十一、凡人

 征長の勅許を出すかどうか、紛糾した朝議は夜通し行われ、翌朝になっても決しなかった。剛を煮やした一橋慶喜は、勅許が出なければ将軍は元より、自身も京都守護職も京都所司代も、一同辞職の上、江戸に帰ると脅し、勅許をもぎ取ったのだった。

 朝廷に政治の権はないが、権威はある。慶喜は、公家衆による政治への口出しを疎ましく思いながらも、治世の権の保証としての勅許を得ずに動くことはできなかった。天皇の裁可の許、大政を委任されている徳川家は、全て天皇の心に従って世を治める。この前提こそが、徳川幕府を維持させる虚構だった。

「古来、洋の東西を問わず、治世の権は王の手のうちにありました。一時期の希臘ギリシヤ国や羅馬ロマ国において共和制だった時代はあれど、近代の西洋において、王が治世の強権を握っていたことは、ここ数回で学んできたとおりです」

 斯波の講義は、文学師範部屋の六畳間で行われる。聴講生は大抵、十人足らずと少なく、たまに部屋に入りきらないときも、続きの書庫の間の襖を取り払って部屋を広げていた。常に表広間にて行われる伊東の講義とは、出席者数に明らかな差がある。

 伊東による国学と政治学は、志士として必須の学問であり、尾形による漢学講義も、また教養として出席を自らに課す隊士が多い。一方で、洋学に基づく歴史地理学および西洋政治学を扱う斯波の講義は、あくまで副科と見られていた。

「──ですから、新大陸における植民地政府は、 election  公挙   に参加できず、本国へ議事官を送れない立場にありました。まさに、置法権がなく、 administration   政治の執行   のみを受けていたわけです。しかし、言い方を変えれば、植民地政府は政治三局のうち、 administration   政治の執行   権と裁判権をすでに本国から委任されており、あとは置法権を手に入れるばかりであったと言えます」

 米国では、一七七五年に独立革命が起こり、八年を経て本国からの植民地支配を脱した。その後、フランス革命の影響もあり、今世紀初めの二十年間で、中南米におけるほとんどの植民地が旧宗主国からの独立を果たしている。

 世界的にみて、一度王の手から離れた治世の権は、議事院を有する政府に移管されるか、革命によって国諸共切り取られるか、どちらかに収束していく。そのため、多くの国の政体は、旧態依然の絶対王政を保っているか、立憲君主制か共和制に進んでいるかに分類される。

「──他方、我が国では七百年ほど前に、王権の実質は武家へと移りながら、王家は残り続けました。さらに今では、武家が王家に接近し、置法権の一部を朝議へと差し出しながら、武家による administration   政治の執行   権を確かなものにしようとしています。この流れは、世界中の例に照らすと、かなり特異なことだと言わざるをえません」

 斯波は、それでもデマクラシーを求める人民の動きは抑えられないとして、今後の日本がどのような政体を取るようになるのか、幾例かの予測を挙げて解説を行う。講義は最後、幕府の王権・・に革命を画策する長州がどのように解体されていくか、その手法と方向性とによっては、別の勢力による新たな革命を引き起こしかねないだろうと締め括られた。


「──で、先生としては、我が国でも議事院を設けて、デマクラシーを確立させるべきだって結論だったよ」

 厨の裏にて牛乳の土鍋を掻き混ぜながら、千歳は巡察帰りの五郎へと講義の要約を伝える。まだ汗を浮かべる五郎は、千歳の帳面を書き写しては、質問を重ねた。

「ここがわからないな。斯波先生は、公議政体の先に election  公挙   はないとお考えだって。公議政体とデマクラシー、いずれも衆議による政治じゃないか?」

「それは、議事官の質がまったく異なるからね。例えば、十年後、公議政体の世になっていたとして、君はその議事官になれると思う? 思えないよね。公議政体においてもっとも重要なのは、家柄だ。公家と藩主と、ごく少数の有能で有力な武士しか、議事官にはなれないはずだよ」

 千歳は腰に提げた竹の水筒を外すと、水を一口飲んだ。痰の絡まりが取れきらない掠れた声で、続きを語る。

「ごめん。で、僕は、公議政体のような人民による公挙のない衆議とは、英国における貴族院House of Lordsと同じ類いかと聞いた。先生は、同じだって。だったら、貴族院House of Lordsは自らの対抗となりうる庶民院House of Commonsを設けようとするだろうか、と考えれば、どう?」

「しないだろうね。そうか、公議政体は確かに衆議だけれど、集められる者は『人民の代表』とは言えない方々だ。衆議を求める者は、政治を彼らのところにまで下ろしたいと考えるけど、その『彼ら』がどこにいるか。考えてこなかったかも」

「そうなんだよ、自分たちの利権を得ようと働くのは当然だ。だから、斯波先生は、公議政体は王家による専制tyrantが、貴族院House of Lordsによる専制tyrantに切り替わるだけの恐れがあるから賛成とは言えないって。それを踏まえた上で、五郎くんは公議政体とデマクラシーと、どっち派?」

