第39話 星の流れる夜に二人で

 その夜、地下倉庫でのそれとはまた違う緊張感に私はじっと耐えていた。向かいには満面の笑みのウィル。目の前には二人分の夕食。


「ロティのお料理は見た目も綺麗ですね。きっと味も素晴らしいでしょうね。食べる前からワクワクします」

「いえ、感想は食べてからお願いします……」


 今まで他人の評価には無関心だった。必要としないと言うか。自分基準でやり遂げたものには大概自信があったし、もし些細な取りこぼしがあったとしても、それは自分の後悔や希望であって、何もわかっていない外部にとやかく言われる筋合いはない、と思っていたのだ。それゆえに、誰に何を言われようが1mmも心を動かされることはなかった。

 もちろん、ボスや尊敬する博士などの言葉には真摯に耳を傾けた。辛酸を舐めてきたからこその価値観や判断はいつだって公正だからだ。その時点でできることに対し全力で取り組んだことをまずは認めてくれ、さらなる高みを目指せと励まされれば、自然と頷けると言うものだ。


 けれど今、私はやきもきして心の中で所在無げに立ちすくむばかりだった。銀色のスプーンがウィルの唇に咥えられるのをじっと見つめる。やがてスプーンが離れ喉がゴクリと動いて……、もう一度その唇が静かに開くのをじりじりと待つ。


「うん、今日もとっても美味しいです、ロティ。優しい甘み、そして何と言っても香りがいい」


 その瞬間、恐ろしいほどに脱力した。恋する乙女とはこうも大変なものなのか。大好きな相手に一喜一憂の毎日だ。言ってくれたら言ってくれたで、今度は本心だろうかと心配になるし、次も同じように言ってもらいたいと望んでしまう。ウィルの部屋に通うようになってから、私は初めて経験する心の揺れに大わらわだった。


 退院した後、すぐに全治三週間のけがを負ったウィルのサポートに駆り出された。赴任初日にウィルが実に快適だと喜んでいた部屋、総督府からほど近いそこは、森側にひらけた閑静な低層ビル群の一角にあった。小さな庭とも呼べるようなベランダ付きで、その開放感は大きな魅力だ。


「すごいでしょ、疲れて帰ってきても、ここに寝転がると癒される。恒星の輝きは大きいからドーム越しにもくっきり見えるし、夜景も夜空も楽しめるんですよ。ロティも見てみませんか?」


(夜空を一緒に見る! それって……)


 何も言われていないというのに、貧弱な妄想が爆発して私は固まる。心のうちではのぼせ上がって真っ赤になって大慌てだ。私は顔色一つ変えず微笑むことに全力を傾けた。ウィルの前では素直に笑おうと決めていたけれど、それとこれは別の話¥だ。一人で悶絶中とか絶対に知られたくない。

 

(大丈夫、大丈夫、ばれていない。いつだって乗り切ってきた。今日だって大丈夫。頑張れ私のポーカーフェイス)


 それなのにウィルが言ったのだ。


「ロティ、本当に可愛いですね。ほっぺが真っ赤で瞳がうるうるして……」


 ギョッと目を剥いた私は、壁に組み込まれた鏡を素早く盗み見た。


(普通だよね……。何一つ変わったところはないはず。ええぇ、どうして……)

 

 この人はもしかしてエスパーなのではと疑いたくなった。ハリソン少佐クラスにならなければ問題ないと自負するポーカーフェイスを見破られるなんて……。この部屋での時間は果たしてリラックスできるものになるのかと、私は密かに震え上がる。

 思えばこのお手伝いの件、何かリクエストはありますかと問えば、ウィルは最初から飛ばしてきた。出会った時から天才的な強引さを披露してくれていたけれど、今回もその手が緩められることはなかったのだ。ウィルは、絵に描いたような綺麗な微笑みを浮かべて私に言った。


「ロティの手料理が食べたいですね。最近はテイクアウトばかりで……美味しんですがボリュームがありすぎるというか、カロリーが高すぎるというか……やっぱり疲れた時には、家で作った物でないとなかなか……」


