンティーナが君を虐げているからだ。辛い日々を送っているのだろう?」
「そんなことはありません。エンティーナ様には良くしていただいています」
「無理をしなくていい。もう安全だ」
そう言ってフレイム王子が一歩距離を詰めるが、サマンサは後ずさる。
王子の見たことがない表情に困惑するしか無い。優しい口ぶりだが、その顔は追い詰められた犯人のように見える。
「どうした?何故逃げるのだ。君に危害は加えないよ」
「いえ……その」
「どうした?何かあるなら言ってみなさい」
そう言って少し間が空く。
そこでサマンサは思い出す。次に王子に会ったら伝えたいことがあったのだ。
「あの……フレイム王子」
「なんだい?」
そしてサマンサは深く頭を下げる。
「大変、申し訳ございませんでした」
「…………は?」
王子は呆けた声を出す。
だが、これだけは言わねばならない。例え怒られ、罵倒されようとも。サマンサが犯した罪なのだから。
「脅されていたとはいえ、私は王子とエンティーナ様の仲を引き裂くため嘘を重ねました」
「嘘……?嘘とは何だ?」
「私が王子に語っていた全てです」頭を下げたままサマンサは話す。
「全て、とはどういうことだ?ほら、ルークフェルドのレストランで、君は財布をスられてお金を払えなくなって困っていただろう。そこへ偶然通りかかった私が声をかけて助けてあげて……それで」
「あれも嘘です。財布は持っておりましたし、王子が来店させるのを何日も待ち受けておりました」
王子の頭は完全に混乱していた。あの日、運命に導かれるように引かれ合ったふたりの、あの恋愛小説のような出会いが、偶然ではなかったと?
「私は家族を人質にとられ、なんとか王子に接触する必要がありました。そこで日々の生活を調べ上げ、あのレストランを贔屓にしていることを突き止め、偶然の出会いを演出しました」
全てはサマンサの計略であった。第3者から見れば、計画を練り上げ、実際に出会いを果たした彼女の行動力に感心するところであるが、王子からすればそれどころではない。
王子は信じているのだ、サマンサとの愛情を、ふたりの絆を。それが今、目の前で音を立てて崩れている。
「だって、言ってくれたであろう。私のことを、愛していると……」
もはや、絞り出すような、懇願するような小さな声だった。頼むから、もう一度私を愛していると言ってくれ……王子の眼がそう訴えかけている。
だが、サマンサは頭を下げたまま、王子の願いを切り捨てる。
「それも嘘です。申し訳ございません」
沈黙が降りる。
「何故だ……」
答えはない。サマンサは、例え王子を傷つけても頭を下げねばならない。
「何故だ!答えろサマンサ!」
遂に限界を超えた王子がサマンサの腕を掴む。
「信じていたのに!君だけは私のことを!」
サマンサは声を上げずに耐えた。どれだけ罵倒されようと、サマンサが受けるべき罰なのだ。
そこで、サマンサの眼にある光景が映る。
フレイム王子の身体から、ドス黒い霧のようなものが立ち上っていた。
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