黒い瞳のシーク ― The Sheik’s Dark Eyes ―

スイートミモザブックス

#01 黒い瞳のシークと運命の出会い

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競走発祥の地イギリス。競走馬を代々育ててきた牧場の一人娘マーガレット・ローパーは、黄金の髪をなびかせて、大好きな馬と風のように駆けていた。そんな彼女の前に英国競馬界の話題をさらうシークが現れる。

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 イギリス南東部、サフォーク州、ニューマーケット。

 風になびく黄金の髪が目に飛び込んできた。

 かなたから馬と一心同体となって、風のように駆けてくる。

 よく見ると……なんと女性だ!

 一体となった姿がこちらにぐんぐん近づいてくる。

 男の鋭いまなざしは、馬と女性を交互に値踏みし、遠慮のない視線をひたと向けつづけた。

 漆黒の髪に黒い瞳、すらりとした長身に仕立てのいいスーツ。やり手のビジネスマンのように見えるが、エキゾチックな顔だちが微妙なアンバランスとなって、独特の危険な魅力をたたえている。

 男はそのまま、牧場を見ているかのように顔を向け、牧場主と話を続けた。牧場の厩舎の前で、さっきからふたりは熱心に話し込んでいる。

「メイクドラマ号の体調も安定しているようでなによりだ。彼女にとっては初めてのお産だからね」

「ええ、もちろん。万が一のことなどないようにするのが我々の役目です」

 そう答えた牧場主は、洗いざらしのチェックのシャツに作業ズボン、長靴をはいた六〇代前後の男。それを聞いて、三〇前後の若い男が笑顔で返した。

「そこはもちろん信頼している」

「予定では二月ごろですかな。初産は早まることが多いのでしっかり見守りますが、大丈夫、きっと元気な仔馬が産まれますよ」

「待ちきれないな。わたしもいつかダービーに勝てる馬を持ちたいからね」その目は、見事な走りを見せている馬と女性をあいかわらず追いつづけている。

「かのチャーチル首相でさえ、ダービー馬をもつのは首相になるより難しいと言ったほどです。競走馬にかかわるものにとって見果てぬ夢ですが、あなたならきっと実現するでしょう」

「ああ、必ずやかなえてみせよう」

若い男はそう言い切ると、はるかかなたへ続く緑の稜線を見わたした。

「それにしてもいまの季節は緑が美しい。わたしの故郷は砂漠地帯だから、このあたりはいつまで見ていても飽きないよ」

 牧場ではいま、一月ごろから始まった馬たちの出産がひと段落し、生まれて間もない仔馬と母馬が仲よく草をはんでいる。

 穏やかな日差しをあびた牧草地に、春の訪れを告げるマグノリアの花がほころびはじめている。

 この丘陵地帯はイギリス競馬のメッカだ。有名な競馬場、競走馬を生産・育成する牧場、そして競走馬を管理・調教する厩舎きゅうしゃなど、競馬のためのあらゆる施設が集まっている。ここローパー牧場も、競走馬の生産・育成を代々行ってきた牧場だった。


