第四章
第二十一話
夏休みに入ると毎年おばあちゃんの家に行った。
少し離れた場所にある倉庫に車を止め、外に出ると山が見え白い煙のようなものが山頂をただよっている。黒い鳥が羽ばたくと、キーと高い声で鳴く。木の一本一本が視認できるほどの距離に山はあって、時々中を歩く人影を見かけることもあった。山の奥には墓地があるから、きっとお参りに向かっているのだろうと予想した。
倉庫の隣には畑があるが、おじいちゃんが亡くなってから育てる野菜を減らしたということで、年々小さくなっていた。
平屋であるおばあちゃんの家の風除室には春になるとツバメが巣を作り、それを目当てにした蛇がたくさん中に入ってくる。卵を丸飲みしたあとの蛇はお腹が丸くなって、遠くから見たらひょうたんが動いているように見えて最初は驚いたのを覚えている。
おばあちゃんちがある場所は県境を超え、海を通り過ぎた先にある山奥の、さらに山奥だ。雪が降ったり雨が降ったり、夏だというのにあられが降ることもあったし、光る黒い雲が現れたら決して外に出てはいけないと昔から耳にタコができるほど注意された。
けれど、外に出ていけない理由は、他にもあった。
夜の十一時を超えたら、決して山には近づいてはいけない。それはおばあちゃんからも、お母さんからも聞いたわけじゃない。ちょうど釣り竿を持って川へ向かっていたときに、駄菓子屋の前でお年寄り二人が話しているのを聞いたのだ。
あそこには、人食いの鬼が出る。
当時、泣いた赤鬼という絵本が好きだったということもあり、私は家族全員が寝静まったあとこっそり家を抜け出した。もしその鬼が絵本に出てくる青い鬼だったとしたら、きっと悲しい思いをしている。私が助けてあげなくちゃ、そう思ったのだ。
古い引き戸を開けると、ギィと軋むような音がした。私は慌てて外に駆けだした。夜空に浮かぶ星は、いつもより近くに見えた。大きく光る星は、その夜にかぎっていやに不気味だった。
畑のそばを通ると、タヌキが目を光らせて私を見ていた。タヌキなんているんだ、と内心興奮しながら、私は夜の道を歩いた。おかしいな、と思ったのはその後だった。
灯りがついている家が、どこにもないのだ。
どれだけ歩いても、どれだけ見渡しても、家はあるのに電気がついていない。
それでも明るい星々のおかげで足元はなんとか見えたので、わたしは山のふもとまで足を運び、茂みをかきわけた。
その時に手のひらを草でひっかいてしまったようで、触れた指先に血が付着した。近くで見てみると、草の周りがギザギザしていて、アロエをより強固にしたようだった。
危ないからこれにはなるべく触らないようにと思い、私は靴を履きなおした。
山にはあらかじめ道が用意されていて、段差の低い階段をリズミカルに登った。夜にする運動はちょっと気持ちが良かった。
そのまま進むと、開けた場所に出たので一度深呼吸をする。透き通った空気が肺を通り、心地よい感覚が体全体に広がっていく。
ここのような田舎はコンビニも近くにないし不便だけど、こういった自然はいいなって思った。
石ころの感覚を土踏まずで感じながら先を進んでいると、壁のようなものに触れて足を止める。よく見ると、それは墓石だった。知らない人の、血の通わぬ骨が眠る場所だった。
花瓶に入れられた花はまだ新しい。水が滴り、お供え物のお菓子もまだカラスに荒らされた形跡もなかった。
それから三十分程辺りを散策したが、鬼さんはいなかった。寒くなってきたのと、蚊に刺された箇所がかゆくなってきたというのもあって、私は来た道を帰ることにした。
帰る時は、来る時と比べて景色を眺める余裕があった。目的地と、土地勘を得たからだろうか。
降りる際、来た時には気付かなかった地蔵を見つけたのもきっとそのせいかもしれない。
小さな、小さな地蔵だった。それが、天を仰ぐように倒れていたのだ。
鼻が潰れてしまうかと思うほどの異臭がして、なんだか嫌だなって思った。足早にそこを通り過ぎようとした、その時だった。
ぐちゃ、ぐちゃ、と何かが潰れるような音がしたのだ。
丁度雲で隠れていた月が顔を出して、山の中を照らしていく。通り過ぎざま、横目でチラ、と見てみると。
老婆が上目遣いで私を見上げていた。
顔面は蒼白で、半開きの口の上には鼻水の跡のようなものが付いている。
そのまま老婆は腕と足をだらんと垂らしたまま、地面から五十センチほど浮いた状態で体を揺らした。首は縄で縛られていて、夜目でも見えるくらいにうっ血していた。
その下で、白髪交じりの女が老婆の足にかぶりついている。眼光は夜闇に光り、赤黒く染みた歯と浮き出た骨はまるで飢えた野良犬のようだった。
私は思わず声をあげた。
その瞬間、女が老婆から口を離し、私を見た。
とてつもなく見覚えのある顔だった。
私のおばあちゃんが、口に人肉をぶらさげながら私を睨んでいたのだ。
けど、おばあちゃんはまだ私が誰か分かっていないようにも見える。そういえば視力が悪いと前に話していたのを思い出し、私は足音を立てずにゆっくり山を降った。
「あ」
大丈夫かなって振り向いた時だった。猛スピードで階段を駆け下りてくる影が見えたのだ。
あれはおばあちゃんじゃない。じゃあ、なに?
