第2話 アンリ・アルベール
大陸の中央にローザニア帝国が君臨しておよそ五百年。ローザニアでは、各領主は騎士候と呼ばれ、おのおの騎士を率いて帝都に集い、ひとたび戦が起きれローザニア皇帝の騎士として出陣する役目を負っていた。
ローザニア帝国では、騎士を束ねるクレイターヴ候と、神官・文官を束ねるユーゼイル候が皇帝を左右から支える礎と言われていた。歴代のクレイターヴ候家は、常々、人々からの寄付を食い物にし続けてきた神官たちを批判しつづけてきた。そして、神官のいいなりになりがちな皇帝に対してもの申す存在であった。
ユーゼイル候家は、代々神官長を出してきた家柄であり、これまで皇妃も多く出していた。ただ、神官・文官は多くとも軍事力の面では、クレイターヴ候を脅威と感じていた。そのため、騎士候の中で、クレイターヴ候に反感をいだくものを少しずつ自らの傘下に組み入れ、切り崩しを謀っていた。
先代のクレイターヴ候は叛旗を翻したのではなかった。ユーゼイル候の策略に陥る寸前のところアンリの父に助け出され、ローザニア帝国を見限ったのだ。
クレイターヴと志を同じくする諸侯も次々と現れ、独立戦争へと発展した。多くの犠牲を出しながらもクレイターヴは勝利した。
クレイターヴ候の長男であるジョルジュは諸侯をまとめ国を築くと、共に戦った諸侯には自治を認めて緩やかな封建制をひいた。また諸侯の治める所領間で行われる交易に関する税を取り払った。これは、税の取立ての厳しいローザニア帝国の支配下では想像もできない施策だった。ローザニアの商人のうち、拠点をクレイターヴに移すものたちが続出し、一気に商業が発展することになった。
一方ローザニア帝国は、クレイターヴの勝手を許すわけにはいかなかった。帝国の誇りはもとより、豊な穀倉地帯を所領とするクレイターヴを失うことは帝国の富を失うことにも等しい。しかも商業の中心はいまやクレイターヴの王都、クラン・クレイターヴにその座を奪われたようなものだった。
正面からの出兵はいうに及ばず、クレイターヴの周辺諸国を唆し、共同戦線を張り何度もクレイターヴの殲滅を謀った。
しかし、クレイターヴには王弟リュシオンとその軍師アンリがいたのである。
「おい、どうした」
「いえ…」
アンリは軽く頭を振った。そこはセルシーヴの屋敷の中で、傍らから声をかけてきたのはリュシオンだ。
しかし、その装いは先ほど見た甲冑姿ではなく、皮の胴着姿だ。自分は元の時間に戻ってきている。
「リュシオン卿、これから、どうなさるおつもりですか」
「クレイターヴ領へ向かう。最初からそのつもりだ」
「やめたほうがいいです」
アンリは年上であり、君主の弟でもあるリュシオンにむかって臆せずはっきりと言った。
「ここにいてもしかたがない。それに、ここに俺がいることがわかったら、ローザニアから兵をむけられるぞ」
「兄がなぜ、ここにあなたをお連れしたか、わかりますか」
「いや」
リュシオンは、彼に連れられて落ち延びていく途中、どこへ向かっているのかわからなかったはずだ。追手を避けるため、ことごとく街道を避け、森の隘路を縫うようにして進んだからだ。
「このセルシーヴは大陸の西北。深い森の中に位置しています。この城の正確な位置も領民以外にはほとんど知られていません。森の中へ大軍を進めるわけにもいかないでしょうし、ローザニア帝国の兵もここに攻め込むのは難しいでしょう」
「だからと言って、ここにずっと隠れているわけにもいかない」
リュシオンは少しいらだった様子で、爪を噛んだ。
「一日も早くクラン・クレイターヴへ戻り、兵を挙げなくてはならない。兄上と合流する必要もある」
アンリは自分を真っ正面からにらみつけるようにしているリュシオンの姿を見た。夏の太陽のような黄金の髪。同じように夏の空のように抜けるように青い瞳。自分の行く道を疑うことをしらない果断な口調。自分に持っていないものを全部持っているように見え、アンリは少しうらやましく思った。
一刻も早い帰郷を望むリュシオンに、残酷ではあろうが、兄が言おうとしていたであろう言葉を自分が告げねばならなかった。
「おそらく、クラン・クレイターヴはもう陥ちています。お帰りになっても無駄でしょう」
「なんだと!」
リュシオンはまだ子供の域を出たばかりのアンリの胸ぐらをつかみ、その小柄な体を揺さぶった。
「クレイターヴの騎士は勇猛で知られている。いくら不意打ちをくらったからといってそんなに簡単に落とされるわけはない」