 ――気に入らない。

 遠くから視界に入っていたとはいえ、近づくにつれ強く感じた遠慮のない視線が、マーガレットはさっきから気に入らなかった。

 彼女は男の鼻先で馬をとめると、そのまま見下ろした。

 視線がぶつかりあう。

 春の日差しにきらめく彼女の金色の髪、そして透き通るグリーンの瞳、上気した頬が美しい。

 なによりもその瞳――生き生きとした姿に男は目が離せなかった。

 かたや若い女性のほうは、つんと顎をあげ、視線をそらしたままだ。

 そんな彼女をみとがめて、牧場主のテルフォード・ローパーが口を開いた。

「マギー、お客様の前で失礼じゃないか。さっさとおりて挨拶したらどうだ」

 彼女は反抗心むきだしのまま、さっと馬をおり立つ。目元が父親似だ。若い男がそう思っていると、父親が先に言葉をついでくれた。

「こちらは馬を預けてくださっているジャーシムさんだ。ミスター・ジャーシム、娘のマーガレットです」

「初めまして、ファハド・ビン・ジャーシムです。それにしても、いい馬だ」

 そう言いながら、彼は視線をマーガレットからはずさない。

 まるで無言の挑戦状を受け取ったかのように、マーガレットは堂々とその視線を受けとめ、優雅に挨拶をした。

「初めまして、ミスター・ジャーシム。レキシントン号をお褒めいただき光栄です」

「レキシントン号か。いい名だ。たしか〝永遠のヒーロー〟と呼ばれた名馬の名だ」

「よくご存知ですね。〝盲目の英雄〟とも呼ばれた一九世紀の名馬にあやかって名づけました。よろしかったら、乗られてみてはいかが?」

 やり手ビジネスマンといったスーツ姿の男に、マーガレットは挑発するように言い返した。乗りこなせるならね……と、軽い軽蔑を顔に浮かべている。

「口をつつしみなさい、マギー。すみません、ミスター・ジャーシム。男親だけのせいか、がさつなところがありまして……ま、乗馬の腕だけはかなりのものなんですが……」

 ジャーシム氏はそんな父親の言葉をさえぎると、「では、お言葉に甘えて」と言うなり、さっとあぶみに足をかけて馬にまたがった。

 マーガレットはあっけにとられた。予想に反してたちまちキャンターからギャロップに移ると、いっきに駆けていってしまったのだ。

 人馬一体となった姿を彼女は呆然と見送った。

「おお、さすがだな」

 感心する父の声も、彼女の耳に入らなかった。

「あの子が、あんなに簡単に従うなんて……なんなの、あの男!」


 自分にしかなつかないと思っていた愛馬が、見ず知らずの男にあっさり手なずけられたのが、マーガレットには信じられなかった。

 馬は本来とても繊細で臆病だ。ましてレキシントン号は、この牧場のなかでも、かなりの気難し屋としてみなが認めている馬なのだ。

「あのひとをみくびるなよ、マギー」

 ジャーシムを乗せて駆けて行くレキシントン号を唖然として見送る娘の背後から、父が声をかけた。

「彼はいま、イギリスの競馬界を席捲している有力馬主のひとりだ」

「そうなの?」

「ミスター・ジャーシムほどの財力があれば、ここらあたりの牧場を買い占めるなんて簡単だ。なのに、うちみたいな家族経営の牧場に馬を預けてくれている。これは奇跡的なことだぞ。大規模牧場との競争で大変ななかで、これほどの宣伝効果はないだろう?」

「それは、父さんや兄さんがいい仕事をしてきたからでしょう?」

「なにを甘いことを……ロバートはまだまだ半人前だ。あいつに任せるのは一〇年早い!」

「父さん、まだそんなこと言ってるの? いいかげん、牧場を兄さんに任せたらいいのに」ひと呼吸おく。「わたしが手伝ってもいいのよ」

 いつもどおり、父親は頭を振った。

「余計な口をはさまんでくれ。おまえは自分のやりたい仕事をすればいい。そう言って家を出たんだからな」

「ええ、わかってる……それにしても、レキシントンはどこまで行ったのかしら?」

 はるか彼方に目をやりながら、マーガレットはふと思い出した。

「ひょっとして、兄さんが言っていた〝砂漠の王国からきた馬主〟って、あのひとのことなの?」

「厳密に言えば、ナディール国の王族のおひとりだ。ただし、生まれも育ちもロンドンだそうだから、砂漠の王国から財力に物を言わせて名馬を買いあさるような人物とはちがう。この国の競馬文化をとても尊重してくれているのだ。あのかたが戻って来たら、くれぐれも失礼のないように」

 そう言うとローパー氏は、馬房の様子を見にいってしまった。


 そのころレキシントン号は、牧場の地所の果てまで走ると、まるで心得たかのように森に続く道を進んでいき、やがて、なだらかな高台へとファハドを運んでいるところだった。

 はるか地平線のかなたまで続く広々とした草地、そしていちだん濃い緑をなした森が絶妙なアクセントになっている。見事な景観がファハドの視界にとびこんできた。

「すばらしい眺めだな、レキシントン。こんなすてきなところに案内してくれて感謝するよ」

 ファハドは思わず馬に声をかけていた。

 それに、さっきまで乗せていた、きみのご主人さまもなかなか見事な乗り手じゃないか?

 彼は艶やかな黒鹿毛の馬の首をやさしくたたきながら、マーガレットの騎乗姿を思いかえしていた。

 レキシントン号は彼の言葉がわかったかのように、尻尾を軽く振ってみせた。


 しばらくして、気をもみながら待っていたマーガレットのもとにファハドが戻ってきた。

 彼女は無表情をつとめて、悠然と馬をとめたファハドから手綱を受けとろうとした。

 ところがその瞬間、ファハドが彼女をぐいと引き寄せた。

 上質なスーツの下に隠れていた、男らしくたくましい筋肉に、マーガレットは心臓が飛びだしそうなほど驚いた。

 さっきは整っていた彼の黒髪はいま、額に落ちかかっている。

 驚くほどハンサムな顔が、いきなり彼女の目の前にある。

 ファハドは「素晴らしいひとときに感謝のキスを」と言うなり、マーガレットの唇を奪った。

 肉感的な唇が重なったその瞬間、ふたりの間に衝撃が走った。

 気を失いそうなほどの強烈な熱。

 キスされたマーガレットだけでなく、ファハドも驚きに目をみはり、思わず体を引きはがした。

「なにするのっ!」

 マーガレットは反射的にファハドの頬をひっぱたいていた。

 ファハドは一瞬、動じた目をしたが、すぐに冷静な目で見返した。

 ふたりの視線がからみあう。

 時が止まったかのように……。

 マーガレットははっと我にかえると、彼を押しのけて愛馬に飛び乗り走り去っていった。

「なんだったんだ、いまのは……?」

 ファハドは頭をふった。

「それに、馬のほうがよっぽど礼儀正しいじゃないか」

 マーガレットの手の痛みを頬に感じたまま、彼女と馬の姿が視界から消えていくのを見送った。

「だが、この牧場に来る楽しみが一つ増えたわけだ……」

 ファハドは、彼女の鼻っ柱の強さに、がぜん興味をおぼえていた。

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