第30話 再会

 セプルクルム湾は混乱の極みだった。状況に言葉を失う者、恐怖する者、仲間の救助に奔走する者……そして誰もが『ここはやはり墓場だ』と口々に戸惑いと怒りを露にしていた。混乱の原因は指揮系統にあった。茫然自失のドルンブと諦めの境地に達しているギンナル――事態収束のためにろくな指示を与えなかったのである。

 自分達を恐怖のどん底に陥れた潜航艇は未だ健在だとは言っても、あんな化物と戦うなどともう誰も考えていなかったし関わりたくもなかった。幸いこちらからちょっかいを出さなければ攻撃はされないという噂が通信で飛び交ってくれたこともあり、敵は個々の判断で攻撃よりも自分達や仲間の命を最優先に考えてくれたのである。



 そんな水上の喧騒など聞こえていないかのように、ステルラはゆっくり……ちぎれた水草のように海中を漂っていた。

「……」

 リタは無言でシートベルトを外す。もう慌てたところで意味もないので、今度は落ち着いて確実に外した。後は……空気が無くなるその時まで、シーナと安らかに過ごせればいい。そう思っていた。

 ヘッドギアを脱ぐ……プロテクターももういらない。あ、シーナのプロテクターも脱がせてあげないと――そんなことをリタがぼんやり考えていた時だった。


「う……ううん……」


「!」

 慣れ親しんだ声が後ろから聞こえてきた。リタは心臓を鷲掴みにされたかと思うくらい驚いたのだが、考えるより先に体が動いた――声の主であるその少女の小さな体を先ほどのように抱き起こす。瞬間リタは歓喜の声を漏らす――

「あ……あぁ!」

 シーナの心臓が動いている。それに温かい……リタはもう言葉に出来ないほど神に感謝した。これから死ぬというのに矛盾してるかも知れない。それでも嬉しかった。最後の瞬間、親友と言葉を交わしながら逝けるのだから……

 リタの大粒の涙がシーナの頬に落ちる。あれほど溢れ出ていた血が嘘のように止まり、彼女の顔に付着した血液は酸化して赤茶色になっていた。ふとリタは何かを感じ、ヘスヴィルのサボテンを見た――茶色くなって枯れている。


 ――そうか――


「ありがとう、ヘスヴィルさん……」

 リタは顔も見たこともない老紳士に礼を言った。わからないけど、優しい顔で笑っているような気がした。

「……リ、リタ? ここは――天国なの、ですか?」

 シーナが気がついたようだった。まだ意識がはっきりとしていないようだ。リタは首を横に振る……そして聖母のような優しい面持ちで彼女の頭を撫でた。

「違うよ。ステルラの中……ほら」

 リタは顔と目で鉢植えを指し示しす。シーナは促された方へゆっくり視線を向けた。ヘスヴィルのサボテンが変色して枯れている。それを見たシーナは一瞬胸に何かが刺さったような気持ちになったが――

「ヘスヴィルさんが助けてくれたんだよ」

 リタのひと言にシーナは状況を全て理解した。穏やかな表情に戻り、目を潤ませる。

「そうですか。ヘスヴィルが……」

 リタはヘスヴィルとの思い出を懐かしんでいるであろうシーナを再びシートに寝かせ、申し訳なさそうに今の状況を説明する。

「なんとか、バベルは動けないようにしたんだ……けどそこまで。ステルラのバッテリーが切れちゃって――もう、どうにもならないんだ。ごめん……」

 謝るリタにシーナは首を振って微笑む。

「頑張ったのですね……」

 リタの意思が僅かに流れ込んでくる――そうか、もう終わったのだな。だけどリタが思ってるのと同じように、二人で最期の時を迎えられるなら――それならそれで構わないとシーナは思った。

「艦長達がいれば、動けなくなったバベル相手になんとかしてくれたのでしょうに……」

「うん……ここまで頑張ったのに、ちょっとだけ悔しいよね」

 現在のネレウスの状況を知らない二人はそんなことを言い合って笑った。しかし、ネレウスの――サラの話をしていたからなのか……いるはずのない〝人物〟の存在をシーナは微かに感知していた。

「――――!」

「ど、どうしたのシーナ?」

 急に真剣な顔つきである一点を真剣に見つめるシーナの様子にリタは戸惑って聞いた。


「艦長達が、こっちに向かってきています」


「――えっ、本当に?」

 もう逢えないと思っていた……もしかしたらもう死んでしまっているかもと思っていた。けど、生きてる……自分達と同じようにみんなまだ生きているのだ!

