第四章「灰色、変わらない世界」

 何も感じなくなっていた。


 喜びも、悲しみも、怒りも、何もかも。


 ただ、それでも、自分は存在している。


 からっぽで、抜け殻のような自分。


 周りの景色も、聞こえてくる音も、どこかぼんやりとしていている。


 どうして自分がここにいるのかわからない。


 わからないが、俺は立っていた。ゆっくりと視線を下ろす。


 大きな棺。上部には小さな扉があり、今はそれが開かれている。


 そしてそこから、みおなの顔が見えた。


 化粧を施され、静かに目を閉じている。


 あぁ、そうか。やっぱそうだよな。嫌だと拒絶をしても、現実を突きつけられる。俺は理解せざるを得なかった。


 みおなの首にうっすらと残った跡。それは化粧でも完全に消えることはなく、俺たちに何が起きたのかを生々しく物語っていた。

 

 みおなは自殺したのだ。


 寿命を全うする事もなく、俺と同じ十七年という若さで。それが俺たちに突きつけられた現実だった。


 辺りを見渡す。杏子さんがいた、ばあさんがいた。航がいて、康也がいて、沙織がいて、夏美がいる。何だよ、みんな揃って。そんなに悲しい顔して。わんわん泣いて。なぁ、みおな。みんな心配してるぞ。それなのに、何でお前はそんなところにいるんだよ。早く、出てこいよ。


……あぁ、そうだ。またみんなで海に行こう。バーベキューをして、馬鹿みたいにはしゃいで、それで夜になったら肝試しをしよう。今度はとびきり怖いやつだ。どうだ、楽しみだろ……なぁ、何とか言えよ。


 火葬炉の扉が開かれ、大きな音を響かせながら棺を乗せた台車は、ベルトコンベアーで運ばれていく。

 

 ——ゆっくりとみおなは遠ざかっていく。


「みおな、みおなぁぁぁ……!!!」


 杏子さんは嗚咽を漏らし、悲痛な声で何度も何度も叫んだ。そして、その場に崩れ落ちる。


 ——ゆっくりとみおなは遠ざかっていく。


「あぁぁぁぁ……あぁぁぁぁ……みお……ちゃん……」


 ばあさんはかすれた声で、体を震わせながら手を合わせ続ける。

 

 ——ゆっくりとみおなは遠ざかっていく。


 そして……みおなは火葬炉の中へと飲み込まれていった。


 「「「「みおなぁぁぁぁー!!」」」」


 火葬炉の扉が閉まる音とともに、みんなの叫び声が辺りに響き渡った。


 俺だけがその場に平然と突っ立っていた。


 涙を流すこともなく、声を上げることもなく、俯瞰でその地獄のような光景を眺めている。


 どうしてこんな事になったのだろうか? どうしてみおなは自殺をしなければいけなかったのだろうか?


 ……いや、違う。これは、みおなの責任じゃない。ずっと追い込まれていた事に気がつかなかった俺の責任だ。ずっと一緒にいたのに。それなのに俺がみおなにプレッシャーを与え続けた。いや、それ以前の問題なのかもしれない。そもそも俺がみおなと出会わなければこんな事にはならなかった。みおなを助ける? 支えたい? 俺は一体何様のつもりだ。俺がやった事は、結局みおなの為でも何でもなかった。いい格好をしたい、いい奴でいたい、そんな自分が見栄を張る為の醜いエゴだ。情けない自分が、無力な自分が、哀れな自分が、憎くて憎くて仕方がなかった。誰かが死ななければならない運命を背負っていたのだとしたら、それはみおなじゃない。


 ……あぁ、そうだ。……俺だ。俺がみおなの代わりに死ぬべきだった。


 みんなが泣き崩れている中、俺だけが自嘲するような薄笑いを静かに浮かべていた。


          ◆◆◆


 八月三十一日。住み込みバイト最終日。 


 俺たちはあおい寮の玄関に立っていた。約一ヶ月前、初めてこの場所を訪れた時と同じ荷物を持って。ただそこには、みおなだけがいなかった。みおなだけが。まるで最初から存在しなかったかのように。杏子さんは、俺たち一人一人の顔を見つめた後、


「————————」


 何かを話していた。しかし、俺の耳には一切言葉が入ってこない。


 ただ涙を流しながら、申し訳なさそうに、苦しそうに、俺たちに頭を下げている事だけは理解できた。航も、康也も、夏美も、沙織も、みんな杏子さんに何かを言っていた。俺にはなぜかその光景がぼやけて見えていた。当事者ではなく、まるで舞台の外側からその光景を眺めているような感覚。本来ならちゃんとしないといけない場面なのだろう。 


 この一ヶ月間世話になった人たちに、俺は何かを伝えなければいけないはずだ。けど、もう……どうでもよかった。だって、みおながいないこの世界は、冷たくて、残酷で、何もかもが灰色に見えてしまっていたから。結局、俺は杏子さんに一言も声をかける事はなく、あおい寮を後にした。


          ◆◆◆


 俺たちは、電車に揺られていた。


 周りに視線を向けると、みんな深刻な表情をしつつも、何か会話をしていた。俺にも何度も話しかけられていたようだったが、まるで海の底に自分がいて、遥か彼方の海上から声をかけられているように、全くその声が俺には届かなかった。俺はずっと俯き、まるでマネキンのように座っている。


 ただただ時間と、窓の外の景色だけが流れていった。


「————」


扉が開き、夏美が席から立ち上がる。


……何か声をかけようか。いや、無理だ。俺なんかに声をかける資格はない。みんなが心の傷を負ってしまった事。みおなという存在がこの世から消えてしまった事。それは全て、何も出来なかった俺のせいだ。そんな俺が、みんなに何を言う事が出来る?


「元気でな」それとも、


「楽しかった」それとも、


「ありがとう」それとも、


「ごめん」……どれも馬鹿げてる。


何も言えない。だから俺は口を閉ざした。夏実は寂しそうに俺を見つめ、そして降りて行った。あぁ、これでいい。これでいいんだ。


 そして、沙織が降りて行った。


 そして、康也が降りて行った。


 そして、航が降りて……。


「————————」


 突然、航は俺の胸ぐらを掴んだ。


 そして、目の前で何かを言っている。怒っている。いつもおちゃらけていたこいつが不意に見せる、必死な表情。誰とも会話をしようとしない俺に、いつまでも情けない俺に、逃げ続けている俺に、こいつは怒っている。


 ……けど、どうしろって言うんだよ。俺にはどうする事も出来ない。なぁ、航。教えてくれよ。何か方法があるんだったら教えてくれよ。航は俺の胸ぐらを掴んでいた手を離す。


「————から……絶対にまた連絡するから!」


 声が。言葉が。再び、俺の耳に入ってきた。

 そして航は、振り返ることもなく電車を降りて行った。


 ……ガタン、ゴトン。


 夏の終わりを告げるように、電車は音を響かせ走り続ける。

 生きているのか死んでいるのかわからない俺を乗せて。


          ◆◆◆

 

 多くの乗客と共に電車の扉から吐き出された俺は、地元に戻ってきていた。

 見慣れた駅のホーム、見慣れた景色。見慣れた人の流れ。


 しばらくぼーっと突っ立ていた俺は、後ろから早歩きのサラリーマンにぶつかられて、思わずその場に倒れそうになる。ぼやけた視界の中。俺はしぶしぶ歩みを進めた。改札を抜けて、町を見渡す。


