第20話 生きたいと思って
いつもそういう時は突然やって来る。悲しみとか、別れとか、孤独とか、絶望とか、それはいつもなんの前触れも準備も、予兆もなく、私の都合とか予定とか、体調とか好みとか一切関係なく突然やって来る。そして、なんの準備もできていないノーガードの状態で、私はいつもそいつに、いきなり思いっきり殴られる。致命的になりそうなくらいの強烈な奴を完全な無防備で、思いっきり食らう。今回は、もう、もろに急所をノーガードで思いっきり殴られてしまった。もう、どう立ち上がっていいのかすらが分からない。私はそのたった一発でもう、崩れ落ち、立ち上がれないほどに膝間づいていた。
あれから、彼は鬼神のごとく毎日絵を描き始めた。寝る間も惜しんで、もうその場所に住んでしまっているみたいに昼も夜も描き続けた。今まで無邪気に彼にじゃれつくように集まって来る子どもたちも、あまりの気迫に近寄れないほどだった。
雨の日も風の日も、彼は残された時間の中で、この絵だけはどうしても完成させたいという情熱の中で、彼はそれだけを考え、それに突き進んだ。
体調は日に日に確実に悪化していった。精神的ダメージも相当あっただろう。それでも彼は描き続けた。
「・・・」
私はそんな彼の傍にいてあげることしかできなかった。
「これだけは完成させたいんだ。ごめんよ。君との時間が少なくなってしまって」
彼は言った。
「ううん」
私はそれしか言えなかった。
「・・・」
私はただ傍でそんな彼を見守ることしかできなかった。何もできない自分が悲しかった。無力な自分が苦しかった。失われてゆく時間と何か大切なものを、ただ指をくわえて見ているしかない、せっかく掬った貴重な水が手の間からこぼれ落ちてゆくのを、ただ無力に見つめるしかない、今この時が堪らなく辛かった。
「時間なんて無限にあると思っていたよ」
そんなある日の昼下がり、彼が突然絵を描く手を止め、ぼそりと言った。
「えっ」
私は彼を見た。そして、彼はその場にそのまま仰向けに寝転がり空を見上げた。
「時間なんて意識したこともなかったよ」
「・・・」
私は彼の傍らにゆっくりと座った。
「僕は死のうと思っていたんだ」
「えっ?」
彼は青空を見続けていた。
「君に出会う前、僕は死のうと思っていたんだ。漠然とだけど、生きることはもういいやって・・、そう思っていた」
「・・・」
「物心ついた時から、なんだか周囲といつも違和感があって、いつも頭の片隅に薄っすらとした希死念慮があった。生きている世界が、なんだかいつも無機質で虚しかった・・」
「・・・」
「人間はみんなぐるぐると同じところを回っている気がしていた。欲望を追いかけて、怒って、憎んで、傷つけ合って、嘘をついて、だまして、人を蹴落として、威張って、そういうのに自分も巻き込まれて、そうやって生きるのが嫌だった。でも、そういうのに巻き込まれないと生きていけない世の中だって、それはもうどうしようもないんだって、それがだんだん大人になるにつれて分かって来てしまった。だから、もう生きるのはいいやって思っていた。そんなことのために生きるのは嫌だったしそんなことに支配された人生なんて、なんだか虚しかった。だから、この作品が完成したらもういいやって。これが完成したら、もう生きることはやめよう。漠然とそんなことを考えていたんだ」
「・・・」
「でも、君が現れて」
「・・・」
「僕は生きようと思った」
「・・・」
「生きたいと思ったんだ。強烈に、なんだか理屈もへったくれもなく生きたいと思った。君に会って、生きたいと思った。心の底からそう思ったんだ」
「・・・」
「生まれて初めてそう思ったんだよ」
「・・・」
「そのとたん、ガンだよ。ふふふっ」
彼は笑い始めた。
「ははははっ、あと三ヶ月だよ」
彼は大声を上げて笑った。
「・・・」
私は何も言うことが出来なかった。
「人生ってなんて理不尽なんだろう。ほんとに嫌になっちゃうよ」
「・・・」
「なんて皮肉なんだ」
彼は最後にぼそりと言った。
「・・・」
私は何も言えなかった。でも、私も一緒だった。私も・・。
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