一ノ二
ああーあああーーーーん
ユイの泣き声で我に返った。
通勤する人々が足早に通り過ぎて行く。
ぎゃあん、あーんああーんあんあん
ユイの泣き声があたりに響き渡る。
あんあんあん
迷惑そうに私を見ながら、足早に通り過ぎて行く人々。
私が何をしたっていうの? 真面目に生きてるだけじゃない。一所懸命母親業をやってるだけじゃない。何、見てんのよ!
あんあんあん、ぎゃー、あんあん
この子、一体、何を泣いているの?
「やめなさい。ユイ、泣かないで。さあ、静かにしなさい。ユイ、ほら、帰るわよ」
ああーー、あああーーーん、あんあん。
私はユイの手を引いて歩き始めた。が、ユイが抵抗する。歩こうとしない。泣きながら手をふりほどこうとする。
「ユイ、どうしたの? 何故、泣き止まないの? さあ、立って、立ちなさい。もう、仕方がないわね」
私はユイを抱き上げようとした。が、ユイが私の手を振り払う。また、泣き出した。
ああ、うるさい。
うるさい!
バシッ!
私はユイの頬をぶった。びっくりした顔でユイが見上げてくる。でも、泣き止んだようだ。よかった。うるさくてうるさくて。これ以上聞いていられなかった。
私はユイの肩を掴んで無理やり立たせた。手を引いて帰ろうとした。ところがまた、ユイが泣き出した。
「ユイ、どうして泣くの? ほら、みんな見てるわよ」
「ママじゃない。ママじゃないよー。おうちに帰りたい。ああーん」
「はあ? この子は何を言い出すの。さ、家に帰るわよ」
周りに人が集まってきた。
「この人、ママじゃない!」
ユイが大声で周りの人に訴えた。
「この人、ママじゃない! ママじゃない!」
「な、何をいうの。黙りなさい!」
私はユイの口を塞いだ。手に力をこめる。ユイを抱え上げて走ろうとした。
「おい、あんた、待てよ!」
誰かが私の前に立ち塞がった。別の男が私を見て電話をしている。みんながスマホで私を撮リ始めた。
「いや、やめて! 撮らないで!」
叫んでもみんな撮るのをやめようとしない。面白がったり、怖がったりしている。
制服を着た男達がやってきた。胸と背中にPACのマーク。
PAC……親査定委員会(Parent Assessment Committee)の略だ。しまった!
「今、女の子が殴られているって通報があったのですが、あなたはこの子の?」
「母です。この子の母親です」
私は毅然と言い返した。親査定委員会の職員を前に隙は見せられない。
「この子が急に馬鹿な事を言い出して。さ、ユイ、本当の事をいいなさい。私があなたのお母さんでしょ」
「違う、この人ママじゃない!」
「ユイちゃん、ふざけないで。私がママでしょ」
「違う、違うもん。ユイのママは、知らないおばさんに『ママー』なんて呼ばせない。ユイを道具にして、人をいじめたりしない。ユイをぶったりしない。この人、ユイのママじゃない。あーん、おうちに帰りたいよー」
制服を着た男達の顔が険しくなった。
「ちょっと来て貰いましょうか」
「いや、痛い! やめて、私はこの子の母親よ! 調べてもらえばわかるわ。私は立派な母親よ」
必死になって男達に説明したが、聞いてもらえない。男達は私を羽交い締めにして車に押し込んだ。ユイはPACの女性と話している。私の方を見た。軽蔑しきった顔をしている。ウソ! 何故、あの子があんな顔をするの?
車の窓をドンドンと叩いて、必死に「ユイ」と叫ぶ。
「静かにせんか!」
男から怒鳴られた。私は黙った。怖い。一体、これからどうなるのだろう。涙が出て来た。主人に連絡をしようとしたが、バックは取り上げられていた。
「お願い、主人に連絡して! そしたら、わかってもらえるわ。私がいい母親だって!」
「静かにしろ。静かにしていればお前の話は着いてから聞いてやる」
私は仕方なく黙った。車はやがてPACのビルに着いた。取り調べ室に連れて行かれ、しばらく待たされた後、女性の取り調べ官がニコニコしながら入ってきた。濃紺の制服を着て髪をピシッとひっつめている。私は自分の服装を見た。グレーのジャージの上下。トレーナーには料理をするときにできた醤油のシミがついている。もっとちゃんとした格好をしてくれば良かった。ほんのちょっと商店街の入り口であの女に嫌がらせをするだけだったのに。
「ユイちゃんのお母様ですね。今確認が取れました」
「本当ですか? 良かったあ」
私はほっとした。
「じゃあ、家に帰れるんですね?」
「うーん、それはちょっと難しいかな」
「え、どうしてです? 私のこと、調べてください。ユイのいい母親だって、すぐにわかる筈です」
「ええ、調べますよ。ですが、調べ終わるのに少し時間がかかるんですよね。そう言う訳で、しばらく泊まってもらうから」
取り調べ官がニコニコと笑いながら言う。カンに触る笑顔だ。この女も働いていることを鼻にかけているのだろう。
調書を取られた後、独房に連れて行かれ何日か鉄格子の中で過した後、法廷に引き出された。
「あなたは告発されています。罪状は『子供を他人を傷つける道具に使った罪』です」
「はあ? なんですか? それ?」
私はあっけにとられてまじまじと女性裁判官を見上げた。温和なそれでいてきりりとしたあたりを威圧する威厳を持った女性だ。
「あなたはある女性に対し、自分の子供を使って『ママー』と叫ばせたでしょ。その女性には子供がいない。子供を欲しがっている女性にわざと『ママー』と呼ばせるのはイジメ行為ですね」
「でもあれはみんなでやってる事よ。私が有罪だっていうなら他の人も捕まえるべきでしょ」
「証拠はありますか?」
「え? 証拠?」
確かに保育園のママ友がやったという証拠はない。だけど、証拠がないからといってやってない事にはならない筈だ。
「だったら、私は? 私にだって証拠はない筈よ」
「いいえ、あります」
裁判官が秘書官みたいな人に手で合図をした。秘書官が宙に浮かんだコンソールを操作する。
『ユイちゃん、お母さんがお手てをぎゅって握ったら、「ママー」ってあの女の人に向って叫ぶのよ。わかった?』
『ユイ、やりたくない』
私がユイに言いきかせた話がすべて録音されていたのだ。あの黒いスーツを着た女にわざとやったと言っている所まで録音されている。一体、誰が? 誰が録音したのだろう?
