悪戯な微笑

話は少し進んで、その日の午後……


「イーグ・ハーゼンガーシュ。此度はご苦労であった」

城の中庭の天窓からふわりと舞い降りてきたのは、白いドレスの少女。


「はっ、はひぃ! ひひ姫さまぁ!?」


それはまぎれもなくリオネング王国の姫、エセリアであった。

彼女は驚きを隠せないイーグの目前へと、音もなく着地した。


「ハーゼンガーシュ……古リオネング語で、強き腕、という意味だそうだ。まさしくお主に相応しい名前じゃ。妾も誇りに思うぞ」

「めめめめめっそうもないお言葉!」間近に迫ってくる姫に、イーグはついにひざから崩れ落ちた。

それは礼儀から来るものなのか、それとも緊張がピークに達してしまったのかは分からない。だが姫はそんなイーグの前にひざまずき、その短い牙の生えた頬にそっと手を添えた。


「そんなにかしこまるでない。妾も正直ああいった堅苦しい儀礼は苦手での……ときおりここで息抜きをするのじゃ」

「へ、はあ……ひ、姫様もですか」

「そう、お主の戦友、ラッシュと出会ったのも、この場所だった……」朝日に照らされ、金色に輝く清流のような長い髪をかきあげ、エセリアは空を見上げた。

視界に広がるのは、雲一つないさわやかな青空。

「あいつ……ラッシュも、ここに来たんですか」そうじゃ、とエセリアは穏やかな笑顔を向けた。


「そうじゃ、お主は以前ログスト国にいた時、腕の立つ斥候として雇われていたと聞いていたが」

「あっはい。ここに来る前は故郷のログストでした。腕が立つかどうかっていうのは……まあ、人それぞれに言われてましたけど」

突然の過去への質問を投げかけられて、イーグもどうやって言葉を選んでいいかわからなかった。


「ふふ、謙遜せずともわかるぞ。【音無しのイーグ】よ」

ぴくっ。とその言葉にイーグの耳が反応した。

「な、なぜその名前を……」

「言ったであろう、息抜きにお主らの輝かしい戦歴を調べることくらい、雑作もないことじゃ」

だが……と言葉をはさみ、姫は続けた。「だからこそ誰にも気づかずにここまで来れたのであろう。妾が見込んだだけのことはある」


イーグの脳裏に焦りの色が浮かんだ……なにを仕掛けるつもりだ彼女は。諜報か、はたまた暗殺かなにかをお願いするのだろうか。とすればそれは自分にとってはお門違い。

しかし彼女……エセリア姫にはそのような【危うさ】は微塵も感じられない。まるで遊び相手でも欲しがるかのような物言い。

だからこそ、その無邪気さが狂気となる……自分にこれから何を頼むのだろうか、と。


「今宵、お主にちょっと危険なお願いをしたくてな」

「え、ちょ!? 危険って、その、俺……じゃない私には妻も子もいますので、その、そういったお遊びは!」

心臓が爆発しそうだった。唐突な姫のその一言。しかもまだ年端も行かぬ、ともすれば自分の子供と同じくらいの年齢の彼女。

その口から危険なお願いなんて言葉が出るなんて! つまりこれは……


「あ、えっと、危険というのは若干オーバーだったかもしれん。別に妾の寝室に来いとかそういう意味ではないからな。そこは安心してかまわん」


「じ、じゃあそのお願いというのは一体……」


「ふふ、それはな……」姫の口元が、悪戯っぽい笑みへと変わった。

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