第23話 一人ぼっちの美しい翅
ウィルの言葉に私は息を飲んだ。青い瞳が風の中のシェリルベルのように揺れている。いつもの強気な表情はどこへ行ってしまったのか、ただただ切なさがあふれ出していた。
「ロティ?」
「……大丈夫です、ちょっと疲れただけ。ああ、栄養不良かも。チーフ補佐がこれじゃあダメですね。すいません」
言いたいことはそうではなかったのに、気がつけばそう告げていた。ウィルの目がかすかに見開かれ、それからひどく落胆したような色合いを帯びていく。しかしすぐに、それを誤魔化すかのように細められ、続いて弱々しい笑みが浮かんで、ゆるゆるとその首が横に振られた。
「いいえ、ロティは頑張りすぎなんです。みんな分かっていますよ。少し休めばいい。美味しいものを食べて、あっ、そういえば今日は? 何か食べましたか?」
「えっと、紅茶を飲んだくらいでしょうか」
「紅茶?」
「ええ、紅茶です。好きな香りのものを入れて、でも二杯は」
雨に打たれた花のようだったウィルの瞳に力が戻る。
「二杯って……、ロティ、それはストレートですか?」
「ええ、そうです。いつもストレートですが、それが何か?」
「蜂蜜を入れてください」
「甘い紅茶はちょっと……」
「甘くなるまで入れる必要はないんです。ほんの少し。それだけで十分」
「……」
「この間のシェリルベルの。あれは栄養価が高いんです。ね、ロティ、入れてください」
「……はい」
またいつものように押し切られる。けれどその強引さが今は嬉しかった。心の奥から温かくなる。こんな人を傷つけてしまったことに、今まで感じたこともないような罪悪感がこみ上げてくる。人との関わり合いなんて……、他人に期待も失望も持ち合わせてこなかった私が、目の前の人の表情に大きく揺さぶられる。
どうすべきなのか迷うばかりだった。それでも、この任務についている間くらい、今までと同じように居心地の良い関係でいたいと図々しくも思ってしまう。一方的でわがままで、本当に申し訳ない。けれどそれは私の偽らざる気持ちだった。
「今日は一緒に来れてよかった。あの蛾の大群を見てひらめきました。それを次のミーティングで提案してみようと思います。きっとうまくいく。そうしたら少しは休みが取れそうですから出かけましょう。早朝でなくてもいいんです。ロティもしっかり休んで、週末にゆっくり出かけましょう。紅葉が色づいていく過程を、毎週見にいくという手もありますよ」
ウィルの言葉に私は笑顔で頷いた。体の痺れはほぼ引いていて、昆虫チームが戻ってきてももう大丈夫そうだ。
私は手渡されたミネラルウォーターを飲み干した。汗をかいて戻ってくるだろう人たちのために車内温度の調整し、喉を潤すものも用意しようと立ち上がる。
「凍らせた果物とか、みんなお好きでしょうか。市販品ばかりでは味気ないと思って用意したのですが……」
機材の脇にはめ込んでいる小型冷凍庫から夏のベリー類を盛りつけた皿を取り出して見せれば、一番上にあったラズベリーを唇に押し付けられた。
「食べて」
おずおずと唇をひらけば、隙間から凍った果実が器用に差し入れられた。わずかに触れた指先が熱い。
「美味しい? 甘酸っぱくてみずみずしい? みんなもきっと喜びますよ」
次の瞬間、トレーラーの外に足音が聞こえ、ドアが大きく開け放たれた。
「お疲れ様でした! 運ぶものとかありますか?」
ウィルが博士たちと一緒に数ある大小のケースを運び込む様子を、私は皿を持ったまま、ただ呆然と見ていた。
「あっ、チーフ補佐、もう大丈夫ですか?」
「ええ、すっかり良くなりました。ありがとうございます。ご心配をおかけしました」
「よかった。あれ? それなんですか? 美味しそうですね」
「夏のベリーミックスです。ただ凍らせたものなんですが、よかったら」
わいわいとチームのみなが私を取り囲む。大きく頷きかければ誰もがほっとして、ベリーを摘みながらの報告会が始まる。個体数の圧倒的な増加は明白だ。よってその産卵回数が多くなるだろうことも。さらに、若干ではあるけれど、どうも蛾自体の大きさにも変化があり、それが個体数増加の要因につながっている可能性も出てきた。
「この先の気温について、議論にかける必要があるかもしれませんね。観光客のためだというのなら、美観を作る一つである自然界の状態も大切なものです。綺麗なものも多ければいいというものではない、すべてはバランスです。高周波も気になりますし」
