第3話 地下病棟の怪人

 白昼夢のような一瞬の揺らぎがその脳髄を駆け抜けた来栖龍人が、自身の指導教授である紫合鴉蘭に誘われて向かった先は昇降機エレベーターの乗り場だった。


「さあ、ここが我等が病棟の本拠地…地下45米突メートルの患者専用個室に向かう昇降機乗り場だよ。

 来栖龍人君、病棟に入る前に一つだけ警告しておこう。

 当科の病棟についてはその秘匿性の高さ故に、出入り口はこのとなっているのだ。

 国家規模レベルでの機密情報を取り扱っているために必要な措置としてだがね、まぁ……消防法だの建築基準法だとか云う法令については完全に黙殺しているのだけれど、それぐらいの違反行為は眼を瞑って貰おうじゃないか。

 結果から云うと……病室にて何事かの事案が発生した場合、我々二人ともがこの昇降機にて脱出するか、どちらか一人だけが脱出する…若しくは二人ともが脱出出来ずに取り残される状況シチュエーションが起こり得るけれども、その状況下において取り残された人間については、動作に用いる水の放出によって隔離され、最悪の場合は水責めにより溺死する可能性も内包していることは覚えておき給え」


 平然とした顔で非人道的な緊急対応について述べる鴉蘭に、龍人は思わず聞き返す。


「厳重な管理体制については良いんですが、人命を軽視するような対応なんかが許されとるんですか?

 他の病棟職員が巻き込まれたら、どないするつもりなんですか?

 それに、私自身はそないな内容に同意した覚えはないんですけど………」


 鴉蘭は笑顔で事務的に、龍人の問いに回答を寄越す。


「人命を軽視する対応?

 一人や二人の生命いのちなど、より大多数の生命を守るためには仕方のない犠牲だとは思わないかい?

 それに……この病棟に勤務する者は、私と君だけなのだよ。

 他の病院職員は、この病棟内にある隔離病室の存在自体を知ることなく職務を遂行しているのだからね。

 そして君の同意だが、先程署名した宣誓書類の中に『兵庫県立医科大附属病院精神科特異診療部ニ於イテ、有事ガ発生シタ際ニハ、自身ノ身命ヲ賭シテ患者及ビ病院ノ安全ヲ確保シ、情報ノ漏洩ト危険物ノ流出ヲ防グベク留意シ努力スル』と云う条文があったことを確認していないかな?」


 ハッとした表情を浮かべた龍人は、その書類に署名した事実を振り返りながら呟く。


「そんな……あないな文章なんか……社交辞令って云うか……努力目標的なモンやないんかいな………

 まさか……本気で『身命を賭す』なんて……言葉が使われる……とか……有り得へんやろ………」


 ボヤく龍人の声に、鴉蘭はニヤニヤと笑いながら追い討ちを掛ける。


「来栖龍人君……日本語と云う言語に、社交辞令と云う言葉は確かに存在しているね。

 しかし君はもう学生ではないんだ、自分が署名する文書が、社交辞令等と云う曖昧な表現をしている訳がないと、疑って然るべきであったんだよ……提出先が公的機関であれば特にね」


 鴉蘭の面白がるようでありながらも、冷徹に自身の落ち度を突いた指摘に……ガクリと肩を落として龍人は落ち込んだ。


「まぁ……良いじゃないか来栖龍人君、どちらにしても君はこれから僕と同じ道を行く知の探究者となるのだから。

 知的好奇心が満たされる悦びに比すれば、自分の生命なんて軽いものじゃあないかね?

 それではここから階下したに向かって進もうじゃあないか、奇想天外且つ驚天動地の未体験空間ゾーンが君を待っているよ」


 鴉蘭のボタン操作で到着した昇降機の扉が音もなく開く、その開口部に鴉蘭が入り……その後へ龍人が続いて入る。

 その小さな金属製の筺は、大人二名でほぼ満員となるような規模であったが、鴉蘭と龍人の二人を収納するとスッと閉まる。

 操作盤には『上階・下階・扉開・扉閉』の釦しか存在せず、鴉蘭は迷うことなく慣れた手つきで『下階』の釦を押下した。

 水圧式の昇降機であればこそ、音もなく二人の医師を格納した筺は下方へ向かって降りて行く。

 その動作を感じ取れるのは、龍人の胃臓がフワリと中空に浮かぶような感覚でのみ知覚可能な程に滑らかな物であった。


「紫合教授、この階下はどないな構造となっとるんですか?

