第10話 ジョルジュ・ド・クレイターヴ
王都クラン・クレイターヴでは、民衆の不安と不満が渦を巻いていた。
今から半月ほど前、ノルド遠征軍から勝利の報がもたらされ、凱旋を楽しみにしていたクレイターヴの民は浮足立っていた。
遠征軍の帰還を心待ちにしていたクレイターヴ城にもたらされたのは、ローザニア帝国の大軍が押し寄せてきたという早馬だった。
二万という敵兵の数を知ったジョルジュ王の判断は早かった。
都中に出されたふれは驚くべきものだった。それはたった一言。
『逃げられるものは逃げよ』
商人の都へと変貌を遂げていたクラン・クレイターヴのものたちは機に聡い。このふれが出ると同時に知人縁者を頼りに都を抜け出した。もちろん、持てるだけの財産を持ってだ。
ジョルジュは領民がいち早く安全な場所へ逃げることで、命と同時にある程度の財産は手元に残せるよう心をくだいたのだ。
それでも、城に残るものたちはいた。
クレイターヴの臣下だ。
主だった者たちはノルド遠征軍へ加わっていたため、このとき城の護りに残っていたのは、ジョルジュの父であるクレイターヴ候の時代から仕えてくれたものたちで、ジョルジュへの忠誠心も厚い。言い換えれば、年寄りの頑固者の集まりであった。
彼らは、ローザニア帝国の大軍を前にして、籠城戦を主張した。最期まで騎士の国クレイターヴの底力を見せるのだと息巻いていた。
しかし、ジョルジュには最初から籠城の意思はなかった。それはいたずらに兵を犠牲するだけでなく、領民にとっても多くの犠牲を伴う愚策であったからだ。
アンリが考えたのと同じように、ジョルジュはクレイターヴ城を一旦無血開城するという考えを早くから決めていた。
しかし、これまでローザニアとの数々の戦に勝利してきた騎士候たちは説得に応じる様子はなかった。
ローザニア帝国が率いてきた二万という大軍はこれまでにない数であるにもかかわらずだ。そしてその前線には皇女ロゼ・ヒルデガルドの姿があるという。これは実質的な親征である。皇女は騎士候からの信頼も厚く、軍の士気も高い。
どう考えても城に残った守備軍では歯が立つわけがない。
なにごとにも合理的な考え方をするジョルジュは、どうすればこの頑固者たちに諦めさせることができるか、知恵を絞るはめになった。
考えてみれば、さほど難しいことではなかった。
ジョルジュは一通の手紙を残して姿を消した。
『皆もさっさと逃げよ』
クラン・クレイターヴの者たちは、王が逃げ出したことにさほど驚きはしなかった。クレイターヴのものたちは知っていた。王は戦いに重きをおく騎士ではないことを。
本当の意味で騎士なのは王弟のリュシオンのほうである。
ただ、それでもジョルジュは王として領民に慕われていた。民が豊かに、穏やかな暮らしがおくれるようにするために数々の政策をとってきたからである。
独立と同時に世をさったクレイターヴ候の後を継いで即位したジョルジュは、軍事面を弟であるリュシオンに一任した。リュシオンは、サラン候、セルシーヴ候の両者を従えて戦に専念した。それによりジョルジュは内政に没頭することができたのである。
独立からの十年間、この役割分担は功を奏し、クレイターヴでは戦を繰り返す中でも、比較的豊かな生活を続けることができたのである。
ローザニア帝国によるクラン・クレイターヴ攻略はまさに電光石火だった。
クラン・クレイターヴに一報がもたらされてからわずか五日後に、王都に二万の大軍が姿を現したのである。
その瞬間にも王都の裏門からは、民衆が次々と逃げ出していた。城内に残ったのは、亡きクレイターヴ候と親交の深かったドニエ候ただひとりだった。
ジョルジュの置手紙を呼んだ家臣たちは、呆れかえるのとともにその真意を読み取ってもいた。動ける者たちは、わずかでも手勢を率いてクラン・クレイターヴを離れ再起をはかるため落ち延びよということである。
無血開城したクレイターヴ城に入ったロゼ・ヒルデガルドは、当然のことながら国王ジョルジュ・ド・クレイターヴの引き渡しを講和の条件としたが、いない者を引き渡すことはできない。ドニエ候は首を刎ねられるのを覚悟の上、皇女に対峙したが、ロゼ・ヒルデガルドは、ドニエ候に監禁を命じただけであった。
ローザニア軍の入城直後から、クラン・クレイターヴには戒厳令が敷かれた。物資はすべてローザニア帝国の管理課に置かれて、自由な取引が禁じられた。