 高層ビルが立ち並び、人が慌ただしく早歩きで横断歩道を駆けていく。この一ヶ月間、色々な事があったというのに、この町だけは何も変わってない。それがいいのか、悪いのかさえわからない。


 そして、俺が再びとぼとぼと歩き始めた瞬間。


 ぽつり……ぽつり……ざあぁぁぁぁぁ。


 水滴が腕を伝った。空に顔を向けると灰色に覆われた雲から、大粒の雨が降り注ぎ始める。


 顔が濡れる。


 身体が濡れる。


 冷たい。


 気持ち悪い。


 けど……どうでもいい。


 傘を差す気にもならない。すぐ近くにコンビニが見えたが、寄って買おうとも思わなかった。ただただ、雨に打たれ続けた俺は、何かに引き寄せられるように自分の家へと向かう。そして、全身ずぶ濡れの状態で、自分の家の玄関の前に立っていた。インターホンを鳴らすと、しばらくして扉が開かれた。


 「和希!」


 「…………」


 声をかけられる。母さんである事は間違いない。しかし、俺はまともにその声の主の顔を見る事が出来なかった。喧嘩をしたままで多少気まずかったのもあったのかもしれない。けど、それ以上に、今の俺には自分の家族にどんな顔をして、どんな言葉をかければいいのかがわからなかった。だから、結局口を閉ざす事しか出来なかった。


 「ちょっと、あんた傘差してこなかったの?」


 「…………」


 「とにかく早く、入りなさい」


 俺はまともに母さんと会話をする事もなく、風呂に入り、気がつけば自分の部屋にいた。


 外からは雨の音がしとしとと聞こえている。俺はベッドにドサッと体を預けた。何もかも忘れて、現実から逃げるように眠りにつきたかった。けど、頭の中では自分でも把握できないほどの、感情がぐるぐると回り続ける。


 ……駄目だ。眠る事を諦めた俺は、再びベッドから体を起こし、鞄の中身を整理する事にした。服を取り出して、タンスへと直していく。一通り片付けが終わり、ベッドの上に腰掛けていると、ある物が視界に入った。


 杏子さんに「こっちで何とかしておくから」と言われたが、俺は頑なにそれを拒否し、結局持って帰ってきてしまった。自分でもどうして、そんな行動を取ったのかはわからない。大きなカバンを背負いながらも、あおい寮から、ずっとこれだけは手離さずに持っていたらしい。


 ——勉強机の上に置かれている小さな透明の袋。


 その中には、金魚が入っていた。


 ふいにあの時の映像が。あの時の言葉が脳裏によぎる。


 『この子は、和希にあげる』


 『いいのか?』


 『うん。ずっとお礼がしたかったの』


 あの夜が。みおなと祭りを楽しんだあの夜が。もう戻って来る事はない。その事実を突きつけるかのように、金魚は力なくプカプカと水の上に浮かんでいた。もう二度と、元気に泳ぐ事はなかった。


 ずっと堪えていた何かが。心の中の何かが。まるでダムの決壊のように、一気に崩れていくような気がした。

 俺はその金魚を見つめながら呟く。


 「みおな……」


 どうする事も出来なかった。


 「ごめん……」


 どうにかしたかった。力になりたかった。


 「ごめん……ごめんっ……」


 何かを抱えていたんなら。苦しんでいたんなら。少しでも俺に話を聞かせて欲しかった。

 

 「ごめん……ごめんっ……ごめんっ……」

 

 俺はただ。


 ——みおなに前に進んで欲しかった。 


 「っっあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」


 泣いた。


 床に頭をこすりつけて、涙で視界が見えなくなるほどに。


 子供のように嗚咽を上げ、声が枯れ果ててしまうほどに。


 何度も何度も泣き続けた。

 

 外から静かに聞こえる雨の音。そして、俺の嗚咽が響き渡っていた。


  

 …………

 ……

 …



 眠っていたのだろうか。


 いつの間にか意識がなくなり、記憶もはっきりとしない。


 ただ、とてもいい気持ちだった。温かくて気持ちいい。


 ぷかぷか、ゆらゆら、ふわふわ。


 どこかに浮いているような、何かに包まれているような、不思議な感覚。


 あぁ、ずっとこのままでいたい。ずっと、ずっと、このままで。


 ……どこかからうっすらと声が聞こえる。母さんだろうか? あ、なるほど。自分の置かれている状況が理解できた。


 おそらく俺はいつの間にか眠っていて。今はもう朝で。俺は学校に行かなければいけない。


 ぷかぷか、ゆらゆら、ふわふわ。


 そして今日は九月一日。夏休みは終わり、三学期が始まる。


 だから、母さんが俺を起こしに来てるのだろう。


 夢の中だというのに、こうやって冷静に考えている自分が、少し可笑しく思えた。


 仕方ない、目を開ける事にしよう。



 …………

 ……

 …



 ……どういう事だ。


 俺はまだ寝ぼけて夢の続きでも見ているのだろうか。少しずつ全ての感覚が研ぎ澄まされていく。視覚も、聴覚も、嗅覚も、触覚も。そして、それら全てが自分の体に伝わった瞬間、俺の頭の中は真っ白になった。


 だって現実は、俺が想像していたものとはあまりにもかけ離れていたから。夏は終わった。みおなは自殺し、みんなとは気まずいまま別れ、そこで何もかもが終わった。


 そうだ、終わったんだ。……それなのにこれは一体、何の冗談だよ。


 汗ばんだTシャツ、うるさいほどの蝉の声、微かな木の香り。


 そして、俺が困惑している事なんか御構い無しに、目の前にいる人物は眩しい笑顔をこちらに向ける。

 

 「ようこそ、あおい寮へ」


 ありえない。数々の疑問が頭の中を埋め尽くしていく。


 一体、何がどうなってるんですか? 


 どうして俺はここにいるんですか?


 どうして目の前にあなたがいるんですか? 


 どうしてあなたはそんな顔で俺を見つめてるんですか?


 どうして俺は、こんなにも胸が苦しいんですか?


 ねぇ、教えてください。


 教えてくださいよ。


 「君は山岡君だよね?」 


 ——杏子さん。


          ◆◆◆


 クーラーの風が汗をかいていたTシャツの隙間を通り過ぎていく。目の前には、さっき杏子さんが入れてくれたカルピスがグラスに入っている。しばらく飲まずにいた為、氷が溶けて小さくカランと音が鳴った。


 頭がおかしくなってしまったのだろうか。俺はあおい寮のリビングにいて、こうやって杏子さんに履歴書を見てもらっている。この状況は……何もかもが一ヶ月前と同じだった。そして、しばらく視線を送っている俺に杏子さんはこう言った。


 「ん? どうしたの?」


 「……」


 「あ、綺麗な人だなーって思ったんでしょ?」


 「……」


 俺は愕然とした。


 その聞き覚えのあるフレーズまでもが全く同じで。静かに。そして確実に。俺の思考を奪い去っていく。俺が黙って、視線を斜め下に泳がせていると。


 「ちょっと、今のは笑ってくれないと。私が変な人みたいじゃない」


 杏子さんはどこか俺に気を遣うように、やわらかなトーンで微笑む。


 「……」

 口を閉ざしたままの俺を見て、杏子さんは履歴書をテーブルに置き、頬杖をつきながら。


 「山岡君、何か元気ないわね。あ、ひょっとして緊張してる? 大丈夫よ。だんだんここでの生活も慣れてくると思うし、それに——」


 「……どういう事ですか?」


 俺は静かに口を開いた。


 「どういう事って?」


 「杏子さん、また俺の事からかってます?」


 「……え?」


 勝手に口が動いていく。


 こんな事、言いたくない。けど、確認しない訳にはいけない。この違和感が、この不安が、全て嘘なんだって。俺がおかしいだけなんだって。杏子さんに、いつものように笑い飛ばして欲しかった。 


