第5話 諮問審査の結末
突如として取り乱し、号泣しながら嗚咽の声を漏らすアハスエルス。
来栖龍人は患者の精神の揺らぎを感じ取りながら、心の内で冷静な思考に至る自分を感じていた。
『このアハスエルス氏とは、やはり精神科の患者として似つかわしい人物やないのか?
彼が長命で不死やって云うことは、百歩譲って認めたとしよう。
せやけど…… ヤフシャ・ハマシアハ……って何や?その話になった途端に、この取り乱し出したがな。
う〜む……どないしたモンかなぁ?
傾聴して共感して同意する?
いやいやいやいや……こないな話に乗りかかったら、俺の頭がどないかなってしまうぞ。
来栖龍人……考えろ、何をどないしたら正解なんや……考えろ、考えろ、考えろ……』
龍人の戸惑いと狼狽を感じ取ったのであろうか、彼の指導教授である紫合鴉蘭から……思わぬ助け舟が入る。
「来栖龍人君、アハスエルス氏は過去の出来事に思い至ると……このような発作を起こしてしまいがちなんだ。
彼が立ち直る前に君に質問したいのだけれど、今の君は質問に答えられるかい?」
全身がアハスエルスの返り血に塗れ、彼の自傷行為に伴う衝撃から立ち直りきってはいなかったものの……龍人は鴉蘭に向き合いコクリと頷いた。
「そう……それでは質問だ。
来栖龍人君、君には当初……患者さんとの信頼関係の構築について、その重要性を語って聞かせた筈だが、どうして君はアハスエルス氏の過去について疑念を持っているような台詞を言ったのだね?」
先程までの笑顔を引っ込め、真顔で研修医に対して問い掛ける鴉蘭の指導教授らしい姿に、龍人は『マズかったんか………?』と内心では思いながらも自説を述べ始めた。
「ええ……紫合教授から指導のあった、患者との信頼関係については理解しておりました。
それでもアハスエルス氏との初面談で顔を見て会話を交わした限り、氏が自身の妄想癖に由来する自称彷徨える猶太人だとは思えなかったんです。
眼球の動きやその仕草、立ち居振る舞いから語り口調までを総合的に判断して……氏との信頼関係を構築するためには、アハスエルス氏を精神科の入院患者として上辺だけで共感するのではなく……氏の荒唐無稽な来歴を疑念を持った上で聴取し、そこから導き出される判断基準を以って……氏との意思疎通と相互理解を得られはしないかと想定したんですが……私の手法は誤っていたんでしょうか?」
龍人の回答を聞いた鴉蘭は破顔一笑、満面の笑みで龍人を讃える。
「いや……素晴らしい!
来栖龍人君、やはり君は僕が見込んだ人材だよ!
アハスエルス氏には事前に伝えていたのだが『新しい担当医が僕の云うことを曲解して氏の話す内容を全て是認するような真似をしたならば、言葉を掛ける価値もない人間だと認識しても構わない』と、申し送りはしてあったんだよ。
いやぁ……君が我々の待ち望んでいた傑物であることを、大いに感謝しなければならないね」
アッハッハッと大笑する鴉蘭に、龍人はもう一つの選択肢について問い質す。
「では……私が言葉をかける価値もない人間だと判定されていた場合は、私にどのような処断が下されていたのでしょうか?」
うん?と片眉を上げた鴉蘭は、面白くもなさそうな顔で非情な宣告を告げる。
「それは……まぁ……何だ、無価値な人間には存在する意味もないからねぇ……次の人材が補充されるまでの間は、雑役夫のように取り扱って……次に使えそうな人材が配属された後に指導教授としての権限で、医師免許を取り上げた上でポイッとお払い箱にされていたんじゃあないかな?
ま……そうならなかったのだから、仮定の話は良いじゃないか……ね、来栖龍人君」
ポンポンと龍人の骨張った肩を叩きながら、軽い口調で恐ろしい内容を告げる指導教授に、龍人は空恐ろしい思いを抱かざるを得なかった。
「では……アハスエルス氏との面談まで、私の処遇については棚上げされていたと云うことでしょうか?」
恐る恐ると云った様子で質問する龍人に、鴉蘭は何気ない口調を維持したままサラッと告げる。
「そうだよ、その通り。
それと……勘違いして貰っては困るのだけれど、アハスエルス氏との面談は中断しているとは云え、未だ終わってはいないのだからね。
引き続き君の処遇については、僕の手の中にあると思って貰って構わないよ」
右掌を上に向けて広げ、その掌をギュッと握り締めた鴉蘭に、龍人はその掌の中で自分が握り潰されたような錯覚を覚えた。
「なるほど……そう云うことですか。
では紫合教授、もう一つ宜しいでしょうか?」
にこやかな笑顔で頷く鴉蘭に、龍人はどうしても自身には解答へと辿り着けそうもない質問をぶつけてみる。
「アハスエルス氏が心因性の発作を起こす前に話していたヤフシャ・ハマシアハとは、一体何なのでしょうか?
