第14話 私はもう死んでいる

 日が昇ったばかりの早朝、ミナギは下からの物音をきっかけに目を覚ました。そこには天井があり、体はベッドに横たわっている。


 目覚めたばかりの意識で、ミナギは真っ先にあることを思い出そうとする。


 この森に来てから見るようになった変な夢。昨夜もそれを見ていたことが肌身の感覚に残っている。しかし、内容まではうまく思い出せない。形にして手を伸ばそうとすると消えてしまうのだ。


 2階には客室が3つに、バスルームと洗面所を兼ねたトイレがあった。階段を上がった先にはまず広間がある。その中心部に柱が立っている。たぶん下の釜戸から伸びている煙突なのだろう。その煙突を各部屋が囲うようにして並んでいた。あまり見たことのない間取りだ。


 一方、客室の中は簡素な作りだった。家具と言えるものは必要最低限にテーブルとベッドぐらいしかない。壁に飾られた水仙の押し花だけが、茶色い床と白い壁の部屋の中で浮いている。


 ベッドは板の土台にマットと枕と掛け布団を乗せただけの簡素な作りだが、屋根の下、ベッドの上で寝られるだけでもありがたかった。それに、この木造りの建物に漂う古めかしい匂いは、ラグジュアリーにはない独特の心地よさがあった。


 ミナギは洗面所で顔を洗ってから階段を降りた。


 下の階は灯りが消えていたが、窓から差してくる朝日が照明代わりになっていた。扉の近く、朝日で白んだ床の上、そこにメドウとシエルが立っていた。


 メドウが背中に大きなトランクケースを背負っているところを見るに、まさに今が出発の時だったらしい。トランクケースは黒い革で出来ていて、黄色いストラップが縫い付けられている。


 シエルがこちらに気付いて声をかけてきた。


「申し訳ございません。起こしてしまいましたか」


「いや、たまたま。ーーメドウさん、もう行くんですね」


「うん、これから別の案内人さんのところへ案内してもらう。短い間だったけれど、お世話になりました」


「私、何もお世話なんて」


昨晩、ヴァーユの不穏な感情を察したメドウは、ミナギが処遇を決めあぐねているところに、自ら別行動を取ることを提案した。ついさっき頼みを断られた人の口調には思えないほどに気丈な様子だった。彼の淀みない物言いは、ミナギにも必要以上の罪悪を与える隙を生じさせなかった。そのことにミナギはだいぶ救われた気持ちになっていた。むしろ「世話になった」と言うべきは自分の方だ。ミナギは心底そう思っていた。


「ミナギさん達がいたから、こうしてシエルさんと巡り逢えて、ここから出られる手立てを得たんだ。僕にとってはありがたいことだよ」


 ミナギはメドウの姿を見直す。たった一晩きりの出会いだったが、シルクハットに着物の組み合わせをものにしたこの長身の青年のことは、そうそう忘れることはないだろうと思える。非常事態にも関わらず嫌な部分ひとつ見せない気遣いもまた然り。


「ヴァーユくんも、最初にミナギさんに出会えてきっと幸運だったと思うよ」


「そうかな?」と、ミナギはこめかみのあたりを押さえた。あの少年が自分をどう思っているのかは、よくわかっていない。彼が最初に出会った時や昨晩に見せた、あの暗澹とした感情の正体もまるで掴めない。


「僕が彼だったら、きっとそう感じる。あの年頃、特にあの子の性格だと、表立ってそれを表現しないだけさ」


 この青年と言葉を交わすと変な気持ちになる。誰にも見せていない怪我を察知して的確かつ迅速な治療を施すばかりかそのアフターケアまでをも言葉と振る舞いで敢行してくれているのだ。それは頼もしいとも言えるし、手の内を見透かされているような不可解さも同時にある。