 「からかってるつもりはないんだけど……」


 「じゃあ、何でそんな呼び方するんですか?」


 杏子さんは首をかしげながら応える。


 「呼び方?」


 「山岡君って」


 「えっと……そう言われてもねぇ」


 「だから、何でそんな他人行儀な感じなんですか!」


 俺は思わず立ち上がり、声を荒げる。もう冷静ではいられなかった。


 「……」


 「……」


 沈黙が流れる。


 クーラーの風の音。窓の外から聞こえる蝉の鳴き声。その二つだけが、この空間を包んでいた。


 俺は目線を机に彷徨わせながら、杏子さんの返事を待っていると、どこか悲しそうな声がすっと耳に入ってきた。


 「ごめんなさい」


 「え?」


 「山岡君の言ってる事がよくわからない……」


 何でだよ、何でわかってくれないんだよ。


 ……あぁ、そうか。そして、俺は理解する。やっぱり踏み込まなくてはいけない。真実を確かめなければいけない。けど、怖い……体が震え、唇までもが次の言葉を発する事を恐れているのがわかる。そして、俺は伏し目がちに、静かに声を絞り出した。  


 「俺の事……覚えてないんですか?」


 杏子さんは、一瞬目を丸くして。


 「覚えてないっていうか……」


 と、つぶやき微笑みながら俺を見つめる。


 「山岡君とは、今日初めて会ったばかりでしょ?」


 その声が。その言葉が。部屋の空気を震わせる。


 俺の中の何かが大きな音を立てて、崩れていった気がした。

 これが現実。抗いようもない現実。どうしてだよ、何でだよ、訳がわからない。もどかしい。この気持ちを今直ぐにでも吐き出したい。全てぶつけてしまいたい。


 「俺は、このあおい寮にっ……」


 どうしてだろう……。


 「山岡君?」


 「ずっと……」


 その先を言う事が出来なかった。杏子さんは、表情を曇らせじっと俺を見つめている。


 「……何でもありません」


 俺は口を閉ざした。……ひどい悪夢を見ているようだった。何かに懇願するように、スマホを取り出し今日の日付を確認する。液晶に浮かび上がる文字。それを見て、俺は言葉を失った。


 『七月二十五日』


 何かの間違いだと思った。そして、慌ててラインを起動させる。


 …………ない。……ない。ない。ない。ない。


 俺はあおい寮のみんなとラインの交換をしたはずだった。しかし、どこを探してもそのアカウントが見つからない。 


 それだけじゃない。七月二十五日以降のラインの履歴は全て存在しなかった。一体、どういうことだ……。


 今、何が起きているのか。これが果たしてどんな状況なのか。あまりにもわからない事が多すぎる。ただ、それでも。俺は一つだけ認めなくてはいけない。こんな馬鹿な状況を、言葉にしなくてはいけない。

 

 ——俺は一ヶ月前に戻っている。


          ◆◆◆


 その後、まるでドラマの再放送のように、俺の知っている展開が繰り広げられた。

 杏子さんに部屋へと案内され、航と出会い、その流れで康也と夏美と沙織に出会う。俺が当時と同じような反応をしなかった為、会話の内容は少し変わったとは思う。それでもきっかけになるようなイベントは、一ヶ月前と同じように起きていた。俺は吐き出しようもない感情に押しつぶされそうだった。もう会う事はないだろうと思っていた、あおい寮の仲間たちとの再会。みんなに本当の事を打ち明けようかと思った。けど、いくら会話を交わしても、俺の違和感がなくなる事はなく、そればかりか最悪の予想は確信へと変わった。杏子さんを含め、他のみんなには俺との記憶なんてちっとも残ってなんかいなかった。この場所で過ごした一ヶ月間は、全てなかった事になっている。


 そして、その事を知っているのは俺しかいない。だから、たとえ本当の事を言ったとしてもこんな話、誰も信じてくれるはずがない。ただみんなを困惑させるだけで、それは何の解決にもならない。だから、俺はしばらく様子を見る事にした。航、康也、沙織、夏美との二度目の初めまして。そして、自己紹介。


 心が壊れそうだった。もう逃げ出したかった。俺だけがこの世界でただ一人とり残されている。これが、俺に与えられた罰なのだろうか……。


「あ、みんなちょっといいかな? 実はね、今回のメンバーこれで全員じゃないんだ」


「え!? そうなんですか? そうなんですか?」


「まじかー俺、これで全員だと思ってたんっすけどー」


 夏実と航が残りのメンバーの気持ちを代弁するように、素直にリアクションをとる。俺の目の前ではまたしても、見覚えのある展開が繰り広げられていた。


「ここにいるみんな以外にもう一人いるの」


 と、杏子さん。


「じゃあ、どうしてここに来てないんですか?」


「もしかして、来る途中で何かあったとか?」


 続けて、康也と沙織がそれぞれに質問をする。


「まぁ、実際色々あって……あぁ、トラブルに巻き込まれたとか事故にあったとかじゃないのよ! というかその子、私の妹なんだけど」


「……」


 杏子さんのその言葉を聞いて、俺の胸は締め付けられるように痛み始めた。


「みんなはネットを見て応募して来てくれてるけど、その子は個人的に私から声をかけたの。まぁ、無理やり連れてきたに等しいんだけど」


「へーそうなんだ! どんな子なんですか?」


 夏美が好奇心全開の瞳を、キラキラと輝かせて尋ねる。


「ちょっと変わってる子かな。みんなとも早く仲良くなって欲しいし、夕飯には来るように声かけたんだけどダメだったみたい。まぁ、もう一人いるって事は覚えておいて。また改めて紹介するから」


 知っている。俺はその子を知っている。その子の名前を知っている。


 その子がどんな風に笑って、どんな風に泣いて、どれだけ大きなものを背負っていたかを俺は知っている。


 篠宮みおな。君に会いたい。


 もう一度、君に会いたい。


 そして、今度こそ。


 今度こそ俺は——


 ……ちょっと待てよ。

 

 ふと、俺の中である考えが浮かんだ。何でこんな状況になっているのかはわからない。けど、俺は確かに一ヶ月前の世界に戻っている。多少のズレはあるものの、基本的には同じような会話、同じような出来事が起きている。だとしたら、この後の展開は? 俺はあおい寮での、初日の出来事を思い返した。この後、俺は自分の部屋に戻り眠りにつく。


 夜中に目覚め、屋上へと向かい、そして俺は……。


 みおなと再会する。


 体が震え、呼吸が荒くなっているのがわかる。そうだ。この世界が本当に一ヶ月前と同じように再現されるのなら、俺はもう一度みおなに会う事が出来る。恐らく、みんなと同じように俺の事を覚えてはいない。けど、そこに希望がない訳じゃない。俺は何度も何度も後悔していた。あの時、こうしていれば……違う行動や決断をしていれば……あんな最悪の結果にはならなかったのかもしれないって。そして、もう何も出来ないと思った。結果は永久に変わらず、ただ現実を受け止める事しか出来ないのだと思った。けど、今は違う。もう一度、最初からやり直せる事が出来るかもしれない。結果を変える事が出来るかもしれない。だとしたら、まだやるべき事は残っている。俺は心の中で誓った。


 今度こそ……みおなを死なせはしない。


          ◆◆◆

 

