第28話 きらめく湖のほとりで2

(ああ、なんだっけ。ざっくり庭園のアイデアを練るで良かったんだっけ? こんなことならさっきまでの戦闘態勢を解くんじゃなかった!)


 なんて後悔してしまうほどに私はうろたえていた。昨日のボスとの話し合いで心は決まったはずなのに、どうも往生際が悪いというか……できるなら今すぐ逃げ帰りたい……。いつからそんなに弱くなった、これは絶好のチャンスだろうと自分を叱咤するけれど、喉がカラカラに乾いてうまく言葉が紡げそうにない。

 思わず助けてほしいとウィルを見上げる。もちろん大間違いだ。当の本人にそんなことを言うとかありえない。それほどまでに私はパニックに陥っていた。それでも、どうにかポーカーフェイスだけは保っているつもりだった……だった。けれどどうやらそれも失敗に終わっていたようだ。

 見上げた先には、とろけるような微笑みを浮かべるウィルがいた。それだけならいざ知らず、まるで駄々をこねる子をあやすかのように、私の髪にそっと指先を伸ばして絡めたのだ。


「ロティのそんな顔、たまりませんね」


 上へ下への脳内大騒ぎが一気に静まりかえった。完全なる石化。やはり私には肉弾戦は無理だったのだ。秒殺されるのがオチ。ボスは正しかった。そして、その史上最強の相手は、さっきまでの他人行儀な声が嘘のように、脊髄が痺れるような甘い声で、それも頬に触れんばかりに近づいて、「ロティ?」と私の名前を呼んだ。


 その響きに、物の見事に石化が解けた。しかし溶けすぎた。激しく地面に叩きつけられるのではないかと思うほどに、今や全身の感覚がなかった。美声おそるべし。貼り付けておいた笑顔はどうなっただろう。きっともうそれは笑顔とは呼べない代物で、唇は半開きのまま、間抜けな事この上ないはずだ。音声になることがない言葉だけが、熱を持った体内で暴れていた。

 

(それオフ仕様です! いけないやつです! 言いましたよね! 総督府の玄関ホールでは絶対にやっちゃいけないやつだって! あ、ここは外か……誰も見ていないし聞いていないからいいのか……いや、だめだろう、まだ昼、まだ就業時間内だから!)


 全くもって意味不明である。もう何が何だかわからなかった。ただ呆然と私はウィルを見つめ続ける。首が痛くなりそうだった。けれど自分を覗き込むウィルから目が離せない。


 と、ウィルが口を開いた。次はなんだ、いよいよとどめか、必殺技かと身構える。


「ロティ、今日は蜂蜜を入れましたか?」

「……はい……」

「美味しかったでしょ?」


 しかし私の妄想とは違い、ウィルはいたって真面目に私を心配してくれた。その気遣いにようやく人心地つく。おもちゃ箱がひっくり返ったような大騒ぎはゆっくりと引いていった。

 

 私はこくりと頷いた。社交辞令ではない。本当に美味しかったのだ。甘い紅茶なんてどうだろうと思っていたのに、ちっとも嫌な甘さではなかった。ほんのりと口当たりが柔らかくなり、シェリルベルの花の香りがいっぱいに広がって、あの青の中にいるような清々しい気持ちになったのだ。

 それを思い出せば、頭がすっきりしてきた。どうやらチーフ補佐オーウェンとして戻ってこられたようだ。みっともなく溶けきってしまわなくてよかった。

 まだまだ色々とハードルが高すぎて、対応が間に合わないことを情けなく思いながらも、自分はこの人が本当に好きなのだと、それだけは確信できた。


「MO波装置、午前中に全回収だったんですって? お疲れさま。急ぎの仕事に振り回されたロティには申し訳ないですが、オペラハウスの最終案決定前でよかった。あの形をどうやって隠すかは、なかなか問題でしたからね。もちろん音もね。僕も違和感を感じてました。具合が悪くなるほどではないけど、不快感みたいなものがあったんです。あれがバランスの悪い高周波なんですね。うん、撤収されてよかった。確かに、夏の夜の湖に張り出したレストランバーとか、虫がいなければ快適でしょうけど、それで具合が悪くなってしまったんじゃ元も子もないですからね。ロティはあのあと大丈夫でしたか?」

「はい、おかげさまで」

「よかった。あなたは繊細だから。無理をしないでくださいよ。まあ、でもここなら森に近いとは言え、そう簡単に蛾に出くわすこともないでしょう。心配はいらないと思いますが……」


 そう言いながらウィルが森を振り返るのを私も一緒に見た。


「ウィル、あれは?」

「ん?」

「あの森の脇からこちらに並んでいるボックスです。そう言えばこの間も見ました。なんだろうって思ったんです」

「え? あれは公園管理事務所の進めている案件だと聞きましたよ?」

「え? オペラハウスのものではなくて?」

「いえ、僕らでは。何か手違いがあったんでしょうか? もう花も入ってますけど」


 ざざっと血の気が引く音が聞こえたような気がした。

 

(花が植わっているですって! 誰が! なんのために!)


 これはまずいのではないかと、身体中の産毛がいっぺんに逆立つような感覚を覚えた。それでも平静を保って私はウィルに尋ねる。ボックスとの距離は十分にある。ここにいれば問題はないはずだ。


「花が入っているんですか?」

「ええ、二日前だったかな、ナーサリーで発芽させたものが頃合いになったから搬入したと聞きました。今日あたり咲き始めるんじゃないかなあ。オペラハウスができるまでの間、殺伐とした建設現場に彩りを与えるものとかなんとか……。工事終了とともに撤去すると聞きましたけど、違いました?」


 さすがに言葉に詰まった。聞いていない。そんな話は一切聞いていないのだ。実際にチーフ補佐として働いてはいないけれど、チーフが採決したものについて一通りは知っている。しかしどんなに記憶を遡っても、そんな企画は持ち上がっていなかった。


「……ウィル、ここで待っていてもらえますか? ちょっと花を確認してきます」

「え? いやいや、せっかくですから一緒に見に行きましょう」

「いえ、すぐです。それにまだ暑いですから。だいぶ離れていますし、ウィルはここにいてください。私が確認してきます」

「僕なら大丈夫ですよ。それよりもロティの方が心配です。また貧血でも起こしたら大変ですから、ね? 一緒に行きましょう?」


 私はウィルを見つめた。心臓がうるさいくらいに音を立てている。これ以上拒めば怪しがられてしまうだろう。自分について語るつもりではいたけれど、タイミングが悪すぎた。とにかく今は穏便に済ませたい。

 違うなら違うでいいのだ。でももし、違っていなければ……。私は覚悟を決めた。たとえどんな手を使ってもウィルだけは絶対に守る。握った拳に密かに力を入れながら、私はうっすらと微笑んで了承した。


「じゃあ、一緒に」

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