0-5 衝動

ジェッサの奴には軽く呆れられているんだろうな、こんだけカネにうるさい男だとは思わなかっただろうって。だが俺は散々目の当たりにしてきたんだ、まず自分を、世の中を動かすには力じゃなくてカネがモノを言うんだって。親父が死ぬときだってそうだった、カネさえあればあの時……いや、今はそんなこと考えてるヒマはなかった。


誰かの泣き声がする方角へと、先導するジェッサがナタで道を切り開いていく。折れた木々の断面からはまるで生き物のように血が吹き出していって、ふと戦場に来たかのような錯覚すら覚えてきた。鉄錆のような匂いまで、血そのものだ。


「舐めて確かめたりするんじゃないぞ」

「なんでだ?」

「長老が言ってた。オルザンのものは身体に取り込むなと」

なるほど、つまりこの地で採れるものは飲んだり食ったりはやめとけということか……なんとなく分かる気がする。というか喉が渇いたってこんな血飲む気は全くないけどな。

「じゃあよ、もし取り込んじまったらどうなるんだ?」

しかしジェッサはその質問には答えようとしなかった。聞こえてなかったのか、それとも……


「あれだ」奴の細く尖った爪が前方を指す。

唐突に目の前をふさぐ石造りの壁が。

高さもかなりのものだ、ぱっと見ジェッサの背丈の三倍近くはある。

しかも城壁や煉瓦作りのような継ぎ目は一切見当たらない、つまりは一枚岩……それも途方もなく巨大な。どうやってこんなもん切り出せたんだ?

「これが旅人の話していた神殿か?」壁に耳をぴったり付けて、中の様子を聞いていたジェッサは無言でうなづいた。なるほどな。


「この中から泣き声は聞こえた」

とは言うものの、入り口なんてものは見当たらない。回り込んで他のとこから行こうにも、幾重にも絡み付いた血の木々が行く手を阻んでいるし。


となれば、これしかない。

おれは腰に下げていた鉈を手にし、壁に向かって思いきり斬りつけた。

……ああ、思った通りだ。

鋭いキーンとした音が響くだけ。壁には傷ひとつ付いちゃいない。それどころかこっちの刃が欠けちまっていたし。

欲に目が眩んだ馬鹿な冒険家なら、続けざまに刃を打ち込むだろうが、あいにく俺はそこまで愚か者じゃない。しかし俺の無い知恵を振り絞って考えても、これ以上の策は思いつかないんだなこれが。


と、また泣き声が俺の耳に飛び込んできた。

しかし……なんか不思議だ。

戦場だったらこんな声、別に気にしてすらいなかった。逃げようと群衆の下敷きになったり、あるいは略奪するオコニドのクソ共に親を殺されたガキの姿なんざ、もう飽きるほど見続けてきたしな。もちろんそんな足手まといを拾う気なんか毛頭無い。そこから立ち上がって生きる糧を自分で見つけるか、あとは死を選ぶか。少なくとも今はそれが全ての世界だ。

教会に預けろって? 馬鹿言うな。あんなカネをせびるだけの掘っ建て小屋に誰が行くもんか。

だが……なぜかこの声だけは、俺の胸を掴んで離さないんだ。

この地に生きている先住民なのか、はたまた冒険家どもが暮らし続けていたのか、そんなことはどうだっていい。今はとにかくその声の主を見てみたい、と激しく心が揺り動かされていた。


「登ろう」

驚いた。手の爪すら引っ掛ける場所すらないというのにどうやって登るというんだ? それに左右の木々も俺らの体重を支えられるほどの強度はなさそうだし。

「お前とはちがう」

そう嫌味ったらしい言葉を俺に向けると、ジェッサは軽やかに近くの木へと飛び移り、たった二度のジャンプでひょいひょいと難なく壁の上へと登っちまった。


「無理だと言うことが分かったろう。私が獣人でよかったな」

ジェッサが上からロープを投げ、またもや嫌味な言葉をプレゼントしてくれた。

本来ならこれほどまでに嫌味を言う奴なんかとは組みたくはなかった。口より先に手が出てしまう俺のことだ、クソな言葉を向けられた直後にそいつの鼻っ柱は変な方向に曲がっているだろう。

だが……不思議だ。こいつの嫌味はそれほど気になってこない。むしろ奴なりの優しさにすら思えてきた。

いや、ジェッサを仲間ではなく、異性としてみてきたからか……

まさか、な。


「……変わらんな」建物の屋根へと立ったジェッサが一言。

俺の身体に、さあっと心地よい風が吹き抜けていった。さっきまでのむせ返っちまうような血の匂いの空気とは全然違う。吸うたびに擦り減らされてきた気力がみるみるうちに回復していった。

まあ喜んでいるのもその時だけだった。そう、あの壁と同様、緩やかに高くなってゆく屋根には、やはり継ぎ目も出入り口も見留められぬまま。

巨大な浅めの鍋を伏せたかのような形の、つるつるの神殿の屋根。

ますます意味がわからなくなってきた……こんな異常な形状の建物、一体どこの誰が、それになんのために作ったんだ。

「これで分かったろう。降りて帰るか?」


いや……ダメだ。

あの泣き声が、地上にいた以上に強くはっきりと俺の耳を、身体を揺さぶってきた。

そうだ、呼んでいる。それが助けなのかなんなのかは分からないが、とにかく俺はその泣き声のもとへと駆けつけたい思いに囚われていったんだ。


「ジェッサ、手伝ってくれ」

「なにをだ? まさかお前、あの声に心を奪われてしまったのか!?」


はあ? 泣いてるガキが宝の主かもしれないだろ? つまり俺の衝動はそこから来ているかもしれねえんだ。

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