「……もしかして、デマクラシーと尊王論って相性悪い?」

 恐々と明かされた五郎の気付きに、千歳は悪戯を共有するような笑い顔でうなずく。平等とか自由とか、そんな西洋政治学の根底は、天皇親政とそれを支える公議政体とは全く合わない。斯波の講義が不人気な理由もそこだ。尊王の志士ほど、相性の悪さに気付いて去っていくのだ。

 塊が大きくなり始めた牛乳を竹ベラで素早く揺らす。ほのかに甘い香りが辺りにただよっていた。千歳は至極残念そうな声音で畳み掛ける。

「尊王論と平等主義、なんとか相容れないものかなぁ? どう思います? 平等主義について」

「ぼ、僕だって平等主義は重要だと認めているよ。有能な者はどんどん登用されるべきだって」

「でもそれって、身分の上下を受け入れた上で、その席は能力によって配分されるべきだってことでしょ。それは功能主義であって、平等主義じゃないよ」

「功能主義……」

「じゃあ、今後、置法府が設けられて、議事官は誰もがなれるとする。いずれ、米商人や魚獲り、果ては下男や女まで置法の権に携わるようになる。君はこれ、許せる?」

「いや……しかし、置法は学がなければ扱えないだろう」

「だから、津々浦々に官立学校common schoolを置き、愚夫・愚婦までを教育する。武家と富裕の男子のみに独占されている学問を開放する。皆が政治に耐えうる人物に育つようにね」

「……本気で言ってる?」

 からかいに抗議を示す五郎の眉根に、千歳は小首を傾げて見せただけで何も答えず、咳の予兆がする喉へと水を流し込んだ。冗談だと笑えるほど、適当な考えを述べたわけではなかった。かわされた五郎は、筆写途中の帳面に筆を挟んで閉じる。長いため息を吐きながら、両手で顔を覆った。

「なんか……なんか……僕、意外と平等主義じゃなかったんだ」

「意外かなぁ? 五郎くん、別に元から平等主義でもないでしょう」

「え……?」

「え?」

 驚きに見つめ合う。千歳の目から見て、五郎は公平な人間ではあっても、決して平等主義者ではなかったはずだ。

「だって、与えられた役目が大事って思ってるじゃない。君臣、長幼、男女。すっごく弁えてる。人と人との間には上下があること、否定しないでしょう?」

「そう、だね。うん、それは。君は、じゃあ、どこまで平等を求めるの? 身分を否定するつもり?」

「うーん、難しいなぁ。僕も別に身分制を全廃すべきとは思ってないよ。だって、そんなこと言ったら、帝のご存在まで否定してしまう。だけど、うーん、ゆくゆくは、ね? 中級以下の武士に限っては……廃止、というか、溶けてなくなっていくと思う」

 千歳は頭の中で説明の概要を組み立てながら、土鍋を火から下ろす。一塊りとなった牛酪を平らに延ばし、砂糖を投入する。小山になった砂糖を崩さず、竹ベラで左右に二分して見せた。

「武士の役割は、文武のふたつだ。文は政治と、そのための学問。これが今後、官立学校common school庶民院House of Commonsが設けられたら、武士による政治の独占は終わる。となれば、武士の文は人民へと溶け渡る」

 右の砂糖の山をヘラで崩し、残った左の山の頂を少しずつならしていく。

「武の溶け出しは、まさに新撰組とか農兵隊とか、すでに起こり始めている。お家を離れた武人の存在ね。反乱の危険とか、議論は山積みだろうけど、海防や有事を考えれば、各地に調練を受けた男子のあることは頼もしい。さらに進めて、国民皆兵national conscriptionまでいけば、武もまた人民へと溶け渡る」

 砂糖が土鍋全体に広がった。竹ベラで牛酪を折り畳んでは延ばして、砂糖を練り込んでいく。この国では、身分の根源である家と職能とがあまりに密接で、そう簡単に溶けたりしないと、千歳もわかってはいる。

「まぁ、夢物語に過ぎないけどね。──さぁ、出来上がり」

 牛酪を羊羹の竿状に整えて、打ち粉をまぶした紙の上へと移す。黙ってしまった五郎を見れば、ここ最近の馴染みとなった思案の横顔をしていた。千歳はヘラに残った牛酪を一口大にまとめると、五郎へと差し出した。

「斯波先生と話してるとさ、なんとか我が国の良さと西洋の良さと、練り合わせられないものかって、思うんだよねぇ。 そこらへんを考えるのは、僕より五郎くんの方が向いてそう」

 牛酪を手に乗せたまま、五郎がそんなはずはないとの顔を向ける。千歳は、正月の嶋原で聞いた加納による評を思い出せと続けた。

「君は、本歌取りに優れるって。前例を踏襲しながら、無理のない改革を考案できるってことは、世の中の今と、人々の考え方、これらの普遍をしっかり理解してなきゃできないでしょう?」