 それに……こんな特異で厳戒体制の施設にあって、収容されとる患者がただの一名だけやなんて……予算の無駄遣いやと謗られはせぇへんのですか?」


 地下45米突と云う長大な距離を降りる昇降機の静粛な筺内で、重い沈黙に耐えかねた龍人が鴉蘭へ問い掛ける。


「来栖龍人君、君はやはり見所がある研修医だね。

 当科や僕にどんな不信感や不平不満があったとしても、僕の発言をきちんと胸に留めている辺りに……君の優秀さと能力値ポテンシャルの高さが垣間見えるよ。

 それでは地下に届くまでの間に、この地下施設の概要を説明しておこう。

 この昇降機を含む施設全体は、ボックス・カルバート型の埋め込み形状を採っている。

 その混凝土コンクリートの厚みは通路で30センチメートル、そして本体である病室については60糎厚の構造となっているんだ。

 そして混凝土の補強材として、施設全体は15糎の厚みがある鋼鉄製の鋼板で隙間なく覆われている。

 あぁ、心配はしないでくれ給え……の通気口は直径5糎の物が必要最小限で設置されているので、我々がこの混凝土製の棺桶で窒息死する恐れはあり得ないと……計算上では成り立っているからね。

 それと……当科施設の予算についてだが、実際には兵庫県立医科大学附属病院の予算とは別建てで、国家予算の予備費から拠出されているので何ら心配する必要はない。

 病院予算からの拠出と云えば、僕と君の給与サラリーだけなのだよ……現実的な話ではね。

 したがって、目に見えて兵庫県立医科大学附属病院に所属しているものの……病院に対して何の貢献もしていないように見える僕達が、『給与泥棒』との非難を受ける可能性についてだけは、否定出来ない事実として存在していることだけは覚えておいてくれ給えよ」


 自虐的な言葉にクツクツと笑う鴉蘭、その姿を白昼に現れ出でし怪物でも見るような目で見詰めながら…龍人は更なる問いを重ねる。


「紫合教授……そないに厳重な警戒を敷いてでも患者とは……一体どのような人間なんですか?」


 龍人の問いに対して、鴉蘭はさも愉快な笑い話を聞いたかのように声を出して嗤う。


「フフフッ来栖龍人君、君は何か考え違いをしているようだね。

 この要塞とも見紛うような防壁は、内側の患者を外に出さないようにするための物ではないのだよ。

 この厳重な警戒網は、として認識しておいてくれ給え」


 さらりと回答する鴉蘭に、更なる驚愕に目を見開く龍人。


「そ……そんな厳重さで守るべき患者と、それを害する意思を持った外部からの侵入者……って?

 一体全体この病棟には、どないな重要な秘密が隠されとるんですか?」


 龍人の問いには応えず、到着を告げる電子音と開いた扉をくぐり抜けて鴉蘭は己が部下を見遣りながら歩き出す。


「取り敢えずは、この先に居る入院患者と面談した後で話そうじゃないか。

 この病室に幽閉されることを希望した彼の話を聞けば、君の何故WHYWHATも解決可能だと僕は思うけどね」


 昇降機から一直線に伸びる無機質な混凝土が打ちっ放しの通路、その通路を手慣れた様子で進み続ける指導教授の背を見ながら龍人は考え込む。


『国家予算で建造された、入院病室とは名ばかりの堅牢な要塞やと………

 そんなモン空想科学サイエンスフィクション小説の受け売りやないかい、この先に何があるっちゅうねん……ホンマに俺はこないな場所から生きて出られるんやろか?』


 新任研修医が持つであろう通常の不安とはかけ離れた場所にある不安と、詳細を後回しにする謎の指導教授に対する不満を綯い交ぜにした龍人の言い知れぬ感情と共に……数十米突の距離を歩き抜いた二人の目の前に、重厚且つ頑丈そうな鋼鉄の扉が顕現した。