二万の大軍を養うため、食料はすべて接収され、それを料理するための人も強制的に集められた。しかし、略奪や暴行は厳しく禁じられ、それを破ったものはその場で処刑が言い渡された。それは、高い地位のあるローザニア帝国の騎士候の息子であっても助命されることはなかった。女性に不埒な振る舞いに及ぼうとした馬鹿息子に対して、そこに居合わせたリヒテンベルグ候が問答無用で一刀に処したのである。
ロゼ・ヒルデガルドの匙加減は絶妙で、クラン・クレイターヴの民衆の不満をぎりぎりのところで抑えてこんでいた。
民衆からほぼすべての物資を絞り取る一方、最低限必要な食糧だけは隅々にいたるまで配給した。また、少しづつではあるが、宿屋や食堂などの営業も許可した。あまりに長い戒厳令は、都そのものの息を止めてしまう恐れがあるからだ。まさに生かさず殺さずの線を外すことなく、都を鎮めることに成功していたのである。
「クレイターヴにいるのに、まだ名物の紅葡萄酒をのんでないって?」
クラン・クレイターヴの酒場では、すっかりクレイターヴのものの姿は消え、ここ最近は、ローザニア兵の姿しか見えない。
ローザニア兵には、はめをはずさない程度の自由は与えられ、非番の兵は街で酒を飲むことも許されていた。
この混乱のなかでもクラン・クレイターヴに残ることに決めた商魂たくましいものたちは、ローザニア兵相手の商売にも抜かりがない。
安宿が集まる界隈で評判の酒場である『紅葡萄亭』は、今夜もローザニアの兵で賑わっていた。さすがに若い娘たちは疎開していたが、その代わりにひとりの若者が客席を縫うように走り回っていた。
「はい、こちらのお客さんは紅葡萄酒ね。そりゃうちも商売ですからね。麦酒もおいてますよ。でも、やっぱりおすすめは葡萄酒。甘いのが苦手なら、白の辛口はどうだい」
まるで口から生まれてきたかのようなすすめ文句に、客たちの注文が次々とはいる。
「ジル、炙り肉があがったぞ。右側のお客さんだ」
台所でせわしなく料理をしている親爺が若者に声をかけた。若者は手早く料理を運んでしまうと、酒の入った小さな盃をふたつ、新しく入ってきた客に振舞った。
「まずは、味見しておくれよ。自慢するだけのことはあると思うよ」
盃を受け取った客は、一息に酒をあおると、お互いの顔を見合わせた。どうやら紅葡萄酒の味が気に入ったようだ。席に腰を下ろすとジルにいくつかの料理と葡萄酒を注文する。
台所に食べ終わった皿を返しにきたジルに店の親爺が声をかけた。
「あなたさまにこんなことさせちまって…」
「好きでやっているんだから大丈夫。それにさ、見てみなよ」
ジルが促した先には、甲冑こそつけていないものの立派な風体の騎士が立っていた。
その姿をみたとたん、酒を酌み交わして大声で騒いでいた者たちが直立不動になった。
「リヒテンベルグ候! どうされたのでありますか?」
その騎士は、手で皆を座らせると、かしこまる必要はないと言っているようだった。
「おい、わたしにも自慢の葡萄酒とやらをもらえるかな」
台所に控えていたジルに向かって注文をしてくると、顔見知りの部下たちの席に落ち着いた。
「評判になれば大物が釣れると思っていたんだ」
ジルは得意気にゴブレットになみなみと葡萄酒をつぐと、サービスにとこれまた自慢の白ハムを添えて、リヒテンベルグ候のテーブルに近づいた。
皇女の近衛騎士でもあるリヒテンベルグ候は、三十手前といったところだろう。プラチナブロンドを短く切り揃えた精悍な顔立ちをしていた。肩の厚みといい腕まわりの太さといい、酒屋の息子にしか見えないジルとは大違いだった。
リヒテンベルグ候は、喉を鳴らして葡萄酒を飲みほすとその味に満足したようだった。
「おまえはここの息子か?」
「そうだけど」
「この葡萄酒を城に納めてくれ。皇女殿下にも献上したい」
「城への商売には鑑札がいるんだ。ローザニアの門衛は厳しくてね」
リヒテンベルグ候は書くものを借り、その場で鑑札を書き記した。自筆の署名が入っている。今のローザニアでは皇女の次にものを言うリヒテンベルグ候の直筆だ。これで城の出入りは自由と言っていい。
「前金だ」
そう言ってわたされた革袋はずっしりと重く、中を開けてみると十数枚の金貨がはいっていた。
「もらい過ぎだけど。いったい何樽必要なんだい」
「今日中に一樽持ってきてもらおう。あとは毎日あるぶんだけ運んでおいてくれ、金が足りなくなったら城の者に言えばいい」
なんとも豪勢な話だが、話の取り方によっては、いつでも城の中に潜り込めるということである。
ジルはわざと品のない笑みを浮かべ、リヒテンベルグ候に頭を下げた。
「毎度あり」
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