「主力はノルフドとの戦に駆り出されていたと伺いました。王都に残されていた兵はわずかではないのですか。相手は計画を練った上で事におよんでいるのです。ローザニア帝国が大軍を率いて攻め入ってきたとなれば、ジョルジュ陛下が選べる道はふたつしかありません。領民を守るため敢えて城は空け渡し落ち延びるか、籠城し領民とともにクレイターヴ城で討ち死にされるか。どちらにしてもクレイターヴ城は敵の手の中と思ったほうがよいのではありませんか」
リュシオンは、まだ十四歳だというアンリの冷静な分析力に思わず息をのんだ。自分がもたらしたわずかな情報から、ここまでの予測を立てているとは思いもよらなかったのである。
言ったほうのアンリもすべてを見越していたわけではない。冷静になぜ兄がリュシオンを連れてここへ帰ってきたのかを考えていたのである。ノルドとの国境からなら、こんな辺境のセルシーヴへ向かうよりもクラン・クレイターヴへ行くほうが近い。それを敢えて選ばなかったということは、兄はすでにクレイターヴ城が包囲されているという情報を得ていたのかもしれない。
「サラン候領へ」
リュシオンは静かに言った。
「ここへ落ち延びる前、主力をサラン候に預けた。あいつもアンリに負けず劣らず聡い奴だ。王都が落ちたと勘付いたら、自領で立て直しを図るだろう」
「わかりました。ではサラン候領まで、お供いたします」
リュシオンは耳を疑った。首筋でまっすぐに切り揃えられた栗色の髪が愛らしい、まだ声変わりもしていない少年が共につくというのだ。
「ばかなことを。馬を一頭貸してくれればそれでいい」
「いえ、兄があなたを護ると言ったのでしょう。セルシーヴ候としてお約束したのであれば、兄が身罷ったからといって違えるわけにはいきません。後を継いだわたしがかわりにお送りいたします」
その言葉を聞いて、リュシオンは思わず声を立てて笑った。
「悪いがおまえがついてきたんじゃ、足手まといなんだよ。まだ剣も十分には使えないだろう」
リュシオンの少しからかうような口調にアンリは腹をたてた。
「わたしはもうセルシーヴ候の名を継いでおります。騎士候の名を貶めるようなお言葉はお慎みいただきたいのですが」
「残念ながら、とても騎士には見えないな」
「年若いと言っても、騎士にかわりありません!」
年若いというよりもまったくの子供としか思えず、アンリがむきになって言いつのるのが、リュシオンにはおかしくてならなかった。
「無理することはない。あと十年もすれば立派な騎士になれるさ。そのとき助けてくれればいい」
「わかりました。そこまで言われるのであれば、ここで引くわけには参りません」
アンリが、ゆっくりと腰の剣を引き抜いた。リュシオンはやれやれという気持ちでつきあわざるをえなかった。
「わかった。一本勝負だ。手加減はしない」
リュシオンの青い瞳が鋭く光り、腰の剣が鞘走った。
キィーンと高い音がして、二つの剣が交わった。
アンリが刃を受け止めたとき、その相手はリュシオンから白銀色の髪をした女騎士に姿が変わっていた。相手は女性としてはかなりの長身だが、自分の視点はさらに上にある。
打ち込まれた刃は決して軽いものではなかったが、自分の腕はそれをやすやすと跳ね返した。その腕は鍛え上げられた筋肉で盛り上がっている。
二合、三合と打ち込まれても、その切っ先の動きが手に取るようにわかり、楽々と跳ね返すことができた。
これは、兄ではない。
「アンリ、手を抜くな!」
女騎士が悔しそうに、自分に向かって言った。
「ロゼ、これは手を抜いているんじゃない。手加減しているんだ」
「なお悪いわ!」
ロゼと呼ばれた騎士も決して筋が悪いわけではない。それどころか一流の騎士であることはその剣筋からも明らかだ。
自分が、このアンリが強いのだ。
どうやら、どこかの城の中庭で、このロゼという女騎士に剣の稽古をつけているところのようだった。
『俺のなかにいるんだろ?』
『え?』
突然の問いかけにアンリは驚いた。
『今度の当代殿は、これまた随分とかわいいな』
その問いかけの間にもロゼとの稽古は続いている。ロゼのほうが女性である分身は軽く、少しの隙を狙い、懐へ入ってくる。
しかし、それすらも読み切っているようで、わずかな移動で身をかわし、今度は自分から踏み込む。
『俺もアンリだ。おまえさんからみたら随分なご先祖さまだがな。アンリ・アルベールだ。よろしくな』
『あ、はい。アンリです』
『わかってるって。セルシーヴのもんは、みんなアンリだ。そうか、おまえはまだ自分の名前を知らないんだな』
「何を笑っている!」
アンリとの会話を断ち切るようにロゼの激しい一撃が入る。さすがに油断していたのか、寸前で躱すことはできず、正面から受け止める。
重い衝撃が両の腕にかかる。意識だけがアンリ・アルベールの中にあるはずの自分にもその重みははっきりと伝わった。
