第25話 動き出す時間
「ティナ、人はみんな大なり小なり不自由を抱えている。納得できないことを押さえ込んで生きている。その大きさはただの違いだ。赤か白か、それくらいの違い。本人の辛さは本人にしかわからないからな。問題は大きさなんかじゃない。変わってやれないし、100%の理解なんかできない。ましてや比較なんて……。お前の人生を揺るがすほどの大きなことも、トラムで隣に座った奴には痛くも痒くもないことなんだ。だからな、お前が背負いこんでいるものを、この世の終わりだと思うな。この意味がわかるか?」
「ウィルがそれをどう受け止めるかなんてわかりません」
「ウィルねえ、いいねえ、もうぐっとお前の中に食い込んでるじゃないか」
「それは……ハモンドさんがそう呼べと言ったからで」
「で、そのウィルはお前のことをなんて呼ぶんだ?」
「……ロティ」
「へえ、それはまた。今まで誰も呼んでないよな。新しいお前の呼び名か。可愛らしくていいじゃないか」
「でも親しさで言ったら洗礼名の方が」
「それはあくまで一般論だ。要は、相手にお前を思う気持ちがあるかないかだろう? それが音に、響きになるんじゃないのか? ロティ、いいじゃないか」
何も言い返せず、私は唇をかみしめた。そうだ、その通りだ。ロティと呼ばれた時、心が歓喜した。ティナじゃなくても、こんなにも想いが伝わってくるのだと驚かされた。呼ばれるたび温かくなって、じんわりと癒された。
「……声が、声がいいからです」
「は?」
「む、無駄に声がいいからそう思ってしまうだけです!」
ボスが大きな笑い声をあげた。まさに「腹を抱えて」笑っている。目尻に溜まった涙を拭きながら、ボスは私に向き直った。
「そりゃあ、よかったな。気に入った名前を好みの声で聞くなんてお前、最高じゃないか。やるな、ハモンド!」
隠してきた性癖を大暴露してしまった上に、大いに行く末まで励まされ、私はもうタジタジだ。ポーカーフェイスなんてどこかへいってしまった。ボスの眼前で赤くなったり青くなったり、さぞや忙しい百面相を披露していることだろう。
「ティナ、お前が何を持っていようと、それはお前がまとっている服の一つみたいなもんなんだ。その一番奥にあるのはな、無防備で弱々しくて、それでいてどうしようもなく可憐なものだ。ハモンドが欲しいのはその真ん中なんだよ。わかるか? できる女仕様のスーツ姿や賞賛に値する勤務姿勢や、そんなもんじゃねえ。泣いたりわめいたりジタバタしてるお前の根っこだよ」
「そんなもの、見せてません!」
「見なくてもわかるんだよ。感じるんだ、ここでな」
そう言ってボスは自分の胸をドンと叩いた。
「こいつだと思ったらな、わかるんだよ。頭でいくら拒絶しようがそれだけは変えられない。理屈じゃないんだ、ティナ。お前だって任務を通して何度も感じてるだろう? 抗えないものがある。ぶつかるしかないものがあるって。先のことなんて考えても仕方がない。俺たちの持てる時間なんてたかが知れてるんだ。翻弄されっぱなしで悔しくないか? 翻弄してやれよ、お前らしくぶつかって、それで決着をつけろ」
なんだろう。甘酸っぱい話のはずが最後には……。これじゃあ兵法だと私は心の中で苦笑する。ボスらしい捉え方、感じ方、やり方。そこには嘘臭さなんか微塵もなくて安心する。そうかもしれない。やってみないとわからないことだらけだ。
「玉砕したら、骨は拾ってくれるんでしょうね、ボス」
「当たり前だ。一本残らず回収してやるから安心しろ」
そう言い合ったら二人して吹き出した。笑い出したら止まらなくなる。私たちはしばらくの間、大きな声で「腹を抱えて」笑い転げた。