「さぁ……ここからは完全に君が署名した守秘義務の始まりとなるのだけれども、最悪ここから先を拒否することは可能だよ。

 君が得た医師免許の剥奪と云う、罰則規定ペナルティを受け入れる覚悟があればの話だけれどもね」


 相変わらずのニヤニヤ笑いを浮かべた鴉蘭に、多少苛立った龍人がキツい口調で応える。


「もうそんな戯言は宜しいですわ、この先に居る入院患者とはように会わせて貰えませんか?」


 強く言い放った龍人の顔を面白がるように見た鴉蘭は、頑強そうな鉄扉の横にある小型の読み取り装置に懐中から取り出したカードキーを充てがった。

 ピピッと電子音が静寂の通路に響き、ガチャリと重い音と共に鉄扉は開錠された。


「では来栖龍人君、ここから生きて戻られたならば……君にもこのカードキーを渡す手筈となっているから、楽しみに待っているようにね」


 爽やかな笑顔で両開きの鉄扉を押し開いた鴉蘭は、振り返りながら龍人に告げる。

 はいはいと気のない返事で応えた龍人は、鴉蘭に続いて扉をくぐり抜ける。

 扉を通過した龍人の背で、鉄扉は重い音と施錠音を同時に発生させて閉鎖された。

 扉の先にも混凝土の通路があったが、施錠と連動しているのか通路の照明が瞬くように点灯される。

 新たなる通路も先程の通路と同様に何の飾り気もない混凝土製の通路であったが、その延長距離は鉄扉前の通路とは違って短く……ほんの目と鼻の先にもう一つの扉が見えている。

 先に見える扉にも開錠のための読み取り装置も視認出来たが、鴉蘭はその隣にある呼び鈴インターフォンの釦を押下した。

 内部からは何の返答もなかったのだが、内側から施錠を開錠したような音がカチリと聞こえた。


「さて、ここから先は入院患者さんの居室空間パーソナルスペースになるからね、流石に緊急事態でもない限りこの扉は中の人物に開錠して貰うように。

 ここは医師と患者の関係性から鑑みるに、重要な信頼関係の構築として覚えておこうね」


 指導教授から初めての至極真っ当な業務指導を受けた龍人は、やや驚きながらも「はぁ」と「はい」の合いの子のような返答を返した。


「それはさて置き来栖龍人君、君の担当患者との初面談だ。

 心して取り組むようにね、一応……事前に僕の方から本日より担当医師が増員される旨は説明済みだけれども、どんな状況下においても第一印象は重要なのだよ来栖龍人君」


 そう言いながら扉を開く鴉蘭、そして開かれた扉の内側……病室内もまた殺風景な混凝土製の壁に囲まれていた。

 精神科病棟と云えば壁一面に衝撃吸収の保護材を張り巡らせ、患者の自傷行為を封じるような部屋の趣きを想像していた龍人は……部屋の在りようにやや肩の力が抜けた思いだった。

 そして部屋の中央に設えられた寝台ベッドについても、特段の造作がなされたような雰囲気もなく、拘束具を固定するような設備も見当たらない。

 その寝台に腰掛ける人物のみが、この無機質な部屋における唯一の有機体であった。

 白い清潔な入院着を身に纏い、裸足に室内履きスリッパを着用しただけの人物、その姿はかなり異様な物であった。

 伸び放題に伸ばした砂色の蓬髪は背の半ばまであり、砂色の髭も同じように伸ばし放題で鎖骨辺りまで届く程度か、そして最も印象的なのは知性的でありながらも力強い生命力に満ち溢れギラギラとした両眼の輝き。

 その眼の色も毛髪と同様の砂色であり、鼻も亜細亜の人種よりも高く鉤鼻となっていることから、年齢不詳の入院患者は外国人男性だと見て取れる。

 龍人が入院患者を視認したことを確認した鴉蘭が、両者に対して互いを紹介する。


「アハスエルスさん……こちらが先日話していた、貴方の新しい担当医ドクター『来栖龍人』です。

 そして来栖龍人君、こちらが君の担当患者となるアハスエルスさん……別名、彷徨える猶太人その人です」


 鴉蘭の紹介を聞いた龍人は『ホンマの話やったんかいな………』と、内心の呟きを表情に出してしまいながらアハスエルスに会釈をした。

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