第4話 皇女ロゼ・ヒルデガルド
クラン・クレイターヴの城の謁見の間には冷たい沈黙が落ちていた。ローザニア帝国の名だたる騎士候のうち、ローザブルグの留守を預かるもの以外はすべて集められていた。
ローザニア帝国軍はいま、帝都ローザブルグの宮廷ではなく、このクラン・クレイターヴに集結していた。
その騎士候たちを震え上がらせる存在がここにはあった。
ローザニア帝国が誇る将軍。
ほっそりとしたその姿に銀色に輝く甲冑を身に着けた様は、戦女神のようだった。
そう、それはローザニアの帝国の皇女将軍ロゼ・ヒルデガルドの姿だった。限りなく銀色に近い淡い金髪をきっちりと編み込み邪魔にならぬよう結い上げている。
「まだ、見つからぬのか」
「は。クラン・クレイターヴに続く街道はすべて封鎖しておりますが、まったく行方がつかめず…」
「セルシーヴとやらには、いなかったのか」
「それが…」
ロゼ・ヒルデガルドのラピスラズリのような濃紺の瞳が射るように光ると、報告にあたった騎士は言葉が続かなかった。
「クラン・クレイターヴを落としても、王弟リュシオンを抑えねば意味がないと言わなかったか?」
それは恫喝ではなかった。しかし氷の刃のような鋭さで二の句が継げぬほどの冷やかさでその騎士の言葉を奪っていた。
今から十年前、クレイターヴ候がおこした叛乱の後、ローザニア帝国は混乱を極めた。栄華を極めたローザニア帝国の軍が、一地方領主の叛乱に膝を屈したのだ。
クレイターヴは独立した後、商業に力を入れ、自由貿易を導入した。これにより有力な商人があいついで拠点をクラン・クレイターヴに移したこともローザニア帝国にとってはかなりの痛手となった。税収が大きく落ち込むことになったのだ。
これまで宮廷の陰謀劇に明け暮れていた神官たちやユーゼイル候の一派は、そのことを楽観視し、何一つ手を打とうとしなかった。
クレイターヴとの戦いについても、騎士候たちに檄を飛ばす一方、自分たちは帝都で遊興三昧の日々を送っていたのだ。
クレイターヴの独立に感化された騎士候がひとり、またひとりと叛旗を翻し始めた。誰もが帝国崩壊の序曲が始まったと思っていた。
あるとき、小競り合いが続いていたクレイターヴとの戦に敗れ、撤退した騎士候のひとりが敗戦の報告のため登城した。リヒテンベルグ候は、戦傷をおしてローゼンブルグ宮の謁見の間で頭を垂れた。
ユーゼイル候は皇帝の御前で、リヒテンベルグ候の敗戦の責を問い詰めた。膝をついたリヒテンベルグ候の足元には小さな血だまりができていた。彼は何も弁解せず、ただ皇帝の兵を失ったことに対しての責を受け止めていた。
「騎士は口達者でなくともよいが、必要なことは言葉にせねば届かぬぞ」
その言葉とともに、謁見の間に騎士姿で現れたのは、皇女ロゼ・ヒルデガルド。
このとき齢(よわい)十八。
ドレスやダンスに興味を示さず、幼い頃から馬と剣に明け暮れていた。皇女であれば十五・六の頃は嫁いでいるものだが、年の離れた幼い弟が立太子できるまで嫁にはいかぬと明言していた。
「リヒテンベルグ候が敗れたのは、援軍がこなかったせいだ」
「援軍ですと」
ユーゼイル候は、ロゼ・ヒルデガルドの言葉を鼻で笑い飛ばした。ユーゼイル候はロゼ・ヒルデガルドの母方の祖父にあたる。孫娘の言葉など取るに足らないものと思っていたのだ。
「ローザニアの騎士候たるもの、援軍が遅れたぐらいで敵に遅れをとっていたのでは話になりませんな」
リヒテンベルグ候からは、再三の援軍の要請があった。前線では兵糧も尽きていた。このとき、ローゼンブルグで胡坐をかいていたユーゼイル候は援軍を出し渋ったのである。
それは近々皇帝の誕生日の式典があり、閲兵式のために見目良い兵たちを手元に置いておきたいという馬鹿馬鹿しい理由だった。
「そうか、それならそなたも三日ほど絶食して、前線に立ってみるのだな」
「皇女殿下。冗談もほどほどになさいませ」
「冗談ではないぞ。おまえは軍が飢えるという恐ろしさを知らないのだ」
リヒテンベルグ候は撤退した。クレイターヴの軍に敗れたわけではなく、自国の堕落した為政者たちに敗れたのだ。軍が飢えると判断した時点で撤退に転じたリヒテンベルグ候の判断は正しかった。
飢えのために民から食料を略奪するようになってしまっては、軍は終わりである。帰るだけの余力を残して撤退すべきなのだ。それでもクレイターヴの追撃を受け止めつつ、最低限の被害にとどめてローザブルグまで持ちこたえた指揮力はさすがだった。
「そのような血生臭い話、皇女殿下にはふさわしくありませんな。早々にお部屋へお戻りくださいませ」
「この場にふさわしくないのは、おまえのほうだろう。ユーゼイル候」
ロゼ・ヒルデガルドは、ユーゼイル候の目の前まで歩いていくと無言で剣を抜いた。鞘走る音がした瞬間、ユーゼイル候の首筋に緋色の一本の線が描かれていた。
一瞬遅れて血しぶきの音が謁見の間に響きわたった。すでに背を向けていたロゼ・ヒルデガルドのマントが返り血に染まった。
膝をついたままのリヒテンベルグ候を助け起こし、近侍のものにその体を預けると手当をするように言いつけた。
そしてその深い紺色の瞳で玉座の父を見上げた。
「援軍のための軍資金を着服した罪。よってユーゼイル候は死罪。よろしいですね。父上」
祖父を一刀で斬り殺した娘の言葉に、父である皇帝は何一つ答えることはできなかった。
このときから、皇帝は隠遁生活に入り、玉座は空のまま、ロゼ・ヒルデガルドはその隣の椅子に腰を下ろすようになった。
ロゼ・ヒルデガルドは皇女将軍として、実質的にローザニア帝国の主導権を握った。遊興にふけるばかりの神官たちを宮廷から追い出し、貴族の既得権の一切を取り上げた。
そしてこれまでの戦いで功績のあった騎士たちを新たに騎士候に取り立てて、軍を再編した。
叛旗を翻した者たちには容赦なく鉄槌を落とし、地方の反乱を次々に鎮圧していった。そしてそのすべての戦いにロゼ・ヒルデガルドは軍を率いて前線に立った。その姿はローザニアの戦女神として、騎士候の崇拝の象徴となっていった。
それから十年。地方の反乱もほぼ制圧され、いよいよその女神の標的はクレイターヴとなったのである。
クレイターヴの北に位置するノルド王国は、旧来からローザニア帝国の同盟国である。それ相応の見返りさえ約束したところ、クレイターヴへの侵攻を二つ返事で引き受けた。
ロゼ・ヒルデガルドは、ノルド王国との戦いで手薄となった隙を突き、クラン・クレイターヴを一息に陥落させたのである。
しかし、このとき一つの失敗を犯した。張り巡らせた網の目は決して粗くはなかったのにである。
王弟リュシオンの行方を見失ったのである。
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