「はい、総督にもすぐに報告を上げておきます」
解散する際に、私はケースの一つを預かった。オスの蛾を入れたものだ。
「総督にぜひ本物を見ていただきたいのです。少しでも参考になれば……。オスであれば危険なほどの高周波は出ませんし、色合いや大きさはほぼ変わらないから、安心して観察できます」
忙しい身でありながら、ボスは時間を作ってチームのミーティングに足を運んでいる。できる限りその要望に応えたいと思っているのだ。このプロジェクトに心底本気で取り組んでいる。けれど、さすがに一緒にフィールドワークに出ることは叶わず、とても残念がっていた。私は博士の心遣いを嬉しく思った。
生きているものであり、なかなかに扱いが難しいから、できる限り早くラボに返却することになっている。自然の中から引き離してきたのだ。もっともだろう。今は花が入れてあるけれど、やはり持って一日。明日以降はボトルの蜜を使うことになっていた。
私は説明書に目を通した後、広葉樹の枝で休む蛾の姿を見つめた。こんなところに一匹で、新鮮な蜜ではなく作り物を与えられ、蛾だって嬉しいはずがない。言葉を交わせるなら彼はなんと言うだろうか。微かに揺れる翅は震える心のように見える。狭いケースの中に捕らわれた蛾が、未だ閉じこもっている自分を思わせた。
その夜遅く、私は総督室に赴いた。すでに秘書のみなさんは帰った後、がらんとした前室を通り抜けていく。
「ボス、入りますよ」
部屋の奥の大きなガラス窓の向こうには、スロランフォードの夜景が広がっている。静まり返った森、程よくライトアップされた森際や水辺の建物。それから賑やかで不夜城のような繁華街。宝石を散りばめたかのようなその輝きを視界の先に収め、ボスは一人静かに椅子に座っていた。
「ああ、ティナ、お疲れ。ん? なんだ、それ」
絞ったライトの下でも美しい色に輝く蛾の翅。ケースを手渡しながら昼の出来事を事細かに報告する。対処すべき問題点はかなりの量になる。けれどまずはMO波装置の撤去だ。
「そうか。やられたな。ひどいいたずらだ。思いついて、きっと試してみたくて仕方なくなったんだろう。それで最初の一粒を意図して送り込んだ。悪気はないんだよ。好奇心がちと旺盛すぎてな」
……優しすぎる。部隊メンバーの前で「中尉じゃない、元中尉だ、あいつはもう容疑者なんだ」と冷たく切り捨てたボスにはあるまじき発言だ。私は機械的に言葉を返す。
「情報漏洩ではないと?」
「ないな。こんな単純なこと、あいつが知らないわけがない。うちがMO波装置を使ってないなら使ってないでいいんだよ。でももしあったら面白いんじゃないかって、それだけのことだ。自分の本気を見せるにもいい機会だしな。宣戦布告の一粒だったわけだ。あいつのいたずらは昔から度がすぎる。天才というのは加減を知らなくて困る」
大きな事故になったかもしれないのだ。それなのに、やんちゃなことが可愛くてたまらないといった風にしか聞こえないのは私の耳がおかしいのか。私は、胸の中に走った痛みを忘れようと努めた。
「では……、ジョンソン博士も撤去を勧めていますし、少し強引に始めてしまっても問題はないということですね。他の種があっても大変ですから」
「ああ、そうだな。明日の朝一番で始めよう」
「ありがとうございます」
「それはそうとティナ、お前が倒れた時、ハモンドも一緒だと言ってたな、何か言われたか?」
「それは……」
「ティナ、俺は思うんだ。あいつは信じられる。打ち明けるなら今だ」
「ボス!」
「お前の力あっての事態収拾だ。お前が一番辛い立場だし、これからますますきつくなるだろう。それをお前に課した俺が言うべきじゃないな……。だがな……この気持ちは本当だ。ティナ、そんな時、助けになるやつがいてくれるなら、俺も心強いんだ」
「でも……」
「怖いのか? そりゃそうだな。だけど俺の知っているティナはいつだって強気だった。驚くほどタフでこっちが心配になる程にな」
私は力なく来客用のソファーの片隅に座った。わかっている。らしくないのは自分でもわかっているのだ。けれど心は決まらないままだった。
「ティナ……お前にはフェルのようになってほしくないんだ」
悲しみと悔しさをにじませたボスの声に私ははっと顔を上げた。
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