Vampire J.C. 〜極東吸血鬼異聞〜

澤田啓

歴史の闇に潜み棲む者

第1話 師弟の邂逅

 昭和23年4月1日、太平洋戦争の終結から3年近く経過し、復興の槌音も国土全域に広く遍く響き渡るようになった或る春の日。

 兵庫県神戸市に建つ兵庫県立医科大学附属病院では、医師国家試験の狭き門を突破した若き研修医が、配属された『精神科・特異診療部』の扉の前で、不満げな仏頂面を隠そうともせず指導教授の招聘に応じ待機していた。


「何で俺が……兵医大を主席で卒業したこの俺が、初配属されんのが何でまた精神科やねん。

 それも、特異診療部って何や……そんな診療科目なんか見たことも聞いたこともないわ。

 担当教授せんせいに苦情を申し立てて、一日でもはように当初志望の外科に転科させて貰わなアカンわ」


 新しき門出の日に不平不満を溢す新任の若き医師、その傷一つない新品の名札には『来栖龍人くるす・たつひと』と刻印がなされている。

 身長は180センチメートルを少し超える程度、体重は60キログラムあるかないかと云う程か……身長は平均的な男性よりも大幅に大きいが、体重については大幅に平均値を下回る、虚弱を絵に描いたような痩身の男であった。

 戦後間もなくの食糧難の時代ならばゴロゴロと存在していたような、栄養不良児は斯くあるべしを体現するような躰であったが……昭和23年現在でこのような体型であるのは、彼の生まれ持った性質がこの肉体に結び付いたとしか云いようがない。

 髪型は短髪で黒髪、顔立ちは腫れぼったい一重瞼だが、薄い眉の配置もバランスが取れ、鼻筋も通っている上に口唇も薄めではあったが整ってはいる。

 口角が若干下がりがちなのは、元よりその形であったのか……今現在の不機嫌さが反映されているのか定かではない。

 平安時代であれば……と思わせるような公達の如き顔立ちであったとしても、彼の顔における第一印象は、体型と比するべく細く削げているの一語に尽きる。

 細面と呼ぶのもおこがましい程に頬が痩けた、頭蓋骨にそのまま皮膚を貼り付けたような不健康そうな顔立ちと青白い顔色は、彼の印象を死神じみた残念な方向へと決定してしまっていた。


 そんな吹けば飛ぶような体躯の人間が、不吉な顔立ちを不機嫌そうにして立っているのだから……院内で立ち働く医師や看護婦達も、見て見ぬ振りで己の業務に邁進するのは致し方ないことであったろう。

 待てど暮らせど来ぬ指導教授を待つ龍人は、自分自身の置かれた境遇と今日の約束すら守れぬ指導教授……己が師事するべき人物の怠惰さに、怒りの余り自身の人生すら投げ出してしまう決意を固め始めた。


「そうか……そうやな…………

 国家試験は通過したんやもんな……別に母校になんぞ義理立てする謂れなんかあらへんがな。

 いざとなったら離島の診療所でも、強毒伝染病の隔離施設ででも……医者の手が足らん場所で医療に従事したら良いんやん。

 よしっ!

 決まった!

 辞表でも叩き付けたるかぁっ!」


 白衣を身に着けた若い研修医が、後ろ向きネガティブな決意に覚悟を固め、踵を返してその場を立ち去ろうとしたその時……彼の背後から声が掛かる。


「あ〜、君が新規配属された来栖龍人君かな?

 おっかしいなぁ……事務方には病棟の方に出向くよう伝えておいたのに…………」


 己の名を呼ばれた龍人が、ビクリと躰を震わせて恐る恐る振り返ると、発言の主が佇んでいた。

 年の頃は医学部教授に見えぬ若さを感じさせ、30代前半にも見える程に若々しい。

 身長は龍人よりも低く170糎程度か、体重は彼よりも少しはありそうだが細身で筋肉質な体型をしているようだ。

 髪は少し色素が薄いのか、薄暗い病院の廊下にあっても栗色の長髪が顔の輪郭を隠すように覆っている。

 顔立ちと云えば、くっきりとした二重瞼で眉も男らしく精悍な風情に整えられている。

 鼻筋も通っているが、太く意思の強さを感じさせる座りを見せ、口唇も厚めでその口角は上がり、何か楽しそうな笑顔を浮かべているようにも見えた。

 龍人の対面に立つ人物は役者のような色男で、ある意味彼の印象と対照的な姿をしていた。


「来栖龍人君、これから宜しく。

 僕が兵庫県立医科大学附属病院の精神科・特異診療部の担当教授で、紫合鴉蘭ゆうだ・あらん

 です。

 まぁ……君の上司ってことになるのかな?……一応は」


 差し出された鴉蘭の右手を思わず握り返した龍人は、握手を交わす指導教授の握力の強さを感じて思わず驚いてしまう。

 ポカンと口を開けて握手をする部下の手を繁々と眺めた鴉蘭は、少し考え込むような顔をして龍人に告げる。


「来栖龍人君、君はもう少し食生活を考えた方が良いね。

 太り過ぎは宜しくないが、君の躰は余りにも細すぎる。

 あと10瓩は増やさないと、ウチの激務には耐えられないよ」


 初対面でいきなり自分が気にしていることを、ズケズケと指摘して来る指導教授に、龍人は軽い反発を感じて言い返す。


「紫合教授せんせい、精神科に体重の軽重は関係あらへんのと違いますか?

