この恋の終わり方
ロッドユール
第1話 彼との出会い
全く最初は何の変哲もないと感じた人だった。いや、むしろなんて変な人なんだろうと思った。
彼は独特な奇妙な絵を、巨大なコンクリートの壁一面に一生懸命描いていた。風貌もどこか怪しげ、着ている物はもっとひどかった。何年着ているのか分からないほど着古したTシャツに短パン。そして、それに更に年季を加えたようなサンダル。いつ床屋に行ったのか分からないほど、あらゆる方向にあちこち伸び放題に伸びた、荒れ果てた藪のようなぼさぼさのくせ毛。その上に乗っかるボロボロの麦わら帽子。顔中無精ひげの真ん中にジョンレノンのような丸メガネ。誰がどう見てもかなり怪しい男だった。場所が場所ならそのまま通報されそうな風体だった。
でも、なぜかその姿に、どこにどうそれを感じたのかいまだに謎なのだが、どこか好感を抱いた。
そして私は、ただ通りがかりに見かけるだけだったのが、いつしか立ち止まり、座り込み、彼をじっと眺めるようになった。
彼の周りには不思議と子供たちが集まってくる。わらわらと、何をするでもなくちびっ子たちが、彼を取り囲む。そんな子どもたちを迷惑がるでもなく、それどころか彼は、絵をそっちのけで、一緒に遊び始めてしまう。子どもたちも遊んでもらって嬉しそうだったが、それ以上に、一緒に遊ぶ彼の子どもたちを見る目の方がなんだか嬉しそうだった。
私はますます興味を持った。私は来る日も来る日も暇さえあれば彼を眺めた。別に何か大きな変化があるわけではなかったが、全然飽きることはなかった。
彼はまったくの謎だらけ。私が知る限り、雨の日以外ほぼ毎日、いつものその場所に立ち、夕方暗くなり始める頃まで、時には気まぐれで早く帰ることもあったが、のんびり絵を描いていた。それ以外に何か仕事をしている気配はまったくない。
彼の周囲は、何か別の時間と空気が流れていた。時間はゆっくりと、空気は穏やかに、私の知っている忙しない、時間に勤勉な同じ日本に生きている人とはまったく思えなかった。
彼はいったい何者で、何で生活している人なのか。誰かに依頼されてこの絵を描いているとは全然思えなかった。そういう絵ではなかったし、そういう場所でもなかった。
「・・・」
ひょっとしたら、ものすごく有名な絵描きさん?お金持ちの御曹司が時間を持て余して?それとも、外国の王子様?
「まあ、それはないか」
そんな彼を眺めながら、私の妄想は、ポップなカラーのメリーゴーランドのようにくるくる回った。私は彼をちょっと遠くから眺めながら、彼についてあれこれいろんなことを勝手に想像しながら、それを楽しんだ。
そう、私は、ただ彼を見ているだけで楽しかった。公園と河川敷の間にある、最大限効率化し、均質化したはずの都市空間の中になぜかぽっかりと空いた奇妙な空間の一画にあるコンクリートの壁の前に立つ彼を、私はただ見ているだけで満足だった。本当に、ただ見ているだけでよかった。彼が描いているその姿と、その描き進められていく絵を、ちょっと離れたところから眺めているだけで、それだけで楽しかった。
それが、ある日、いつの間にか、引き寄せられるように、何かに導かれるように、私は、彼の近くにゆらゆらと寄って行った。
「!」
彼はすぐ横に立つ私に驚いたみたいだった。そりゃ驚くだろう。どこの馬の骨ともつかない女がすぐ横に立って、顔を覗き込んでいるのだから。
でも、思った通り彼の目はきれいだった。風貌は小汚いが、近くで見る彼の目は本当にきれいだった。小さな子供の目のような厚みのある輝きと、純真さとをその奥に宿しながら、形がどうとかではなく、無垢な魂を映し出す鏡のように、微塵の汚れなく澄んでいた。
「・・・」
「・・・」