「メドウさん、この期に及んでお気遣いありがとうございます」


「通りすがりの第三者による率直な感想、だよ。ともかくーー」と、ミナギからの謝意をひらりと交わす。しかし、その先でメドウの声色は真剣味を帯び始める。


「あの子が無事に家へ帰るためには、きっとあなたの力が必要になる。そんな気がするんだ。先は長いかもしれない。けれども、どうか頭の片隅にでも留め置いて」


 それからメドウとシエルは出発した。暫くメドウの大きな背中と、シエルの小さな背中を窓から見つめていた。やがて2人の背中は木と木に縫い合わせられたように見えなくなった。


 彼が最後に発した言葉はしばらくの間、ミナギの頭の中で反響し続けた。


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 カフェが営業開始を告げる煙を釜から煙突へと立ち昇らせた。それとほぼ同時刻に、案内を終えたシエルが戻ってきて、ヴァーユが起きてきた。


 3人は朝食を摂った。石窯で焼いたパン、森で採取したという野菜で作ったポテトサラダ、自家製コンソメスープという組み合わせだった。焼き立てのパンは指で割ると、白い水蒸気が溢れ出し、ふかふかの白い断面が顔を見せた。


 食事中、ヴァーユはあまり喋らなかった。ミナギはメドウの件は触れないようにして、料理の感想や昨日の出来事の振り返りを話のタネに、主にシエルと会話した。パンに塗るための木苺のジャムをシエルにおすそ分けし、また一方でヴァーユの食事の様子をちらりと見やった。


「君は好き嫌いはないの」


「ない。偏食は脳に悪い」


 素っ気ない返事だった。


 食事を終えた後は、各々出掛ける準備をした。準備を早々に済ませ、1階でシエルと待機している最中、ミナギはあることが気になった。


「ねぇ、シエル。お代ってどうなっているの?」


 こんな森の奥深くにあるお店の料理代、宿代を一体何で支払ったのか。ミナギの目先の興味はそれであった。


 シエルが「あれです」と指差した先は、カウンターの横だった。


 そこには本棚が置いてあった。鮨詰め状態の背表紙からは、形状も、厚さも、製本方法も、何もかもが異なっていることが一目でわかった。実際近寄ってみると、百科事典、動物図鑑、科学書、文庫本の小説、絵本、映画のパンフレット、もはや本とも呼べないイベントのフライヤー等々、種類は様々で、言語にしても統一感がない。


「ご興味あればお手に取ってどうぞ、お客さん」


 本棚を眺めていると、カウンターの向こうで寛いでいた店長が声をかけてくれた。見ると、分厚い歴史書のような本を片手持ちで読んでいるところだった。


「では、お言葉に甘えて」


 ミナギはその本棚から天体観測について書かれている本を取り出した。ピカピカの表紙に大きなサイズの文字が踊り、代表的な星座があしらわれており、本来は児童向けを想定しているようだった。だがそれでも、今のミナギにとっては知りたい情報が書かれている重要書物だった。


 ーーそれにしても。


 このご時世に物々交換で商売をしていると知って、虚を突かれた気分だった。いや、よくよく考えれば、こんな森の中で貨幣経済が営まれているわけがない。そうなると価値を持ち得るのは相手が欲する物になり、取引は原始的な物々交換になるのも頷ける。