 時刻は0時過ぎ。


 俺は大きく息を吐き、屋上へと続く扉を開けた。心地の良い風が身体を通り過ぎ、鈴虫の鳴き声がすっと耳に溶けていく。この先にみおながいる。そう考えると、俺は気が気でいられなかった。一歩、一歩と階段を上る。そして、踊り場で足を止め、ゆっくりと顔を上げた。……やっぱり同じだった。俺はこの印象的な光景を忘れはしない。


 満天の星。宝石箱を散りばめたように数多くの星が光り輝き、誇らしげに、確かにそこに存在している。


 これが現実なんだ。これがこの世界の全てなんだ。そう訴えかけているように。この世界は何も変わってなくて。全てが正しい。そう。紛れもない現実。だとしたら俺は、この現実に向き合わなくてはいけない。手をぎゅっと強く握りしめ、再び足を進める。いくら考えても答えは見つからなかった。俺はもう一度みおなと会って、何を話し、何をすればいいのか。けど、一歩を踏み出す事で少しでも何かが変わるなら。俺は進む。あんな結末はもう二度と見たくないから。だから俺はこの先にいる女の子が、笑って過ごせる未来を作ってみせる。今度こそ、絶対に。俺は最後の一歩を力強く踏み出し、屋上に辿り着く。そして俺の目に飛び込んで来たのは……。


 ——誰もいない、寂しげな空間だった。


 ……どうして。ここにみおなはいるはずだ。そして辺りを見渡しながら、ふと自分が見落としていたある事に気づく。あの時。俺が階段を上って来た時。今とは違う出来事が起きていた。


それは……バイオリンの旋律。


みおなが演奏するバイオリンの旋律が聞こえていた。けど、今は何も聞こえなかった。そして、この場所にみおなはいないという事実。何かの条件が違っているとすれば……時間か。俺はあの日、自分がここに来た正確な時間を覚えていた訳じゃない。つまり、ここにみおながいないという事は、単に来るのが早かったという可能性が考えられる。だとすれば、まだみおなは現れる。俺はいつの間にか早くなっていた鼓動を落ち着かせるように大きく深呼吸をして、みおながこの場所に来るの信じて待つ事にした。五分が経ち、十分が経ち、そして二十分が経った。しかし、みおなは現れなかった。不安が、焦りが、頭を支配していく。もう会えないのだろうか。いや、違うな。俺は自分で何を舞い上がっているんだ。 


 そして、ふっと口元を綻ばせる。そもそもみおなが絶対に現れるなんて保証はどこにもない。今まで同じような出来事が起こっていたから、勝手にそう思い込んでいるだけだ。このよくわからない世界において、例えば『みおなは初めから存在しない』というイレギュラーな事が起きたっておかしくはない。そう思えてしまうのは、皮肉にも俺自身が未来の記憶を持ち、こうやっててここに立っているという事実があるから。そう。何でもかんでもうまくいく事ばかりじゃない。それは、俺が身を持って知っているはずだ。


 ……もう一度、これからどうしていくかを考えよう。


 ——ガタン。


 ふと、下から扉が閉まる音が聞こえた。そして、階段を上る小さな足音が俺の耳にすっと入ってくる。一歩、また一歩。体全体に電気が走ったようにビクつき、やがて硬直する。さっきまで落ち着いていた鼓動がドクドクと再び音を立て始める。誰かがここに来る。足音は近づき。やがて。その人物が姿を現す。



 ——満天の空の下、二人は出会った。



 景色の一部として溶け込んでいるような黒のワンピース。


 しっかりとバイオリンケースを握る白く細い手。


 ふんわりと風になびく、胸のあたりまであるウェーブした黒髪。


 驚きを隠せずにいる、大きく透き通った瞳。


 やがてその人物は眉をひそめ、自らの身を守るように両手でバイオリンケースを抱え直し、怪訝な視線をこちらに向ける。


 「……みおな」


 その一つ一つが、懐かしくて。その一つ一つが、愛おしくて。


 それら全てがその人物の存在を、確かなものにしていた。みおなが生きている。息が詰まりそうだった。湧き上がる感情が、俺の心と体を支配して離さなかった。そして、確かに目の前にいるみおなを見つめながら、共に積み上げてきた思い出が走馬灯のようにフラッシュバックしていく。


 この場所で出会ったこと。定食屋の帰りに喧嘩をしたこと。駄菓子屋でバイトをしたこと。みんなと海でバーベキューをしたこと。バイオリンの練習をしたこと。二人で祭りを楽しんだこと。胸がぎゅっと締め付けられて。熱い何かが。そっと蓋をしていた何かが、溢れ出そうとしている。たとえ俺の事を覚えてくれてなくてもいい。ただ、そこにいてくれるだけで今の俺には十分だった。

 

 「……」


 「……」


 ……言いたい事があるはずなのに。俺は言葉を詰まらせていた。鈴虫の鳴き声が、静かに二人の無言を繋いでいく。 

 そして、意外な事に先に口を開いたのはみおなだった。


 「……どうしてですか?」


 「え?」


 みおなはじっと俺の目を見つめて、ぽつりと言葉を零す。


 「涙……」


 その言葉を聞いて、俺は今の自分の状態に気がつく。頰を伝う熱いもの。手でそっと触れてみる。あぁ、俺は泣いていたのか。濡れた手の感触でふと我に帰り、徐々に冷静さを取り戻していく。そして急にどこか恥ずかしくなり「あぁ、どうしてだろうな……」と、俺は取り繕うようにおどけたトーンで言う。


 「……」


 みおなは何も言わず視線をすっと落とす。そして俺に背を向けて、階段を下りていった。


 「あ……」


 俺はどうすればいいのかわからなかった。けど、咄嗟に口が動く。それはみおなに対してだけではなく、自分自身を奮い立たせるように。覚悟を決めるように。喉が引きちぎれんばかりの大きな声で。


 叫んだ。


「——俺、絶対に負けないから!!」


 瞬間。足音がピタリと止まる。


 そう。俺は負けない。倒れても。倒れても。何度倒れても。


 それが無様で、格好悪くて、最悪の過去として残ったとしても——諦めなければ負けじゃない。


 諦めて負けを認めてしまうのか、勝つまで諦めないのか。それを決めるのは他でもない。自分自身だ。


 だとしたら、俺はどんな事があったとしても前に進む。負けを認めてなんかやるもんか。


 それが、俺のやり方だ。 


 「だから、君も……」


 言葉を続けた時にはもうみおなの姿はなかった。


 ふぅと大きなため息を吐くと、ずっと張りつめていた緊張の糸がプツリと切れたように全身の力が抜けた。そして、俺はその場に座り込む。眼下の町並み、どこまでも広がる海、まるで宇宙にいるように思えてしまう満天の空。


 「……やっぱ最高の眺めだな」


 不思議とあれだけ乱れていた心の波が、少しずつ落ち着いていく。みおなが亡くなって、もうここに戻ってくることはないと思ってた。けど、俺は今ここにいる。この世界にいる。だから、考えるんだ。


 みおなは八月二十九日の祭り当日に、自ら命を絶つ。その結果を変えるには、ちゃんとした原因を知り対策を練る事だ。原因。みおなの心が変わるきっかけ。そしてそこから、どのようにして自らの命を絶つという結論へと行き着いたのか。それがわかれば対策が打てる。……まぁ、口にするのは簡単だ。ただ現実はそんな甘いものじゃない。だってそれは、あまりにも漠然としすぎていて。予想は出来ても、それがみおなにとっての真実とは限らないから。つまり、その自殺の原因となった真実は、みおな本人にしかわからないのだ。じゃあ、俺にできる事はないのか? 結果を変える方法。みおなの考えを、自ら命を絶つという方向へ向かわせない方法。そうか……。ふと、自分の中でストンと何かが落ちてきた。何が正解で何が不正解なのかはわからない。けど、少しでもみおなの心が良い方向に向かうような行動をすれば。そうやって、みおなの考えを変える事が出来れば。結果は変わるかもしれない。俺は自分の手をぎゅっと力強く握りしめた。

 

 やってやろう。絶対に未来を変えてみせる。


 俺の二度目の挑戦が幕を開けた。どこまでもお節介で、どこまでも馬鹿な俺の挑戦が。


          ◆◆◆


 夜の海に立っていた。


 波の音がそっと耳の中へと溶けていく。

 

 頭の中をぐるぐると言葉が駆け巡る。


 自分に自信がない。自分のことが嫌い。自分は何者? 自分は何の為に生きてる?