誰? とは思わなかった。その動きは、とてもじゃないが人間には見えなかったからだ。
私は転がるように階段を下りた。茂みを抜けて、振り返る。ここまで来ればという淡い期待は、一心不乱にこちらへ走ってくる禍々しいなにかに打ち壊された。
曲がり角を抜けなんとか振り切ると、私は急いで家に帰り布団を被った。
恐怖で身を震わせながら朝を待っていると、部屋の襖が開いて誰かが入ってきたのが分かった。私は息を殺して、眠ったフリをした。
近づいてくる気配は、そのまま私の顔の前まで来て、止まる。それから朝日が昇るまで、私の顔には異臭混じりの息が当たり続けていた。
気付いたら私は本当に眠ってしまっていたようで、寝不足の頭を起こして居間へ向かった。
美味しそうなお味噌汁のにおいが不安をかき消してくれて、もしかしたら昨日の出来事は全部悪い夢なんじゃないかって思った。
みんなでテレビのクイズ番組を見ながら、鮭の塩焼きを食べる時間は楽しく、あっというまに時間が過ぎていった。
私がお皿を置きに行くと、先にお母さんが食器を洗ってくれていた。手伝うよ、というとお母さんは優しい笑顔でゆっくり休んでなさいと言ってくれた。お母さんの実家ということもあって、いつもより温和な印象を受けた。
私は頷いて、おもちゃがある部屋に行こうとした。
その時、お母さんの腕におびただしいほどの傷が出来ているのを見つけて足を止めた。
ねえ、お母さん。それどうしたの?
聞くとお母さんはこう言った。
茂みで切っちゃってね。
私は笑って返事をしたが、本当に笑えていたかは分からない。もしかしたら、恐怖に歪んでいたかもしれない。
私はすぐに家を飛び出した。
どうしよう。
夢じゃない。
昨日山奥にいたのは、おばあちゃんだ。
人食い鬼は、おばあちゃんのことだったのだ。
それなら、お母さんはいったい、なにをしてたの? どうして腕を切ってまで、私を追いかけてきたの? まるでなにかに取り憑かれたみたいに。
背中に視線を感じて振り向く。気のせいだろうか。それでも、何度も振り返らざるを得なかった。お母さんは、歯を剥き出しにして笑っていた。あまりの恐怖に、背筋が凍っていく。
・・・・・・狂っている。
私の家族は、どこかおかしい。
それから少しして、お父さんは家を出て行った。その時の顔は、今も忘れられない。
お父さんは、恐怖に満ち溢れた表情で、まるでお母さんから逃げるように姿を消した。
これから大変だけどお母さん
そう言って笑うお母さんの言葉に、私の首は錆びついたように音を鳴らした。
ドクン、と心臓が脈打つ。
この人の血が私にも流れていると思うと、今にも血管を引きずり出したくなる。狂って、狂って、おかしくて。そんな遺伝子が、私の体を駆け巡っている。今も、生まれた時からも、ずっと。
私は吐きそうになりながら、自分の部屋に戻った。
私もいつか、あんな風におかしくなってしまうのだろうか。私たち家族は、このまま狂い果てていくのだろうか。
そう考えるとあまりにも恐ろしく、存在してしまっているこの肉体があの日見た老婆の死体のように青ざめて見えた。
「私は・・・・・・」
半ば泣きながら部屋の扉を開ける。
私の妹が、布団で漫画を読んでいた。
「お姉ちゃん、おかえりっ」
私を見ると、動かない足を一生懸命引きずって駆け寄ってくる。
「ごめんね、勝手に読んじゃって」
「ううん。大丈夫だよ、
日陰は私の胸元に顔を埋めると、あどけない顔で笑って見せた。少し並びの悪い歯が、より愛おしさを助長させる。
大丈夫だよ、日陰。
なんども、なんども自分に言い聞かせた。
首を傾げる日陰の、頭を撫でる。
私たちは、大丈夫だよ。
私と日陰だけは。
狂ってなんかいない。
生きてやる。
私たちは、普通に生きてやる。
そう誓った矢先、私はクラスの棚橋亮介くんに告白された。最初はメッセージアプリでのやりとりだった。好きかもしれないというメッセージに『LIKEとLOVEのどっち?』と返したら、十分ほど間を置いてから『LOVEかもしれない』と来た。尾ひれのようについたかもしれないに、彼の優柔不断さと、それから少しの愛らしさを感じた。
それから、翌日の放課後に玄関で待ち合わせの約束をして、私はスマホをロックした。暗くなった画面に映ったのは、やや溶けた表情の私だった。
甘酸っぱい、どこにでもあるような学生の恋愛。
そうだ、きっとこれでいい。
私は誰かを愛せるし、愛を受け取れる。歪んだものなど一つもなく、整備された道をゆっくりと進む。
そして、あの日の夜。私は日陰にキスをされた。
妹の唇はティラミスのような感触だった。まさか私のファーストキスが日陰とだなんて、思いもしなかった。
吸いつく唇は、愛撫というよりも縋るような必死さがあって、私の中に眠る慈愛のようなものがうずくのがわかった。私は私のことをそこまでの善人だとは思っていない。思っていないからこそ取り繕うこともできるし、誰かを敬うこともできた。
普通でいることはなによりも難しい。格言だったか、それとも歌詞だったか。どこかで聞いたことのある言葉が本質に迫るものだったと理解し、産着に包んだ石を腹に収めてギャハハと笑わなければそれでいいと方針を定める。
せめて人の道を外れないように。それだけを肝に命じた。
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