 ミナギはあるページを開き、携帯のカメラで撮った。そして本を元の場所に戻した。


「あっれ?」


 いざ、出発しようという時、ミナギはある異変に気がついた。


 店の前に置いていたはずの自転車が、消えている。置いてあった場所には、周囲の土とは違う、乾いた色の土片が散らばっているだけだ。


 側にいたヴァーユが「やっぱり」と呟いた。


「いやいや! メドウさんが、ここを出てった時にはあったよ。なくなったのはその後。シエルもきちんとメドウさんを送り届けたんだよね?」


「ええ、確かに」


「ま、俺としては安心。もうあんな屈辱はごめんだ。足だって湿布してもらって寝たらすっかり治ったし」と言って、そっぽを向き、怪我をしていた方の足で地面を蹴った。


「でも、あんなどこにでもありそうなママチャリを盗る人いるのかな? 私、ちゃんと鍵も閉めてたし」


 呆れた口調で話しながら右手でトレンチコートのポケットを探った。自転車の鍵があるはずだった。


 しかし、指先には違和感があった。鍵の持ち手の部分のプラスチックでも、先端部分の金属でもない、別の質感に触れたのだ。予想外にざらついていて、粉っぽい。


 それを握り、取り出した掌を見ると、そこには土塊が乗っていた。


「なんじゃこりゃ」


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 一行は、再び森を歩いていく。


 足腰には自然と力が入る。土を踏み締める度に、昨日までと比べて体が軽くなっているのがわかる。靴を介して足裏に伝わる土の感触が柔らかいのだ。


 森での冒険に慣れたこともあるが、美味しい料理を食べ、ベッドの上でぐっすり寝たということが、この活力の主な源に違いなかった。


 シエルも好物のジャムを口にできてか、見るからに顔に生気が満ちている。彼の後ろ姿を眺めていると、楽しげに体を揺らしているような気さえする。


 一方で、ミナギは少し後ろにいるヴァーユに気軽に目を向けられずにいた。昨晩以来、今に至るまでずっと難しそうな顔をしているからだ。メドウに言及することは彼の腫れ物に抵触しかねず、かと言ってそれに触れなければ彼の思案顔の原因も掴めそうにない。そんなジレンマに突き当たったせいで、いつもの調子で彼に話題を振るのは躊躇われた。


 周囲には相変わらず木々が並んでいたが、やがてその様子が変わっていくことに気づいた。立ち並ぶ樹木の多くが、照葉樹で占められている。空から降る光を眩しく感じてふと見上げてみると、葉の表面がピカピカと輝いていた。地面を埋め尽くしている落葉もそれが中心となっている。


 さほど密生でもないために、日光があちこちの林床に届いていた。地面から生えている草木はそのおかげでより豊かに茂っている。特に明るい場所では、遠目から見ればギザギザの鋸みたいな形をしたシダ植物が犇めき合っている。


 ミナギ達は、まだか細く小さい幼木の梢を避け、苔生した岩に足を滑らせないよう気をつけながら歩いた。気ままに伸びる蔦もそこかしこで絡まっていて、時折足を取られかけた。


 植物の匂いも、これまで以上に鼻につく。しかも、湿気がこの森をさらに強烈に蒸しているようで、腐ったキノコや虫の死骸が落ちている場所では噎せ返りそうになるほどだった。


 ミナギは、このやけに湿った空気はどこから由来するものなのだろうと考えていた。やがてひとつの回答にたどり着く。


 歩いている最中、ふと左手に開けた場所が見えた。地平の彼方まで見渡せるくらいに木々は少なく、水が大地に張り巡らされている湿原だった。


 そこには、巨大な湖ぐらいのサイズの水溜りもあれば、マンホール程度の丸を作る水溜まりもある。それらひとつひとつが鏡となって、青空と白い雲を悠然と映している。水面に顔を見せる水生植物の中には、ハスやカキツバタと思われる花が紛れている。空模様と共に、緑やピンクや紫といった地産の、あるいは水産の色彩がそこに群生していた。


 今いる樹林に比べて、あの湿原には木が殆どない。物寂しげに合間に生えているのがちらちら見える程度で、それらさえも本来いるべき場所ではないところに居候しているみたいに見えた。


 平らのまま静止した水の鏡が凪ぎを告げている。平穏の時間と空間だった。


 しかし、あまりに見晴らしがいいおかげで、”それ”はすぐに目にとまった。


 湿原の1km程向こう側に森林が見える。その森への出入り口には、巨大な鉄塊が横たわっていた。


 “それ”は、前方からの空気抵抗を軽減すべく、設計技術が集約された流線型でボディが形作られている。先端はイルカの頭のように丸く尖っていて、体の真ん中あたりにある左右へ伸びた大翼も象徴的だ。それぞれの翼には筒状の噴射機構が備わっていて、黒い穴が前方を向いている。左右と上の3方向に分かれた尻尾のうち、上の側面には”それ”を所有する会社のロゴマークがあった。