 人が怖い。人の視線が怖い。人を信じるのが怖い。人に裏切られるのが怖い。傷つくのが怖い。否定されるのが怖い。自分の居場所がなくなるのが怖い。だから。そうなるくらいだったら。もう最初から一人でいい。誰とも関わりたくない。いや、関わらない。


 いつからか私は、そんな生き方しか出来なくなっていた。


 結局、今になってもそう思う。それなのに……どうしてだろう。この一ヶ月の出来事を、私はまるで大切な宝物のように、心の奥深くにしまっている。目を閉じれば鮮明に私の頭の中に描かれていった。



 …………

 ……

 …



 ——七月二十六日。私は驚いた。


 リビングの扉を開けると知らない人たちがいた。聞いてた話と違う。あおい寮には、私しかいないって言ってたのに。お姉ちゃんの嘘つき。……男の子が三人と女の子が二人。見た感じ、私と同じ高校生だと思う。けど、やっぱり怖い。だって、また私のせいで何もかも壊してしまうかもしれないから。だから私は、自分の身を守るように壁を作った。そして、それを言葉にした。まるで演技でもするかのように。


「皆さんも……私には関わらないで下さい」


「この寮で会っても、誰もいないと思って無視してください。部屋にも来ないでください」    


 空気が変わったのがわかった。私は本当に嫌な子だなって思う。初対面でこんなことを言われたら、誰だって嫌な気持ちになる。けど、それでいい。最初から嫌われている方が、深入りしなくてすむから。お姉ちゃんは、すごく悲しそうな顔をしていた。けど、こうでもしないと私は、自分自身をちゃんと保っていられなかった。


 そして、あおい寮でのバイトが始まった。自分の部屋から聞こえてくる、誰かが扉を閉める音、廊下を歩く音、そして楽しそうな話し声。そんな音達が一気に鳴り響いくようになって、どこか慌ただしい。


 私もお姉ちゃんから言われて、おばあちゃんの駄菓子屋に行く予定だった。けど、それを断り続けた。ごめんなさい……わかってる。これは甘えなんだって。そして、私はこうやって逃げ続ける度に、自分のことが情けなくて、また嫌いになるんだ。


 それから状況は、思ってもみない方向へと進んだ。あれだけ徹底していたのに、あれだけ嫌な子を演じて距離をとっていたのに。他の人たちは、それほど堪えていなかった。それどころか、女の子たちが部屋の前から声をかけてきたり、男の子も廊下で私を見つけると、こっちにやってきて話しかけてきたりするようになった。なんでなんだろう。もうほっておいて欲しいのに。私なんかに構わないで欲しい……。


 それからも私は、バイトに行かず、みんなが集まる夕飯にも顔を出さなかった。私だけが、あおい寮で違った一日を過ごしていた。みんなが朝ごはんを食べてバイトに行ったのを確認してから、一人でバスに乗り海に向かう。そして、ゆっくりと景色を眺めながら考え事をする。それで、何か悩みが解消されるわけじゃないけど、誰とも関わらない時間が、どこか私の心を落ち着かせた。お姉ちゃんとおばあちゃんには申し訳ないけど、今回はこうやって過ごそう。そう思っていた。それなのに……。


 ——八月三日。彼は「はんなり亭」にいた。


 あの夜、屋上で会った人。そしてなぜか、涙を流していた人。帰り際に「絶対諦めないから」って、よくわからないことを言ってきた人。けど、彼から醸し出される空気は、他の人とはどこか違っているように感じられた。不思議な人だなって思った。そんな彼がカウンターに座っている。誰にも言わなかったのに、どうして私がここにいることがわかったんだろう。私は戸惑った。警戒した。もう帰ろうって思った。けど、店長さんに止められて、あとよくわからない理由で彼の近くの席に座ることになった。本当に帰りたかったけど、お腹の虫が悲鳴をあげていたのは確かで、私はその誘惑にあっけなく負けてしまった。このお店の定食は本当においしい。ちょっと怖い顔だけど、実はとっても優しい店長さんの人柄も相まって、私は居心地のいいこのお店が大好きだった。


 肝心の彼とは何も話さなかった。自分が蒔いた種だっていうのはわかっているけど、それでもすごく気まずい。グレートブリテン漢魂ハッスル定食を、店長さんが無理やり彼に食べさせていたのを見て、それが凄くおかしくて少しだけ口元が綻んだ。お店のテレビでは、高校野球が流れていた。一生懸命に何かに向かって進んで行く人たち。その姿を見ていると、ふいにコンクールの時のことが思い出された。私もあの頃はそっち側だった。けど、今の私はどうなんだろう。いつまでも怯えて、一歩を踏み出そうとしない。ずっとずっと逃げ続けている。その事実が大きな劣等感となって膨れ上がり、私の心を蝕んでいたのは確かだった。


 「野球、好きなのか?」


 瞬間。声が響いた。突然の彼からの質問。焦りながらもどうしようかと悩む。また冷たい態度をとって、突き放そうかな。……けど、どうしてだろう。私は拒絶することも、無視をすることもなく、ただ自分が思うことを口にしていた。


 「……ルールはあんまりわかりません」


 「え?」


 「でも、同年代が頑張ってる姿を見ていると凄いなって思います」


 「そっか」


 「はい」


 それだけの会話を交わして、私たちは店を後にした。



 海沿いの道を二人で歩く。バスがもうないからっていう理由で、気がつけば彼と一緒に帰ることになった。隣を歩いている彼は、明るい声で話しかけてくる。


 「あの定食、美味かったな」   


 「……はい」


 「名前はふざけてたけど」


 「私も最初はびっくりしました」


 「どうしてあの定食注文しようって思ったんだ?」


 「あぁ……あの名前でどんな料理が出てくるのか興味が湧いて」


 「なるほど。確かにその気持ちはわかる。しかも、美味かったし」


 「はい」


 「でも、一つだけ納得がいかない事があるんだよな」


 「納得いかない事?」


 「うん。あの料理を、あんないかついおっちゃんが作ってるってのが、想像できない」


 自分でも驚いていた。だって私は今——笑ってる。


 少なくとも、この瞬間の会話を楽しいって思えてる。本当に不思議だ。

 しばらく会話をした後、彼は突然歩みを止めた。そしてどこか言いづらそうに。


 「……なぁ、変なこと聞いていい?」


 「はい」


 波の音が私たちの会話の間を繋ぐ。潮風がそっと吹き、髪を揺らしていく。彼はゆっくりと振り返り、私の瞳を見つめながらこう言った。  


 「君は、自分なんて生きてても意味がないって思う?」


 「え?」


 まるで心の奥深くを見透かされているような、そんな質問。そう。それは、ずっと思っていたこと。おじいちゃんが亡くなって、コンクールが終わったあの日から、その思いは日に日に強くなっていた。何で私は生きてるの。生きる意味があるのって。私は観念して、正直に答える。