「マローネ3は本格的に動き出すぞ。追い詰めれば追い詰めるだけ。まあ、こっちがそうなるよう仕掛けてるんだからな。ティナ、お前には悪いけど、ここからはがんがん体を張ってもらうぞ。フェルの繰り出す高周波を相殺できるのはお前だけだ。だからな、痛かったり辛かったりしたら泣け、喚け! すがって罵詈雑言吐き出せ! その相手が俺じゃなくてハモンドであることを祈ってる。この年だとな、色々と辛いんだ」
「……ボス、愛が感じられません」
「そうか? 精一杯やってるつもりなんだがな。うんうん、やはり俺では不十分だということだな。もっとこう、熱いパッションが必要だってことだ。そう、ハモンドみたいな、な」
押しの強い男に弱いのは、刷り込みだったのかと気付かされた。育つ環境は大事だということだ。それにしても、総督の威厳は、部隊トップの迫力はどこへやら。今やなんだか浮かれた酔っ払い親父のようなボスに、私は盛大なため息をつきながらも頬が緩むのを止められなかった。
結果がどうあれ心は決まった。今までずっと苦手に思ってきたことを、これで越えていけるのだという喜びさえ感じる。食わず嫌い克服じゃないけれど、やっぱり思い切って飛び込んでいくしかないのだ。何が出るのかわからないから面白いのだと、そう開き直れば楽しくなってくる。ヤケクソなわけではない。楽観的な見通しもたまには悪くないということだ。
さあ、あとはどう切り出すかだと私は思った。呼び出して面と向かって話すようなことではない。だからと言って互いに忙しいこの時期に、そうそううまいタイミングが訪れるとも思えない。しかし、決心がついたからだろうか、私の中にもう焦りはなかった。時が来たらその時だ。嫌でも大暴露大会が開催される時があるはず。
私にはマローネ3の花の特定、ウィルにはオペラハウス最終案の決定。今はそれが最優先事項だ。私たちは互いに責任を持って与えられた仕事に向き合っているのだから、それを放り出すことは感心できない。きっとウィルもそれには賛成してくれるだろう。
私だって乙女だ。甘い恋人たちの時間を想像もすれば、見たり聞いたりするのも嫌いじゃない。ただ、それが自分の上に起きるとは考えられなかっただけで。けれどウィルの声や熱が、私の内にもあるのだと教えてくれた。欠陥品じゃなくてよかったと、小さな笑いがこぼれる。
「明日の朝、MO波装置を撤収し終わったら、オペラハウスに回ってくれ。庭園の広さと花の種類を打ち合わせしたいと、プロジェクトチームから連絡があった。まあ、まだざっくりとだから、担当としては誰が来るかはわからん。ハモンドではなくて申し訳ないが、新たな種の相談になるかもしれないからな、お前が行ってくれ」
「かしこまりました」
「……ティナ、そこは言えよなあ……」
「はい?」
「ウィルが来ないのはつまらない! とか……」
「ボス、雑念は執務に支障をきたしますから、以後お気をつけください」
「まったくお前は……。まあ、そういうところがいいんだろうけどな」
ボスの苦情を聞き流しつつ、渡された資料に目を通す。かなりの広さ、必要な花も多くなりそうだ。ウィルが自然にあれだけこだわっているのだから、庭園も作り込まれたものではなく野原のような雰囲気がいいだろうか。となるとやはり楚々としたもの、種の出番が増えるかもしれない。
私は大きく息を吸い込んだ。びりびりと何かが伝わってくる。「さあ、来い!」と、大きな声で叫んで立ち上がりたい気分だ。いつになく滾ってくる。戦うだけじゃない、その脅威を退けて最高の花畑を作り上げるのだ。公園管理事務所チーフ補佐なんて仮の姿だと思っていたけれど、私は今、任務を超えてその面白さを感じずにはいられなかった。
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