私と彼は、しばし黙って見つめ合った。そして、彼は両方の目をゆっくりと、大きく反時計回りにぐるりと一周させた。彼は私という存在の突然の出現について考えているようだった。
そして、彼の目が、一周し終わって再び私を見た時、にこりと微笑んだ。何とも邪気のない、人を吸い込むように魅了する温かい微笑みだった。
「ああ、この微笑みに子供たちは寄って来るのだな」
私は思った。
私はたちまち彼の虜になった。
「やあ」
彼は言った。
「は~い」
私が答える。私たちは小さな子どものように、その瞬間に仲良くなった。子どもが仲良くなるのに時間も理由も必要ない。私たちの間には、大人のナイーヴも、心の手探りも必要なかった。
「なぜ、あなたはここに絵を描くの」
ずっと訊きたかったことを私は訊いた。
「なぜ、ここに絵がないのかが不思議だったからさ」
彼は絵の方を見て、あっさりとそう答えた。
「なるほど」
奇妙な答えだったが、なんとなく改めて彼の描きかけの絵を見ると、それはその通りだなと、なんだか納得した。
私は、彼の隣りに立ち、改めて彼の描くその絵を、真正面から間近で見た。
「・・・」
その絵は真っ赤で、まるで燃え滾る溶岩を噴出する大噴火した火山のようだった。しかし、それは樹だった。大きな大樹だった。樹肌を荒々しくうねり流れる線、線、線。それは何かの叫びのようだった。心の内奥から溢れ出す堪らない叫び。ありとあらゆる感情の呻きの表出された交じり合い。そこには言葉を越えた、言葉の奥の心の蠢きがあった。
「すごい」
私は思わず呟いた。
「だろ」
彼は、自信ありげに言った。
「自分で言うの」
「自分で言うよ。だって、心の底からそう思うから」
「・・そうか。そうだよね」
よく考えれば自分で感動しない絵なんて、なんだかおかしい。
「これが完成したら、すごいよ」
彼は湧き出る興奮を抑えるように、うれしそうに言った。
「本当に凄い絵になると思う」
彼はしきりに自分の絵をうれしそうに見つめる。
「この絵はいつ完成するの」
「さあ」
彼はそんなこと今まで考えたこともなかったといったように答えた。
「いつから描き始めているの」
「さあ、もう・・、一年・・、二年・・、さん・・、どのくらいになるかなぁ・・?」
彼は大きく首を傾げる。彼にとってそれはどうでもいいことらしい。
彼の絵の描き方は、非常に緻密で要領が悪かった。全く効率や妥協を考えない、こだわりと感性だけで描いていく描き方だった。しかも、その絵はバカデカい。だから、全体的な構図は一応できてはいるが、その完成への道のりは、この先一体どれだけの歳月が掛かるのか予想すら難しかった。まるで果てしない地平線に向かって、のんびり歩いているリクガメみたいだった。
「もう忘れちゃった」
結局、考えに考えて、彼は笑った。私もなんだか笑った。
「ところで、そもそもここに絵を描いていいものなの」
「う~ん、まあ、ダメだろうね」
彼は真顔で答えた。
「じゃあ、ここに絵を描いちゃダメなんじゃないの」
とは私は言わなかった。それはあまりに野暮だったから――。
それでも近所の人も、警察の人も、役所の人も特に何も言って来る人はいなかった。
彼の絵が気に入られたのか、ただ単にめんどくさいだけなのか、はたまた単なる幸運な何かの誤解をみんなが共同でしているのか、今だけ平和で、これから何か言ってくる人がいるのか、それはまったく分からなかったが、不思議と絵は何の障壁もなく、描き進められてきた。その速度は、現代のこの過酷な競争、合理、功利主義社会ではありえないくらい遅かったが・・。
それから私は毎日、彼に会いにその場所に行った。彼はいつものように絵を描き、私はその横でそれを眺める。私たちはそこでたくさんの話をした。
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