 「思います」


 「どうして?」


 「だって私には価値がないんです。何もかもからっぽです」


 私が自嘲してそう言うと、彼は本当に悲しそうな表情をしていた。唇を噛み締めて、何かをこらえているようなそんな表情。どうして? 何でそんな顔をするの? 私にはその理由が全然わからなかった。そして、彼は「そっか……」と小さく呟き、続けてこう言った。


 「なぁ、頼みがあるんだけどさ」


 「何ですか?」


 「俺ともう一度……」


 「え……」


 次の瞬間。彼の口から出てきたのは、思いもよらない言葉だった。


 「友達になって欲しい」


 彼はそう言ってにかっと笑った。 


 ……なんでそんなこと言うんだろう。


 私のことなんか、もうほっといて欲しかったのに。でも、その瞬間。自分でも理解できない感情が心の底から湧きあがってきた。どうして。なんで。わからない。

 ただ、いつの間にか私の頬には熱いものが流れていた。それは、まるであの夜の彼のように。


 そっか。私は自分でも気づかなかったんだ。


 本当は、その言葉をずっと誰かに言って欲しくて。


 本当は、その言葉が涙が出るくらい嬉しかったって事が。


 ——八月四日。私は決意をした。


 それは、小さな一歩なのかもしれない。でも、ちょっとだけ進んでみようって思った。いくら強がって意地を張っても、彼の言葉に救われたのは確かで。それと同時に彼にも、お姉ちゃんやおばあちゃんにも、やっぱり申し訳ないって思ったから。私は篠宮駄菓子店に向かった。そこには彼がいた。私は素直に今まで休んでいたことの謝罪と、お店の仕事を教えて欲しいって頼んだ。すると彼は、こんな事を言い出した。


 「いいよ。ただし条件がある」


 「条件ですか?」


 「あぁ」


 「何をすれば……」


 「これから俺たちとタメ口で話す事」


 仕事を教えてくれる条件がそれだなんて、なんかずるい。けど私は、少しずつ彼に惹かれていった。怖いし、不安だけど、結局その条件をのむことにした。私はそれからバイトに行くようになって、リビングでみんなと一緒に夕飯を食べるようになった。今まで拒絶していたのに、何を今更って思われたかも。


 けど、そんな私を彼が……ううん。和希が後押ししてくれた。

 

 そして、みんなの事をちゃんと名前で呼ぶことが出来るようになった。和希、航、康也、沙織、夏美。みんなとタメ口で話した。どこかぎこちなかったかもだけど、それも次第に慣れていった。そんな心境になれたのは、みんなが私を歓迎する空気を作ってくれていたからだと思う。もちろん、すぐに全てを受け入れられたわけじゃない。不安は変わらず、私の心に居座り続けていた。こうやって勇気を出して踏み込んだけど、また傷ついてしまったらどうしよう。裏切られてしまったらどうしようって。けど、今は深く考えなくてもいいのかもしれない。だって実際に話してみると、みんな本当にいい人たちだったから。


 航はチャラいみんなのムードメーカー。そして普段はふざけてるけど、実はちゃんと自分の芯を持ってる。康也は物知りでクール。でも意外と天然っぽいところもあって面白い。夏美ちゃんは明るくていつだって元気。周りの人を笑顔にしてくれる。沙織は気が強いところもあって男前。いざって時はみんなを引っ張ってくれるリーダー。


 そして和希は……私を救ってくれた、ちょっとおせっかいな男の子。


 少しずつ、少しずつだけど。みんなとの生活が当たり前になって。なんか私も同じあおい寮の一員って感じがして、それが本当に嬉しかった。


 ——八月十日。みんなと海に行った。


 あおい寮のみんなでバスに乗る。車内は私たちしかいない。まるで遠足に行く少女みたいに、私の心はわくわくしていた。航が急に歌い出したり、夏美ちゃんが大声で笑ったり。それが見ていておかしくて。まるで私たちだけの空間のように思えた。バスから降りた私たちは、一目散に海岸に向かった。みんな次々に走っていく。だから私も和希と一緒に、みんなに置いて行かれないように全力で走った。


 お肉をたくさん食べた後、みんなは海に飛び込んでいった。そして私は一人、考え事をしていた。


 目の前に広がる海の青さも。空に浮かぶ入道雲の白さも。ぎらぎらと輝く太陽の眩しさも。


 何度もここに来ていたはずのに、今日はどこか見え方が違う。私はその理由に気づき始めていた。


 それは、みんなと一緒にいるから。私は今、一人じゃない。そう、一人じゃないんだ。


 海で楽しそうにはしゃいでいるみんなを眺めながらそう思う。そして、期待する。


 みんなとなら私は、大丈夫かもしれない。


 ……けど。

 

 ……やっぱり。


 踏み込むのが怖い。信じるのが怖い。この海が私とみんなとの境界線のように見える。そして、自分に都合のいい言葉を投げかけて納得しようとする。


 『裏切られるかもしれない』


 『傷つくかもしれない』


 『迷惑をかけるかもしれない』


 だから、逃げても仕方がない。これが私。結局、信用できない。踏み込む事ができない。無理なんだ。またいつものように諦めようとする。そんな自分につくづく嫌気がさして、私はその場所に立ち尽くす。


 太陽の日差しがじりじりと、私の肌を焼いた。


 ——その瞬間。声が届いた。


「みおなー、何してんの!?」


「みおなちゃーん、すっごいすっごい海気持ちいよー!!」


 ねぇ。沙織、夏美ちゃん。 


 ——ゆっくりと一歩。


 「早く入っちゃおうぜー!」 


 「海は快適だ!」

 

 ねぇ。航、康也。 


 ——ゆっくりと一歩。


 「大丈夫だ、みおな! 進め!!」


 ねぇ。和希。


 私も。私にも。そっちに行けるかな?


 本当にみんなと心の底から笑えるかな?


 ——ゆっくりと一歩。そして、ついに……


 私は飛び込んだ。

 

 

 …………

 ……

 …



 夜の海に立っていた。 


 波の音がそっと耳の中に溶けていく 


 ひゅーっ、どーん。


 大きな音を響かせて、夜空に大きな花が咲く。


 多くの人は花火を見て、感動し、歓声をあげるのだろう。


 けど、私には違う感情が重くのしかかる。あまりにもこの花火には思い入れがありすぎた。


 花火が散っていくぱらぱらという音とともに、私の心もぐちゃぐちゃにかき乱されていく。

 

 どうして、あんなことになったの。


 ねぇ、どうして。



 …………

 ……

 …



——八月十一日。不思議な出来事が起こった。


 バイトが終わった後、和希に「リビングに来て欲しい」と声をかけられた。二人だけの話かなって思ったけど、扉を開けるとそこにはみんながいた。


 夕飯前のいつものリビング。窓から夕日が差し込み真っ白なテーブルカバーをオレンジ色に染めていた。……どこかおかしい。昨日、あれだけ楽しい時間を過ごしていたのに、この異様な空気は何なのだろう。