人名か何かの固有名詞のような気もしますが……お恥ずかしい話で申し訳ありませんけれども、私にはその単語が何のことやらさっぱり判らんのです」
真摯な表情で質問をする龍人に、鴉蘭はこれも笑顔のまま返す。
「あぁ……そんなことか。
僕にも判らないような質問だったらどうしようかと、内心ヒヤヒヤして損した気分だよ。
『自分は何も知らない、そして……それを自覚している』
古代
来栖龍人君、自分の無知を恥じることはないよ。
君のように素直な生徒には、解答を教えてあげよう。
ヤフシャ・ハマシアハそれは古代
ほら、そろそろ氏の発作も治まって来た頃合いだ」
ツイと顎で蹲るアハスエルスを示す鴉蘭、龍人がその姿を見ると……痙攣を伴う激情の爆発は終わりを迎えようとするようで、徐々にゆっくりとではあるがアハスエルスは立ち上がろうと奮闘しているようだ。
ブルブルと震える両膝を両手で押さえ付け、前屈みのまま荒い息を吐くアハスエルス。
龍人の見守る前で、何とか発作から恢復したアハスエルスは、汗に塗れた顔を上げて龍人を見つめる。
アハスエルスの眼は尋常ならざる光にギラギラと輝いてはいたが、龍人に害をなそうと云うような気配だけは微塵も感じられなかった。
「申し……訳…あり……ま…せん………。
来栖…さ……ん…取……り乱……し…て…しまい……まし…て………。
過去…を思……い出…すと……当…時の怒……りと恐……怖が沸き…起……こって…こ……うなって…しま……う……のです………」
途切れ途切れの言葉で話すアハスエルス、彼の歯を食いしばった荒い息には……発作に伴う後遺症と、怒りの感情が発露したことが原因であるように推察される。
「アハスエルスさん、こちらこそ申し訳ありませんでした。
紫合教授から、貴方の発作が起こる原因についてはお伺いしました。
貴方を疑い、過去について詮索することで…苦しい思いをさせてしまったようで、反省しております。
本来であれば医師として、患者さんの病状を事前に把握し……治療に当たらなくてはならない、その原則は理解しているのですが………」
恨めしそうな視線を己の指導教授へチラリと送った龍人だったが、視線を送られた主である鴉蘭はどこ吹く風の様子で…鼻歌すら口ずさみかねない勢いだ。
「いえ……紫合先生から聞き及んでいた事柄ですし、私にも紫合先生による陰謀の片棒を担いで、来栖さんを欺こうとした責任の一端はありますので、その件についてはお気になさらないで下さい」
激情の発作からすっかり立ち直ったアハスエルスは、ニコリと笑って龍人の謝罪を受け入れ……自らの非を打ち明けることで相殺した。
「それではアハスエルスさん、貴方が先程仰っていたヤフシャ・ハマシアハと云う人物の話ですが……我々の知る名前でイエス・キリストと認識される人物と同一の存在である……それに間違いはないですか?」
龍人の問いにアハスエルスは、真顔で頷き応える。
「はい……その通りです。
ヤフシャ・ハマシアハとイエス・キリストは、同一の存在なのです。
あの悪魔が……私をこの呪われた躰へと転じさせたあの男が、世界の三人に一人と云う大多数の無辜の民に信仰されているなどと云う愚行に、私はその対象であるイエス・キリストの名など口に出したくもありません。
それにヤフシャ・ハマシアハとは、『油を注がれし者』と云う意味も含んでいるのです。
現在では聖油を注がれた神の子、との認識がなされているようですが……真実は違うのです。
それは奴の処刑にまつわる話です…己が背負った十字架へ磔られたヤフシャ・ハマシアハは、磔られ槍で脇腹を刺されてから三日の間死ぬことなく生き続けたのです。
そして奴は……ヤフシャ・ハマシアハは、その三日の間ずっと我々を呪う呪詛の言葉を吐き続けました。
奴が生き絶えるまでヤフシャ・ハマシアハを監視していた刑吏達を、恐怖に震え上がらせるに足る呪詛だったとも聞いています。
磔の刑が執行されて三日後の夜、ついに刑吏達は奴に油をかけて火を放ちました。
燃え盛る紅蓮の業火に晒され、遂にヤフシャ・ハマシアハは消し炭のような姿となり死に絶えました。
それがヤフシャ・ハマシアハことイエス・キリストの、磔刑で死に至った真実なのです」
アハスエルスの独白に、今現在まで伝承されている世界で最も有名な宗教の創始者の死に様を覆され……龍人は戦慄と共に悪寒が背筋を這い上るような感触を覚えざるを得なかった。
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