ピンクの蒲鉾が反照法で問いかけてくる

 男性にとってたくさんの誘惑をしのいだことが誇りになるのですか?


 橋の上に築かれた階段を一度だけ見たことがあって、車椅子の方が「おれは断じてこういうものは登らないから」とおっしゃっていました。登ってたまるか、ということなのでしょう。


 もちろんそうですよね。政治家が子どもたちのポスターを指して、まるで自分の仕事と関係があるように思っているとしたら、辛いです。



 詩なんて書かなければよかったと思うことは、言葉がいっぱい浮かんできて眠れなくなるときだけです。


 過去のことについて知りたいのかもしれません。なにも犯人の名前を暴きたいからそうしたいのではなく、私の責任ってなんだろうと考えたときに、やはり、追いついていない心をさらせば非難を浴びることを刻んでおきたいですし、そこに含まれない人が世界のどこかにいるのだと、思いたくはないからです。


 

 逆恨みの無言電話にももう驚きません。会社の前で待ち伏せするストーカーのお客様にも。今となってはサービス業をやっていてよかったと思っています。外で食事をしたときに、使用したグラスや皿を全部通路側に寄せるのはやり過ぎだと、人には言われましたけれど。



 そこまでしなくていい、は私の詩にはありません。いいかげん、目を覚ませ──も言われたことがありません。それを「こんな言葉は使わない」ではなく、あえて使うことで、庶民のていたらくに埋没する凡庸な私を、可能ならば研ぎ澄ませてみたい。



 残念ながら、言葉のプロや天才ではありませんから、ピンクの蒲鉾になってしまうことがあります。おでんにピンクの蒲鉾かまぼこを入れるか入れないかというのは、おそらく郷里か、家庭の問題です。しかし、文芸上となると、推敲のときに発揮される感覚器官がしょぼくれたものなら何でも構わず食べ散らかそうとするために、論争が起こる以前に、素人の手には負えない代物となっていきます。酢豚のパイナップルと同じ話ではないのです。好き嫌いではなく、郷里・家庭問題と同じ変なプライドが顔を覗かせるのではないでしょうか。味覚バカでゲテモノ好きな私に食べられないものなどないと。たとえスープから顔を出して、縁がカピカピになっていたとしても、一度私の言葉になってしまったら、そう簡単に反故にはできないのです。



 ピンクと白の二色のはんぺんは長崎県にしか売られていないというのであれば、ちゃんぽんに入れるのはピンクの蒲鉾です。詩の場合においても、天才たちが使うはんぺん。私が使うピンクの蒲鉾。同等である必要などないですし、投入してみなければわかることではないでしょう、要るか要らないかは。



 私が使っている言葉を見てください。

 

 うまく幻想を追い払うことに成功しても、ピンクの蒲鉾と戦った不始末があり、誘惑に勝っても誰にも褒めてもらえず、誇りもないから売ることもできずにいるようです。やはり今回も、ピンクの蒲鉾だったな……と思うこともしばしばで、汚いレストランのまかないみたいになっていたら、喜んで食べているのはきっと、私だけかもしれませんね。



 ところであなたは、本当に誘惑を凌げたのですか? 




 

 

 

 




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