「みおな、こっち」


と言って、お姉ちゃんは和希の前の席に誘導する。


「みんな……どうしたの?」


私は椅子に座りながら、疑問を口にした。誰も目線を合わせようとしてくれない。そんな中、目の前にいる和希が口を開く。


「みおな、大事な話があるんだ」


「大事な話?」


「あぁ。信じてもらえないかもしれないけど……」


そう言って、和希は唇を噛み締める。そしてしばらく考えた後、静かに言葉にした。


「俺は一ヶ月後の未来から来たんだ」


「……え?」


和希が何を言ってるのか私にはわからなかった。冗談だと思った。また昨日の流れでふざけてるのかなって思った。私はみんなに助けを求めるように視線を送る。けど、みんな視線を落としたままで、誰も私と目を合わそうとしなかった。


「冗談だよね」


「本当だ」


 和希は真剣な眼差しで私をまっすぐに見た。嘘を言ってるようには思えなかった。


「俺はこのあおい寮で、一ヶ月間こうやってみんなと生活していた。そして八月三十一日。俺は自分の家に帰り、夜眠りについた。けど、目が覚めると俺はあおい寮の玄関に立っていた。それも日にちは九月一日じゃない。七月二十五日だ」


「それって……」


「あぁ。俺たちがこの場所に来た初日」


「……」


「嘘みたいな話だろ? 俺も自分で信じられなかった」


「……」


「みおなが信じられないのも無理ないよ。私たちも始めて聞いた時はびっくりしたし。ねぇ航?」


「そ、そう! まじで、和希がおかしくなったのかなって思ったっつーの」


 私が表情を曇らせていると、どこか取り繕ったトーンで沙織と航が言った。


「だから、何ていうか……俺にはこれから先に何が起こるかがわかるんだ」


「……」


「実際に和希から聞く話では、今まで俺たちの周りで起きてきたことはすべて当たっていたんだ」


「なんか、なんか。怖いよね。和希にそんなことがわかるなんて」


 続けて康也と夏美ちゃんも口を開く。


 けど、それ以上に。私にはまた別の感情が湧き上がっていた。私は伏し目がちに、小さく呟く。


「どうして」


「え?」


「どうしてみんなは知ってるの?」


「それは……」


「私だけが知らなかったんだ」


「みおな……」


 お姉ちゃんが心配したように、私の名前を口にした。


「信じてたのに」


 まただ。こうやって私は一人になっていく。


「聞いてくれ。みおなだけを仲間はずれにした訳じゃない」


「じゃあどうして」


「みおな。この話にはあなたが一番関わってるの」


 今まで黙っていた、お姉ちゃんがゆっくりと口を開いた。


「私が?」


「二日前、和希は私たちにあなたを説得するよう協力して欲しいって頼んできた。最初はすぐには信じられなかった。けど、あなたが心配だから……真剣に和希の話を聞くことにしたの」


「ちょっと待って。私を説得ってどういうこと?」


 リビングに静寂が訪れる。そして、和希は再び話を続けた。


「あと一時間もすれば、松本煙火工業の親方さんがくる」


「松本って……航と沙織が働いてるバイト先の親方さんだよね」


「あぁ」


「どうしてそんな人がここに?」


「みおなにバイオリン演奏の依頼をする為だ」


「バイオリン……」


「祭りで自分が作る花火と、みおなのバイオリン演奏でコラボをして欲しいって」


「そうなんだ……」


 私は驚いていた。そして、心のどこかで嬉しくもあった。話に聞くだけで会ったこともない親方さんが、わざわざ私のバイオリンを求めてくれたことが。それは、まるで自分自身が認められたような気がしたから。ずっと逃げ続けて、すっかり演奏するのが怖くなってしまった、私のバイオリン。怖い。怖い。……けど。引き受けることで私のトラウマを克服出来る可能性があるなら、それは悪い話ではないのかもしれない。じゃあ……。


「——その話を断って欲しい」


 沸き上りつつある私の気持ちを打ち消すように、和希の言葉が響いた。


「……どうして?」


「それは……」


 和希は眉をひそめ、言葉を詰まらせる。私には和希が何を言っているのか全然わからなかった。どうして。その話を断って、一体何になるっていうの? 


「親方さんは、私のことを必要としてくれてるんだよね……」


「……」


「正直、不安だしちゃんと出来るかもわからない」


「……」


「でもね、その話を引き受ければ私は——」


「みおなが大変なことになるんだ」


 和希は唇を噛み締め、何かを押し殺すように言った。


「……どういうこと?」


「それは……言えない」


「……」


「この話を断ることが、最善かどうかは俺にもわからない。けど、不安な要素は残しておきたくない」


「わからない……和希が何を言ってるのかわからないよ」


 私は唇を震わせながら、そう言った。


「みおな……」


「教えて。大変なことって何?」


「だから言えないって」


「言ってくれないと、私は和希に協力できない」


 私は口調を強めた。私の身に起きる大変なこと。そのために、こうやってみんなが動いてくれてる。考えてくれてる。じゃあ、なおさら本人の私はその事実を受け入れなくてはいけない。それが、どんな内容だったとしても。


「……」


「お願い」


 和希が黙って、お姉ちゃんに視線を向ける。そして、お姉ちゃんは静かに頷いた。


「いや……」


 突然、聞こえる声。夏美ちゃんだ。


「言わないで」


 夏美ちゃんはそう言って、自分の耳を手でふさいでいる。和希はそんな夏美ちゃんの制止を振り切るように、覚悟を決めたように、私の目をまっすぐ見て言った。


「八月二十七日。祭りの日に……みおなは自殺する」


和希の言葉の後に、夏美ちゃんは声を震わせて泣き始める。


頭が真っ白になっていく。そして、いつの間にか言葉をぽつりと零していた。


「私が……自殺?」


「……」


 何それ。そんなことある訳ない。


「嘘……」


「……」


「嘘だよ……」


「本当だ」


「だって……そんなこと信じられる訳ない」


「けど、俺は見たんだ!」


 和希はそう言って立ち上がる。


「みおなが屋上で首を吊ってるところを! みおなが火葬場で焼かれてしまうところを! みんなが声をあげて泣いているところを! もう……二度とあんな地獄を見たくない」


 悲痛な声。普段の和希からは想像も出来ないような、苦悶に満ちた表情。


「和希……」


「俺はみおなを救いたい。そんな最悪の結果にならないように」


 その和希の言葉が。本当にそんな地獄を経験してきたような気がした。私のために和希が傷ついてしまった。じゃあ、私もその思いに応えなくてはいけない。私は精一杯の笑顔を作った。そして、


「……他には何をすればいいの?」


 自分の気持ちを押し殺した。そうだこれは仕方のないことなんだ。私を救ってくれた人のために、言われたことに協力しなくちゃいけない。和希はそんな私を、目を丸くして見つめた。そして、ゆっくりと椅子に座る。