 今日はなんという日なんだろう。最期の最期で良いことが二つも起こるなんて――ならば、思うこと……願うことはただひとつ。


 ――逢いたいよ。もう一度――


「呼んでみようか?」

 リタはまるでいたずらっ子のようにシーナに笑いかける。シーナも彼女の意図を察し微笑みを浮かべでそれに応えた。

「はい」

 シーナは抱き抱えられたまま左手を――リタはその小さな手のひらに右手を重ねる……そして握り合わせた。

 その部分だけ、先ほどのような光が小さくだけど微かに輝く……


 ――届け――



 サラは焦っていた。先ほどまであったステルラの反応がピタリと消えてしまったのである。とりあえずその方向に向けてネレウスを進ませてはいるのだが、確かな位置がわからないと仮に付近に辿り着けたとしてもどうしようもない。そしてこの海域の雰囲気……

「何だというのだ……静か過ぎる」

 サラを頭上を睨みつける。現在ネレウスは水深三十メートルの深さを微速で航行している。そのすぐ上には駆潜艇が何隻も停泊していた。だが不思議なことに彼らはネレウスの存在に気がついているだろうに、何も仕掛けてこないのだ。

「理由はわかりませんが我々には好都合です。バッテリーも間も無く切れます。急ぎましょう」

 アイーダも頭上を仰ぎ見ながらこの異常な状況に戸惑っているようだった。当然だろう、戦いもせずに敵とこれほどの至近距離で居合わせることなど誰も未経験のはずだ。

「あぁ。だが、ステルラの位置がわからん。敵にもどうせ感付かれている。破れかぶれで探信音波を打つか……」

 早く見つけてやらないと、ネレウスも動けなくなる。ここまで来たことが無意味になってしまう――どうする。


 ――その時、声が聞こえた――


「――!」

 サラは息を飲んだ。何だこれは? 聞きなれた声……リタとシーナの声が聞こえる。呼んでる?

