Dear K〜ショコラティエのバレンタイン
蜜柑桜
Chocolat Noir
大通りから一つ入った、車の喧騒から離れた道。普段なら大して人もいないのに、ここ数日、いやここ数週間はやたらと往来が多い。特に若い女性の姿が目立つ。
道の奥の方から大通り側へと戻ってくる彼女たちは必ず、手に小綺麗な白い紙袋を持っていた。金字で細く書かれた店名が真っ青な冬空から降る日光に反射してきらりと光る。彼女たちの興奮に共鳴するかのように。
そんな幸せそうな笑顔を見て、響子は複雑な気分になってしまう。
数歩足を進めると、住宅の並びに窓を大きく取った白壁の店が見えてくる。
——また今日もすごいなぁ……
店先には女性たちが群れを成して
二月十四日のバレンタイン・デー。日本の女の子たちならば、体が冷え込む空気の中でも心踊り胸熱くなる日なのかもしれない。街の中は至る所にハートの飾りが溢れ、デパートやお菓子屋はもちろん、さらには雑貨店やワイン売り場まで『恋人へのプレゼントに』と言う言葉で客を惹きつける。
だが浮き足立った雰囲気とは逆に、響子にとってこの季節は毎年、一年で最も憂鬱になる時期だった。
匠とほとんど顔を合わせなくなる。
響子の家の向かいに住む幼馴染の匠はショコラティエだ。正月の空気が去った一月半ば頃からショコラトリーはバレンタインに向けて商品を切り替える。匠も毎日、店頭販売のショコラに加え、普段の何倍もの予約注文の品を制作・発送し、さらに店内のカフェ・スペースで提供する期間限定のデセールのために早朝から深夜まで働き詰めである。
今年も同じだった。というより今年は例年以上だった。恐らく一昨年に匠が勤めていたパティスリーから独立して自分の店を構えたのち、初のバレンタインでヒットし、評判を呼んだからだろう。
おかげで響子が朝起きる時にはすでに匠の家はしんと静まりかえっており、夜は響子が寝ようと思う頃にようやく明かりがつくという有様だ。疲れているところに電話をかけるのも気がひけて、時々「お疲れ様」と短いメールを送るくらいしかできなかった。
唯一幸いといえばこの時期の響子も普段より忙しいことだった。ピアニストとして音大受験の高校生に最後の指導をする傍ら、響子よりもさらに多く、かつ本格的な受験生のレッスンに追われている師匠のサポートのため、代わりに小さな子供たちのレッスンを請け負っていた。おかげで少しでも匠のことを考える時間は減る。
だがそれでもやはり気にはなる。一言くらい話せるかもしれないと、毎日、師匠の教室からの帰りに回り道をしてしまうのだ。そして今日、二月十四日も。
チョコレートを手に道ゆく女性たちの紅潮した頬やきらきら輝く目が眩しい。羨ましい気持ちを抱きつつぼうっと見ていると、今出てきた大学生くらいの女の子二人の会話が耳に入ってきた。
「ちょっとあのお兄さんイケメンじゃない?」
「あんま喋んないのがいいよね」
「そうそう! でもでも聞くとすごい笑顔で丁寧に教えてくれるし」
つい、眉を顰めてしまう。
——たくちゃんのショコラが人気になるのは嬉しいんだけどね。
響子は知っている。狭い店にひしめき合う客の中には、匠目当てで来ている女性客がいることも。
前の店にいた時から匠は一部の客から人気があったのだ。そこそこ顔が良く、一見クールだがそれでいて留学していたフランス仕込みの(というより、在住していれば慣れざるを得ない)レディ・ファースト。併設カフェで気配りの届いた鮮やかな給仕をする様子や、会計時の「ありがとうございました」の笑顔は女性客を魅了するに十分だった。
また来ちゃおっかー! ときゃいきゃい騒ぐのを聞いたのは一度や二度のことではない。
そうした彼女たちの楽しそうな会話を横目に、口がへの字になる。
——違うもん。あれはたくちゃんのただの愛想笑いだもん。
匠はもともとそんなに頻繁に笑う方ではないし、ましてや知らない人と話すのが得意なわけでもない。職業柄必要に駆られているだけで、接客は不得手だし、ましてや愛想笑いは大の苦手なのだ。それだからクリスマスやバレンタインの季節、特に客とのやり取りが多いカフェ業務が増えると精神的に疲弊しているのを響子は知っている。
また一人、また一人と、女性客たちが紙袋を手に店を出てきては、また別の客が入っていく。店の中も大混雑で相変わらず匠の姿はガラス越しにも見えない。
——あの子たちは、これから彼氏さんとデートかなぁ。
そして今度はもう一組。袋は手にしていないので、恐らくカフェの客だろう。恋人同士らしき若い男女だった。
腕を組んで目の前を通り過ぎる姿を知らず知らずに目で追ってしまい、響子ははっと気づいて頭をふるふると振った。
——だめだめ。たくちゃんのお店が人気なんだもの。今日で終わりだもの。
ポケットの中に手を突っ込み、中のものをぎゅっと握る。
——私だってたくちゃんの彼女だもん。今日は会えるもの。
響子は振り切るように店に背を向け、駅通りへと走り出した。
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