『わかるか。これが剣の重みだ』
その言葉で、アンリ・アルベールがロゼの剣を避けずに、わざと受け止めたのだとわかった。
『おまえさんの腕で、あの兄ちゃんと手合せってのは無理があるぜ』
アンリ・アルベールの言葉からすると、どうやら自分がリュシオンと手合せをしようとしていることを知っているらしい。いまアンリ・アルベールの中にいるのだからお互いの心の中がわかるというのも納得はできる。
それにしても、この口の悪さはとても一領を預かるセルシーヴ候のものとは思えなかった。
『ああ、それな。俺は領主でもなんでもないからな。今はただの傭兵。それで、このお嬢ちゃんの護衛』
『傭兵? セルシーヴ領はどうしたのですか』
『は? どうするとかそんな大層な話じゃないだろ。俺がいなくたって、村のひとつくらい、みんなが何とかしてるって』
『村? まだ村なのですか? 騎士侯領にはなっていないんですね?』
『よくわかんねえけど。ま、いまはそれより大事なことがあるんじゃねぇの?』
『大事なこと?』
『体の感覚、覚えて帰んな』
そういうと、アンリ・アルベールが意識を引き締めたのがわかった。
「ロゼ! 思いっきりかかって来い!」
「言うまでもない!」
ロゼは上段の構えから一息に振り下ろしてきた。アンリ・アルベールはすっと身をかがめた。その視点はちょうど小柄なアンリの背丈くらいだった。ロゼはリュシオンより頭半分低いくらいだろうか。
『最後まで切っ先から目を離すな』
ロゼの刃を刀の中央付近で受け止める。しかし、その衝撃はさきほどよりもずっと軽い。ロゼは渾身の力をこめて打ち込んできたにもかかわらずだ。
『剣を下に傾けて、相手の力を流せ』
正面から受け止めたように見えたが、わずかに剣を傾(かし)げて受け止めていたのだ。確かに受け止められたロゼの刃は、するっとアンリ・アルベールが傾(かたむ)けた切先のほうへ滑っていく。
『滑りきる前に、剣を合わせたまま突く』
すると、剣の鍔と鍔が合うくらいまでの距離になる。突かれた相手の腕は曲がるが、自分の腕は伸びている。
『この体勢で、剣で円を描いて、相手の腕をひねって』
意表を突かれたロゼは、何もできないまま鍔が合わさったまま剣をどうすることもできない。
『上へ跳ね上げる!』
ロゼの剣は見事に跳ね上げられ、遠くの土の上に切っ先から突き刺さった。
ひとつひとつの動きが手に取るようにわかったが、実際は一瞬のできごとだった。
「腕をひねるなんて、卑怯だぞ!」
「卑怯じゃねぇよ。戦場じゃなんでもありだ」
ロゼが無理な方向へひねって痛めた腕をさすりながら、アンリ・アルベールをにらんでいる。
『じゃあ、がんばりな』
まるで、兄に肩をたたかれたかのような、背中を押されたかのような感覚があった。
まだ、甲高い剣の余韻が耳の奥に残っている。剣の相手を見上げると、それはリュシオンだった。
アンリ・アルベールの中にいた時間は、こちらでは経過していない。兄の中にいたときと同じだ。
先ほどの感覚がまだ体の中にはっきりと残っている。受け止めた刃を傾けて先ほどのように切っ先に滑らせていく。
(突く!)
滑りきる前に、思い切って鍔と鍔が競り合うまで突きを繰り出した。
そして、相手の腕をひねるように、剣を回そうとしたときだった。リュシオンは競り合っていた鍔に力をこめ、逆回転させてアンリの腕をひねった。
まるでさっき見たロゼの剣のようだった。天に舞い上がった自分の剣をぼんやりと見上げて、一瞬呆然となった。
すると、いきなり体が傾いた。リュシオンに足を払われたのである。驚きに体勢を立て直す余裕もなく尻餅をついた。
リュシオンはその隙に宙にあったアンリの剣を曲芸師のように受け止めると、自分の剣と合わせて交差させるようにアンリの首もとを縫いとめた。
(殺すつもりなんだろうか?)
「動くなよ」
リュシオンはそう言うと、アンリの首もとに滲んでいた血を拭った。
「いつから、剣を習っている?」
「…」
型は兄から手ほどきを受けた。その程度だ。さっきアンリ・アルベールに教えてもらえなければ無様なことになっていただろう。
「俺はいつからかも覚えてない。俺の取り柄は剣だけだ」
くすっと笑いをこぼして、二つの剣を抜いた。
アンリは冷や汗に濡れた背をゆっくりと起こすと、リュシオンの方を見た。リュシオンの額には一滴の汗すら滲んでいなかった。
「俺の剣を躱して反撃してきた奴は珍しい。わかった。共として付いてこい」
リュシオンはアンリに剣を返してそう言った。
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