 発令所を見渡す。皆の様子がおかしい……耳を抑えながら落ち着かない様子で辺りを見渡している。

『か、艦長!』

 ソナー室からアメリアの声――同じく戸惑っている様子だった。

「どうした?」

『リタとシーナの声が……これは、音ではありません。頭の中に聞こえてきます』

 やはり。艦内の全員が今そうなのかも知れない。何故? どうして? という疑問はあるだろうが現実に二人は呼んでいるのだ。時間がない……選択肢はひとつ。

「深度このまま……面舵二度で進んでくれ」

「お、面舵二度……了解」

 ジョイスも今のこの状況をどう受けとめたら良いのかわからないようだった。ゆっくり舵輪を回す。ネレウスは方向を修正し更に奥を目指した。

「大尉、この速度で後何分持つ?」

『今の速さなら……五分』

 五分――どこだ? どこにいる――サラは見えるわけもないのに落ち着きなく辺りを見渡した。


 やがて少しの間を置いてその時はやってくる――サラは言葉や音ではなく〝それ〟を感知したのだ。


「動力停止だ!」


 緊急停止したネレウスの鼻先、僅か十メートル前にステルラはいた。湾入口から別れて以来、やっと合流が叶った瞬間だった。水中通信が聞こえてくる……泣き声――


『艦長、迎えに……来てくれたんですね』


 リタの声だった。その瞬間艦内中から歓喜の声が聞こえてくる。皆がそれぞれ近くにいた者と抱き合い喜びを分かち合った。


 ――機械室――

「約束守って本当に良く頑張ったね二人とも。それから、ネレウス……ステルラ……私の分身。お疲れ様」

 モニカは膝から崩れ落ち号泣する。

「ネル……お母さんもうすぐそっちに行くからね」

 彼女の深い悲しみを知っているベイリィはその背中にすがりつき、共に泣いた。


 ――医務室――

 横になっていたドミニクが飛び起き、見舞っていたジェシカと抱き合う。二人は何も語らずただ泣いていた。その様子をターニャが温かく見守っている。

「やれやれ……」


 ――科員食堂――

 アーケを初めとした多くの乗組員が集まっていた。みんなが飛んだり跳ねたり手を叩いたり泣きながら喜びを噛みしめている。アーケも目尻の涙を拭いながら神に感謝した。

「さて、次は何を作ろうか――」


 ――ソナー室――

「リタ……愛想無し……生きでだ。生きでまじた中尉――生きてました中尉っ」

「うんっ――良かった。良かったね」

 ティアはアメリアに抱きついて子供のように泣きじゃくった。アメリアも彼女の頭を撫でてやる……


「すまない……二人とも良く頑張った」

 サラは笑顔で伝声管に向けて語りかける。涙が止め処なく流れていたのだが、サラ自身気がついていなかった。

『バベルの動きを止めることには成功したんです。けど、バッテリーが切れて……すいません』

 申し訳なさそうに報告するリタの声にアイーダは首を振って答える。

「馬鹿……大戦果じゃないか。本当なら私達がやらなければならなかったことなのに……良くやったぞ!」

『ありがとうございます……実はシーナも怪我をしてるんです。本当はそちらに行ってターニャ軍医長に診てもらいたいんですけど』

 この期に及んでなのだが、サラは無意識に心配した。

「だ、大丈夫なのか?」

『はい。一時危なかったのですが、二人に助けられました』

 シーナの声……〝二人?〟と皆思ったが、もうそのような疑問も些細なことだった。ひとまず無事なら何も問題ない。


「すまない。船体がぼろぼろでもう収容出来ないんだ……最期にひと目お前達の顔が見たい。浮上出来るか?」


 ――最期の時が、近づきつつあった――


『はい。一回だけくらいなら』


 ――誰ひとり泣き言は言わなかった――


「良し。浮上して敵に敬礼のひとつでもしてやってから沈めるとするか」


 ――悔いはなかった。最期の瞬間を一人も欠けることなく迎えられるのだから――


「艦長……」

 アイーダだった。肩を震わせながら目にいっぱいの涙を浮かべている。サラは今までにないほど優しい顔で彼女に微笑んだ。

「見事な操艦でした。この航海お伴させていただいたこと、誇りに思います。ありがとうございました!」

 アイーダは泣きながら敬礼をした。その姿にサラも堪らず彼女に抱きついた。

「ありがとう……至らぬ艦長ですまなかった」

 アイーダは首を何度も横に振りながらサラを力いっぱい抱きしめる。そして、少しの間を置いて離れた。


「では……浮上する」


 万感の想いを込めて、サラが最後の指示を与えようと息を大きく吸った時だった。


『後方より多数のスクリュー音! か、かなりの数ですっ』

 ソナー室からの報せにサラは唾棄したい衝動に駆られた。増援――満身創痍のネレウスとステルラを潰すのに、上にいる連中だけではまだ足りないというのか。自分達が来るのを静観していた理由がやっとわかった。待っていたのだ。援軍が到着するのを――

 武人として誇りに思う場面なのかも知れないがまぁ良い。数が増えようとやることは変わらないのだから。


『え? ――でもこれって……』

 ティアが何かに気づく。しかしそれを発令所に伝える間も無く、水中では音響通信――水上では電波に乗せ、オープン回線で野太い声の男が大音量でこの海域全体に警告を発していた。


『我々はノーランド王立海軍である。これよりこの海域に於ける全ての戦闘行為を禁ずる――繰り返す――』

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