 そうだった、ウィルは料理をする人だった。そんな人がお惣菜ばかりでは気持ちも休まらないだろう。いきなり「手料理」は衝撃だったけれど、私はのけぞりつつも踏ん張った。こんな事になってしまったのは私のせいなのだ。できる限り希望に沿ってあげなくてはと一念発起した私は、平日の夜中に特訓開始。ここしばらくまともなものを作ったことがないのだ。腕が鈍って思うようなものにならない可能性もある。それだけは回避したかった。

 私はせっせと作った。そしてせっせと食べた。そう、味見をしないことにはどうしようもない。けれどそれがきつかった。夏の名残で食欲が落ちている今、男性の必要とする量など食べきれるわけがないのだ。ウィルを想定しての分量、ここはもうボスにすがるしかなかった。密かに総督室に運び込んで、無言でボスの前に出せば、実に生暖かい目で見られた。


「まあ、いいだろう。ハモンドのためというのが少々癪に障るが、ティナの手料理が食べられるという事実にはかわりない。それもあいつよりも先に食べたとなると、これはちょっといい気分だな」

「なに言ってるんですかボス! もう……」


 こんなところでこれでもかの親バカぶりを披露されるとは思わなかった。いたたまれないが仕方ない。背に腹はかえられない。


「ボス、私が練習したってことはくれぐれも内密に。いいですか、お願いしますよ」

「せっかくティナが作ってくれたのに自慢できないのか!」

「誰に自慢するんです! 本当にお願いしますね。約束を破ったら、もう作りませんからね!」


 そうしてお手伝いが始まって二度目の夜。渾身のスープをウィルに褒められてほっとした夕食後、二人でベランダのカウチに座り星を眺めていると、ウィルが私を呼んだ。その声にいつもとは違う憂いがあって、胸が騒ぎ、思わず面を伏せてしまう。


「ロティ、そろそろ教えてくれませんか? ロティの抱える悩み。この怪我にも関係しているのでしょ? だからこんなにも献身的に……。だけど僕はそんな他人行儀なお礼なんていらないんです。ロティの気持ちが、本当の気持ちが知りたい。ロティ、僕ではダメですか?」 


 哀願するような口ぶりに胸がしめつけられてウィルを見上げれば、二つの青い輝きにぶつかった。それは私に新しい思い出をくれた花の色。胸のシェリルベルを思わず握りしめる。



「ロティ?」


 再度の呼びかけに大きく息を吸い込む。鼓動が全身に響き渡った。今まで生きてきてこんなにも緊張したことはなかった。怖かったことも、心配になったことも……。でも私は決めたのだ。これを乗り越えなければきっと後悔する。


「ウィル、私……」


 大きな手が私の震える手の上に重ねられた。優しく微笑まれ促される。私は彼の青い目を見つめながら、一つ一つ、自分に言い聞かせるように言葉を紡いでいった。


 


 ドームの向こうに輝く星が今日は一段と多かったように思う。嘘みたいに大きな流れ星が私たちの上を横切っていった。深い秋の香りが空気の中には満ちていて、夜は甘く柔らかだった。最後の一言を口にした途端、全身から力が抜けてしまった私をウィルが深く強く抱きとめた。


「ロティ、頑張り屋でさびしんぼうのロティ。騙されたなんて思わないし、それよりもこうして打ち明けてもらったことが嬉しすぎて、幸せすぎて……。何が起きても、何が変わっても、僕の気持ちは変わらない。ロティはロティだよ。僕はきみのすべてが愛しい。ずっとそばにいたい。ねえ、いさせてロティ。いいと言って」


 気がつけば私は泣いていた。涙というものがこんなにも温かいなんて知らなかった。この世の終わりのように泣き叫んだ幼い日を最後に遠ざかってしまっていた感情。誰かに弱みを見せて、みっともない姿を見せて、それでも嬉しいだなんて……。言葉にならず頷くばかりの私にウィルが破顔した。そして私の耳元で甘く甘く囁いた。


「——」


 たまらなくなって私はウィルの首をかき抱いた。ぎゅうと自分を押し付けた。次の瞬間、その衝動的な行動に恥ずかしくなって彼の首筋に顔をうずめる。しばらく顔を上げられそうになかった。

 ウィルは笑いながら、そんな私の髪を優しく撫でてくれた。彼からもらった言葉が、深く深く心の中に沁みこんでいく。それは、今まで聞いた何よりも甘美で、いつまでも消えることのない美しい言葉だった。

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