「こ、こんなの、でっちあげよ」
「でっちあげではありません。こちらに」
係官がさらに別の映像を映し出した。商店街の入口、あそこに防犯カメラが設置されていたのだ。私がユイの手をぎゅっと握ったらママーと叫ぶところも映っている。
「いいですか、あなたを告発したのはユイちゃんです」
「はあ? ユイが? 嘘!」
「いいえ、嘘ではありません。ユイちゃんが告発したのです。誤解が無いように言っておきますが、あなたがいじめた件(くだん)の女性が告発したのでもありません。日頃からあなたの言動に心を痛めていたユイちゃんが告発したのです」
「そんな、何故ユイが?」
「本人からのメッセージを聞きなさい」
暗い壁にユイの姿が映し出された。
『ユイ、イヤなの、ママじゃない人にママってわざと呼ぶの。すっごくイヤなの。悪い事させるこんな人、ユイのママじゃない。ユイに言う事をきかせる為に夕飯を食べさせてくれなかったリ、泣いたらぶったりするこんな人、ユイのママじゃない。この人の子供でいたくない。この人の子供、やめます!』
しまった。ユイに母親否定宣言をされてしまった。どうしよう。
今の世の中、子供が親を選べる時代になっている。子供を虐待して死亡させたり重症を負わせる親が増えたので、政府は親になる資格があるかどうか査定する法律を作った。この法律には子供から親を拒否する権利も含まれている。まさか、まさか、私のユイが私を捨てるなんて! まだ、五歳なのに。こんな子供の話を真に受けるなんておかしい。
「ユイは私の子供よ! 私の産んだ子供よ。私のものよ」
「子供には子供の人格があるんですよ。あなたにはそれが理解できなかったようですね」
頭にきた。この女も働いている事を、人より立派な地位についている事を鼻にかけているに違いない。
「あんたね、何偉そうに言ってるのよ。あんた、子供いないでしょ。結婚した事ないんじゃないの? え! どうなのよ!? 子供がいないから、私ら母親の苦労がわからないのよ!」
バンバン、裁判官が木槌を打つ。
「静粛に!」
私が喚いてもみんな知らん顔だ。馬鹿にして。悔しい!
「さて、それでは当親査定委員会は被告を有罪とし、三年間の母親矯正プログラムを受講するように命じます。これにて閉会」
立ち上がりかけた裁判官が私を振り返って言った。
「言い忘れましたが、あなたがいじめた女性、彼女はあなたを庇っていましたよ。『毎日、知らない子供から『ママー』と呼ばれたけれど、私は子供を欲しいと思った事がないから『ママー』と呼ばれてもまったく傷ついていない。だから、イジメにはあたらない。その人を許して上げて下さい』と」
は? 子供を欲しがっていない? そんなこと、ある筈ないじゃない。女はみんな子供を欲しがるものよ。そういう風に出来ているんだから。
「世の中にはいろんな価値感をもった人がいるんですよ。子供を欲しがらない人もいるの。欲しがってない人に子供見せたって何のイジメにもならないでしょうが」
裁判官が気の毒そうな顔をして私を見下ろした。
「ああ、それとね、噂話というのは必ず尾ひれがついてくるものなんですよ。彼女は妬まれて悪口を言って回られていたらしいですよ。マンションの理事の仕事を引き受けなかったのも引き受けるからには責任を持ってきちんとやり遂げたいからで、決して、暇な母親がすればいいなどとは言っていないそうですよ。あなたの言い分を確かめる為にマンションの理事長に聞きましたらそういう回答でした。これからは人の噂を真に受けるのはやめるんですね」
私は別室に連れて行かれて書類を見せられた。母親失格書だ。これでユイの親権を失った。主人はどうしているだろう。何故、私を庇ってくれないのだろう。
「あの、主人は? 主人はどうして私に会いに来てくれないのですか?」
係官が別の書類を差し出した。離婚届けだ。主人のサインがしてある。
では、私はユイだけでなく主人からも捨てられたのだ。
悲鳴が聞こえた。誰の悲鳴だろう。もちろん、私だ。私の悲鳴だ。
一体、私の何が悪かったのだろう。ユイは私の子供だ。私の子供を道具に人をイジメて何が悪い。みんなやってる。何故、私だけ? ひどい、誰か私を家に帰して! 帰して、お願い!
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