 飛行機だ。それも軍用や競技用のヘリではなく、自分達に馴染みのある旅客機。


 ーーこんなところに、どうして。


 ミナギが見ている側面、つまりは左腹に大きな損壊が見て取れる。万が一の事故が起こらぬよう、整備士をはじめとした関係者が汗と水と技術を結集させて注意を払っているはずの機体の胴体に、穴が開いていた。穴の周囲の鉄板は無残にもひしゃげていて、もう中の旅客を外界から守ることはできそうにない。


 中に乗っていたはずの乗客の安否は容易に想像がついた。


 唾液を飲む。その音が耳孔で響く。手に汗が滲む。視覚どころではない、全感覚、全神経が改めて”それ”のみに集中する。


「ーーミナギ様」


 呼びかけの声に、ミナギはびくついた。シエルが不安そうな顔を浮かべていた。


「先へ急ぎましょう。じきに雨が降ると思われます」


 事実、シエルがそう言っている最中から、微細な小雨が降ってきていた。


 やがてそれらは看過できないほどの大粒になり、草木と地面をけたたましく叩いた。


 3人は道中に見つけた洞窟で雨宿りをすることにした。焚き火に当たりながら、今日はこれ以上進むのはよそうという話になった。


 「いきなり蝶が寄ってくる」


 ヴァーユがぽつりとシエルに告げた。たしかにさっきまで近くにいなかった蝶が幾らか漂いながらも着々とヴァーユの胸ポケットに集っている。


 再びスプレーをシエルに散布してもらう。その後は、ヴァーユはやはり何か腹の中に抱えた様子でその日はずっと大人しくしていた。


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 日中降り続いていた雨は日没後に落ち着き、深夜にはすっかり止んでいた。


 そのタイミングを見計らって、ミナギは起き上がった。バックパックを背負い、万が一のことを考えて、これからの行き先を告げる手紙を寝床に置いた。


 シエルはぐっすり眠っていて、クッションの上で細っこい体を丸めていて、寝息でゆっくり上下している。離れた所にあるヴァーユの寝袋も膨らんでいた。


 気づかれていない事を確認すると、ミナギは洞窟を作っている岩の上に登った。そこは林冠よりも高い位置にあって、夜空を思い切り見上げることができたのだ。


 北の方向を見上げる。ある星を探す。


 まずは、柄杓型に並ぶ北斗七星を目印にその星の特定を試みる。柄杓の先端にある2つの星であるa座とβ座を結び、その線を5倍ほどに延長した先に目的の星のポラリスがある。ポラリスとは、つまりは北極星のことだ。


 ミナギは、北斗七星らしき柄杓型を目に留めた。だが、柄杓の先にそれらしき星が見えない。


 おかしいと思い、携帯に収めた天体観測の本のページを見ると、北斗七星は本来とは逆さまになっていることに気づいた。


 カシオペア座らしき並びを見つけても、北斗七星のある方向に対して、あるべき「W」字ではなく「M」字になっている。


 この2つの星座の中間、こぐま座に相当する星を見てみると、やはりそれも逆さに並んでいた。黄色く光るというポラリスは、柄の先端ではなく、四角形に並ぶ星のひとつになっているように見える。


 何度も何度も見返したが、見間違いではないという事実が補強されていくばかりだった。


 あべこべの星を前に、ミナギの胸中では一気に恐怖が湧き上がった。


 初日に今背負っているバックパックを拾った時、今導き出した答えに近いことを考えようとした。だがそれは考えないようにした。


 この森に漂う新種の蝶がどうして公表されていないのか。ヴァーユとその謎を共有した時にも、同じことが頭に浮かんだ。だがそれは少年に言わなかった。


 この森に来てから、常識から逸脱した事態にいくつも出くわしてきた。喋る動物、脈略なく落ちている物、それらに群がり光る蝶。


 ーーそして、昼に見た墜落飛行機。極め付けは、滅茶苦茶な星の並び。


 ミナギの思考の中で、それらの不可解な現象の数々がある1点に集中していき、ひとつの答えを生み出した。


 導き出した解は、合理的ではないかもしれない。非現実的かもしれない。飛躍しているかもしれない。


 しかし、これほどの不条理を見せつけられれば、ミナギにとってはこう思うのも自然だった。


 ーー私達はもう死んでいる?

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