「……きっかけは二つあると思ってる」


「二つ?」


「一つはさっきも言った、バイオリンの演奏。これはみおなにとって、かなり精神的な負担が大きかったはずだ。けど、正直これだけで自殺に追い込まれるとは考えられない」


「じゃあ……」


「みおなが自殺した原因。それは、もう一つのきっかけが重なったからだと思う」


 私は和希の次の言葉を、息を飲むように待った。


「みおな。合奏コンクールのグループラインってあるよな?」


「うん……」


どうして。なんで合奏コンクールの話が出てくるの。嫌な予感に肌が粟立つ。


「そのグループラインにコンクール本番の動画がアップされる」


「え?」


「……それは今年のコンクールだ」


 今年。それって私の失敗で台無しになったコンクール。


「その動画には明らかに悪意があった。どこの誰かもわからないやつらの、みおなに対する誹謗中傷が沢山書かれてる」


「そんな……」


「そして、八月二十七日の朝。みおなは、その動画を見てしまう。それからだ。みおなの心が病んでしまったのは」


「……」


「こんなこと本当は言いたくなかった。けど、もう後悔したくないんだ……だから、みおな。グループラインにメッセージが届いても、その動画をみないで欲しい」


「和希……」


「これが俺からの頼みだ」


「……」


 和希は深々と私に頭を下げていた。


「みおな」


「お姉ちゃん」


「私たちからもお願い。和希の言うことを信じて」


 お姉ちゃんの言葉を受けて、私はみんなを見渡した。真剣な眼差し。みんな私のことを心配してくれている。


「わかった……言うとおりにする」


 だから、私はそう応えた。


 その夜、松本煙火工業の親方さんがあおい寮にやってきた。その内容は、花火とバイオリン演奏のコラボ。和希の話はすべて本当だった。だから、私はその話を断った。


——八月二十六日。運命の日は、ただの日常に変わった。


 夜。合奏コンクールのグラープラインにメッセージが届く。コンクールが終わってから、ずっと止まり続けていたグループライン。それが私の動画の投稿により、再び動き出す。何て皮肉なんだろう。


 和希に言われたとおり、バイオリンの話を断った。 


 和希に言われたとおり、メッセージを確認せずに放置した。


 和希に言われたとおり…………和希に言われたとおり…………。


 リビングで初めて和希からこの話を聞かされてから、私はみんなに気を使われていた。単純に心配してくれていただけかもしれないけど、どこかよそよそしくなっていって、私はそれが嫌だった。少しずつ、少しずつ。壊れたはずの壁が再び築き上げられていく。……こんなこと望んでなかったのにな。

   

——八月二十七日。そして私は、ここにいる。



 …………

 ……

 …



 夜の海に立っていた。


 波の音がそっと耳の中へと溶けていく。


 ひゅーっ、どーん。

 

 花火が夜空に咲き、散っていく。


 それはまるで人の一生を見ているみたい。私にはそんな生き方が出来なかったな。

 私の心は弱い。脆い。触れればいとも簡単に壊れてしまう。けど、そんな私でも挑戦すれば何かが変わっていたのかもしれない。親方さんの話を引き受けて、あの花火と一緒に多くの人の前で演奏すれば、もう一度バイオリンを好きになれたのかもしれない。もう一度、迷惑をかけた学校のみんなと向き合えたかもしれない。けど私は逃げた。


 和希からの反対に流されて。特に自分の意見を貫くこともなくて。みんなが言ってくれてるから、心配してくれてるから仕方ないって。そうやって言い訳にした。そうやって逃げた。


 結局、グループラインで動画を見ることはなかった。けど、私の失敗を今でも許さない人たちがいる。その事実は決して消えることはない。私は、これから先もそんな愚かな失敗を繰り返し続ける。惨めな失敗を何度も何度も。


 挑戦をすることを諦めた私に、本当の意味で自信を持つことなんて、もう出来ないよ。


 自分自身から逃げた。大好きだった音楽から逃げた。学校のみんなから逃げた。

 夏休みが終わって、そんな私を待っている学校生活は息苦しい、過酷な現実という名の地獄。


 やっぱり私には何もない。生きる意味がない。ただただずっと苦しみ続けるだけ。


 ここまで逃げたんだ。


 だから、また逃げてもいいよね。


 私はゆっくりと海へと近づく。花火が鳴り続けている中、哀れな自分を引きずって。


 お気に入りの浴衣。今日着れてよかった。


 みんなお祭りを楽しんでるかな。もしかしたら突然いなくなった私のことを、気にかけてくれてるかな。


 私の足を海の冷たさが伝っていく。


 そして実感する。


「……私、死のうとしてる」


 最初はそこまで本気じゃなかったのかもしれない。


 けど。なぜだかわからないけど。


 こうしなければいけないような気がした。


 私がこうすることが、自然なことのように思えた。


 だから、進む。ゴールの見えない海の向こうに。


 怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い。進む、進む、進む、進む、進む、進む。


 もう体が半分まで浸かって、浴衣が水を吸い込み重くなっていく。


 「みおなーーー!!!!!!」


 声が聞こえた。

 

 和希…………和希……和希。


 どうして。


 ここにいるの。


 ダメだよ。


 こっちに来ちゃダメ。


 「やめろーーー!!!!!!」


 和希、ごめんね。


 迷惑ばっかりかけて。


 本当にごめんね。

 

 でも、和希は生きて。


 私の分まで生きて。


 薄れ行く意識の中。


 私はまたどこかで和希に会えるような気がしていた。


          ◆◆◆       


 長い長い闇が続いていた。


 どこまでも出口が見えることのない闇。


 俺は瞼を開ける。


 少しずつ全ての感覚が研ぎ澄まされていく。視覚も、聴覚も、嗅覚も、触覚も。

 汗ばんだTシャツ、うるさいほどの蝉の声、微かな木の香り。


 そして、俺が困惑している事なんか御構い無しに、目の前にいる人物は眩しい笑顔をこちらに向ける。

 

 「ようこそ……」


 ……やめてくれ。


 「あおい寮へ」


 ……もう嫌だ


 「君は山岡君だよね?」


 嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。 


 俺は逃げるように、あおい寮を飛び出した。そして、勢いよくその場にうずくまる。俺は拳を握り、地面に叩きつけた。熱を帯びた土が、空気中にさらさらと舞う。


 「何で……何でなんだよ!」


 また、ここにいる。結局、ここにいる。何も変わっていない。俺は一体、何をしていた。みおなを助けるんじゃなかったのか。覚悟を決めたんじゃなかったのか。


 「また…………助けることが出来なかった!!」


 俺は地面に顔をこすりつけ、擦れ切った声を絞りだす。自分だけじゃ無力だと思った。だから他の人たちの力を借りた。それでも……。みおなの死からは逃れられない。未来は変わらない。もう心はボロボロだった。


 太陽の光がぎらがらと降り注ぎ、額から汗がぽたぽたと垂れていく。夏は終わらない。いや、終わらせてくれない。     


 俺はふと顔を上げ、振り返る。目の前にはあおい寮があった。


 ——三度目のあおい寮。

 

 ……結局、それしか方法がない。あおい寮での生活を繰り返し、もう一度対策を考える。誰にも出来ないこと。逆に言えば俺だけが出来ること。俺はゆっくりと立ち上がる。そうだ、まだ負けてない。勝つまで諦めなければ負けじゃない。諦めてたまるか。そして、玄関に向かって再び歩き出した。


 またあの日々が繰り返される。けど、構わない。何度でもやってやる。何度でも何度でも。


 「無理だよ」


 瞬間。背後から声がかかった。俺は振り返る。


 リコーダー、真っ白な給食袋、そして赤いランドセル。目の前には見覚えのある少女が立っていた。


 「お前は……」 


 「結果はずっと変わらない。……だから、もう嘘をつくのは止めて」


 「……またそれかよ」


 「……」


 少女が何を言っているのかわからなかった。だから俺は口調を荒げてしまう。


 「何度でも言ってやる。俺はなにも嘘なんかついてない!」


 「……存在」


 「え?」


 「あなたの存在そのものが嘘なの。山岡和希」


 「どうして俺の名前を……」


 「だって本当のあなたは、この町でバイトなんてしてないんだから」


 「……何言ってんだよ」


 「教えてあげる」


 少女はゆっくりと俺に歩み寄る。 

 

 「——この世界の真実を」


 そして、語り始めたのだった。  

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