 それに私は……何をどないしても体重の増えへん質のようですんで…………」


 途中から弱々しく言い訳じみた返答となった部下の言葉に、鴉蘭はそれでも愉快そうな顔を崩すことなく言葉を重ねる。


「あぁ……健康的な体重の増加は質の良い食事と、適切な運動による筋肉量の増加がなんだよ。

 まぁ、一日二日で体重を増加させるのは不可能な話なので……それについてはおいおい僕の方から指導しよう。

 それよりも……だ、時間も押しているので早速だが幾つかの書類に署名サインをして貰わないとね。

 こちらの部屋で構わないから、さっさと手続きは完了させてしまおうか」


 一方的に言い放つ鴉蘭は『精神科特異診療部』とプレートの貼られたドアを開けて、龍人を中へと誘う。

 部屋の中は寒々しい程の簡素さが漂い、設えてある調度品と云えば事務机が一台と事務椅子が一脚だけであった。

 精神科とは云え科長の執務室にしては質素にも過ぎる室内に、龍人は驚き戸惑っていた。

 彼の戸惑いを肌で感じたのか、部屋の主たる鴉蘭は、新任の研修医である龍人に事情を語る。


「そうなんだよ、この部屋は院長から充てがわれているのだけれども、僕は殆どの時間を病棟の研究室で過ごしているからねぇ。

 僕がこの部屋に入ること自体、多分……三回目ぐらいじゃあないかな?」


 アハハと脳天気に笑う指導教授を見ながら、龍人は疑問を口にする。


「それなら何故、私はこの部屋に呼ばれたんですか?」


 特に考える風でもなく、鴉蘭は龍人に告げる。


「あぁ、伝言を頼んだ事務方の人間は見慣れない人だったからなぁ。

 病棟にある僕の研究室へやへ来るよう伝言を頼んだつもりだったんだけれども……新人さんなので僕の執務室へやを案内したんだろうね」


『そんな大事なことなら……適当な指示せんと、キッチリとやったらんかいや。

 ボケナス!』


 龍人は内心の叫びを表に出さぬよう出来るだけ冷静に、はぁ……そうだったんですか、と呟きながら追加の質問をぶつける。


「それで……私が署名せなアカン書類って何ですのん?

 内容を確認しても、構わへんですやろか?」


 あぁ、そうだねと言いながら……鴉蘭は龍人へ白衣から書類の束と、万年筆を取り出して手渡す。


「さぁ!

 サッサと文書に署名してくれ給えよ、終わったら病棟に行くのだからね」


 室内で唯一の調度品である、埃塗れで古ぼけた一組の事務机と事務椅子に龍人は腰を掛けた。

 じっくりとだが素早く書類に眼を通していた龍人であったが、途中でピタリと書類を繰る手が止まる。


「何……やねん……コレは?

 紫合教授、何なんですか……コレは!?」


 龍人が震える手で鴉蘭に突き出すように示した、一葉の紙に印字されていた表題タイトルは『守秘義務違反時の罰則規定』と云う物であった。

 その紙を指差し、人権を蹂躙するような条文が記されていたことに驚愕する龍人の顔は……手に持つ紙よりも白く血の気が引いていた。


『第四条〔罰則ノ実施ト誓約ニツイテ〕

 上記ニ記シタ、兵庫県立医科大学附属病院の精神科・特異診療部ニ於イテ、医師及ビ看護士トシテ職務上知リ得タ秘密ノ漏洩ニ対シテ、下記ノ義務及ビ罰則ヲ与エラレル事ニ同意シマス。


 四条ノ壱

 上記診療科ニテ知リ得タ如何ナル情報ニツイテモ、生涯ニ渡リ口外セズ守秘スル事ヲ宣誓イタシマス

 四条ノ弍

 上記診療科ニテ知リ得タ如何ナル情報ニツイテモ、其ヲ漏洩シタル場合ハ、医療従事者トシテノ国家資格ヲ剥奪サレ、上記診療科ニテ勤務シタル者デアレバ即時ニテ懲戒免職処分ヲ課セラレ、上記診療科ヲ退職シタル者デアレバ即時ニテ身柄ヲ拘束サレ、何レニセヨ上記診療科ノ科長ニヨリ認可サレルマデ、上記診療科ニテ監視病棟デノ強制入院加療ヲスル事ニ同意イタシマス。

 四条ノ参

 上記診療科ニテ知リ得タ如何ナル情報ニツイテモ、其ヲ漏洩シタル場合ハ、国家特定機密情報保持法違反ニヨル刑事訴追及ビ、兵庫県立医科大学附属病院ニ対シ、著シキ損害ヲ与エタ事ニヨル民事訴訟ヲ行ワレル事案デアルト認識イタシマス。』


 ワナワナと震える左手で紙を持つ、自身の部下である龍人に対し……鴉蘭は口元だけを笑顔の形にしたまま鋭い視線を送る。


「コレは……君がこの書類に署名することなど、ただの儀式に過ぎないのだから。

 申し訳ないが、君がこの書類を読んだ時点で…… 国家特定機密情報保持法は発効してしまっているのだよ。

 残念だが、仕方ないよね」


 首を振りながらもまるで残念そうではない鴉蘭に向かって、龍人は吐き捨てるように言葉を放った。


「そんなん……詐欺とおんなじやないかいっ!!」


 その言葉を聞いても、紫合鴉蘭の笑顔は崩れることなく……来栖龍人の顔を見つめていた。

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