第36話 無力

 死の前には、すべてが無力だった・・。どんな美しい言葉も、理屈も、励ましも、思想も、信仰も、何もかもが虚しく、意味も価値もそこには何もみいだせなかった。

 恋だとか愛だとかを夢見る前に立ちはだかる圧倒的な現実に、私は挫け崩れ落ちそうになっていた。厳しい厳しいと、小さい時から大人たちに散々言われていた現実は、私の想像を超えて、やはり、大人たちの言う通り、厳しかった。

 国も社会も役所も医者もみんな当たり前みたいに冷たかった。私たちに生きる価値なんかないのだと、生きていてもしょうがないのだと、明に暗につきつけてきた。

「だから、ちゃんと生きなければだめだ」

 人生の厳しさを説いた後、大人たちは決まってそう言った。

「だから、言っただろう」

 苦境を相談すると決まって大人たちは勝ち誇ったようにそう言った。

 でも、どうがんばってもちゃんと生きられないんだ。どんなにがんばっても、どんなに努力してもちゃんとなんて生きられないんだ。そんな人間だっているんだ。どんなにがんばっても、がんばっても普通の人が当たり前にできることができない人間がいるんだ。

 しかし、そんな言葉は決して、この社会にも大人たちにも伝わらないだろうと、私は何も言わず黙っている。


「・・・」

 頼れる医師も、相談できる人も誰もいなかった。どうしていいのか、何が正解なのか、何も分からなかった。ただ今は、もう、ただ、この苦しみが過ぎ去っていくのを待つことしかできなかった。

「うううっ、あああっ」

 ベッドに横たわる彼は今日も一人苦しんでいた。そのベッドの脇で私は無力にそれを見守るしかなかった。

「あっ」

 口の中に、痛みが走り何か違和感を感じた。

「あっ」

 口の中から小さな白い固まりが出て来た。私は慌てて鏡の前に走った。

「あっ」

 私の歯はボロボロになっていた。毎日毎日、歯を思いっきり喰いしばっていたその力で、歯が擦れ、欠け、ボロボロになっていた。

「それどうしたの?」

 私を一目見るなりよしえちゃんが驚いて私を見る。久しぶりに家に帰ると、よしえちゃんが訪ねて来てくれた。

「えっ?」

 私は慌てて洗面所まで行き、鏡を見た。

「あっ」

 私の髪の大半が真っ白になっていた。ものすごい数の白髪が私の黒かった髪を覆っていた。

「・・・」

 私は自分自身の姿に愕然とする。

「・・・」

 まるで自分じゃないみたいな、真っ白になった髪の自分を私は呆然と見つめる。この数カ月で十年も二十年も一気に年を取ったみたいだった。

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