「いや、僕なんか。たいてい面白みのないことしか考えられないよ」

「僕、思うんだけど、伊東先生の講義で求められる意見って、自分自身がどう考えたかって独自さでしょう。で、独自さって普遍とは対立するよね。五郎くんは、普遍な感性を得ているがために、独自さが目立ちにくいってことじゃないの?」

「つまり、凡庸な感性と発案の弱さが僕の課題だ。知識は努力で積み上げられるけど、知識をつなぎ合わせて発案するとか、新しい見方をしてみるとか、そういった感性は努力で磨けるものじゃない」

「五郎くんは十分、賢いじゃないか。なんでそんなに自分の才能を卑下するの?」

 千歳からすれば羨ましくて仕方のない生まれ、才覚、人間性を有しているというのに、五郎は本気で否定にかかってくるのだ。

「才能なんてないさ! 学問も剣術も、全然及ばない。凡人が努力して、なんとか認められるところにいるだけだ」

「副長が言ってたけど、そういう感覚は年上の才子に囲まれているからだって。まだ藩校に行ってると考えてよ、それで、同い年九十九人集めて学問のできる順に並べたら、君は一体、何位にいるのさ?」

 五郎の耳が一瞬にして赤くなった。隠すように顔を背けると、牛酪を口に放り込む。思いがけない反応に、千歳も水を飲んで場を凌いだ。厨の陰は風が吹くと肌寒く、炭火を消すのはためらわれる。手をかざして暖をとった。

 しばらくの沈黙の後、五郎が膝上に閉じた二冊の帳面を見ながら、話し始めた。

「……僕は実際、学問は二番だった。どうしても勝てない子がいて。剣術でいえば、良くて四番だ。本当に才能ある奴は、国のお金で玄武館に行ける」

 宇都宮藩では、文武に秀でた子弟は北辰一刀流の総本家である玄武館に留学に出してもらえる。五郎も選抜を目指していたが、ひとつ上には総司に匹敵するほどに傑出の剣士がいて、ひとつ下には剣にも学にも秀でた英才がいた。結局、五郎たちの世代からは彼らふたりが選ばれ、五郎は父に頼み込み、私費で伊東道場へと出ることになった。

「──遊びにも行かずに、暇があれば本を読んで、先生方にも質問に行って。だけど、成績は中位以上には上がらなかった。剣術ばっかりやってるような塾生たちが、当たり前の顔して上席に連なっていく。あ、僕って学才ないんだなって気付かざるをえないよ」

 それでも、置いていかれてしまう恐怖から、勉強の手を緩めることはできない。自分はこんなものなのかと失望しながら、才能のある者を羨みながら、必死で一年を過ごした。

「──それで、去年の春に玄武館との親善試合があって、ひとつ下の子と再会したんだ。素直で人柄も良くて、顔までかわいいその子に、にこにこで『あれ、中村くんも江戸に来てたんですね』って言われたときの惨めさったらないよ。そのあと、当然に負けたし」

 今なお鮮明な感情を滲ませる声に、千歳は思わず笑い出してしまう。五郎の目が静かに千歳を刺す。

「笑いましたね」

「ごめんなさい。その人、五郎くんとの再会が純粋に嬉しかったんだろうなと思うと、お互い気の毒だなって。あと、五郎くんって意外と嫉妬深いんだね」

「意外じゃないよ。僕の本性なんか、嫉妬深くて、頑固で引き際を図れなくて、気位ばっかり高いくせに意気地なしだし」

「待てまてまて──」

 拗ねた口調で自己卑下を並べる五郎に、千歳は笑いそうになる口許に力を込めて、真面目な顔で五郎へと身体を向けた。五郎がたまに見せる本性を知っているからこそ、彼が普段、どれだけ努力して良き友人でいようとしてくれてるかがわかる。ありがたく思うし、そこが五郎の愛するところだ。自信を持ってほしかった。

「伊東先生がよく言われる。どんな国にしていきたいか、そのために何が必要か。自分自身も同じことだよ。どんな自分になりたい? どうしていったらいい? 足りないところを見る段はもう十分だ。こうありたい、その真心を言え」

 五郎がさらに耳を赤くして、両手で顔を覆った。漏れる息が、掠れた声でつぶやく。

「君、なんか最近、変わったよね……」

「え、変わった?」

「自信があるように見える」

「あー……そう、だね。夏からちょっと、色々あったし……」

 真心からの考えや思いが言えるようになり、それを伝えられる人も得た。学問にては、斯波と五郎。感情は、啓之助と木綿。それから、まだ心から父親とは認められないものの、歳三には一定の信用を置いて話せるようになった。

「なんだろう……三浦くんも言ってたけど、認めてくれる人がいるって、やっぱり大きいのかな。自信というより、安心? 僕のままでも大丈夫っていう」

「認めてくれる人、か……」

「うん。五郎くんのことだって、ちゃんと見てくれてる人がいるよ。副長は君を優秀と言ってたし、伊東先生だってそう思われたから、京都まで伴わせたんじゃないか。大丈夫、大丈夫」

 両肩に手を置き、しかと励ましたが、五郎はうつむくばかりで、顔を挙げなかった。

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