第2話 生きる意味

 ぼくは一週間前、最悪の気分で目を覚ました。


 重苦しい頭をもたげてみると、自分が見知らぬ白い部屋にいることに気づいた。病室だった。


 手に暖かいものを感じる。母さんがぼくの手を繋いでいるのだ。母さんはぼくと目が合うと、驚いてさらに強く握ってきた。


「……賢治けんじ!? お医者さま! 目を覚ましました!」


 母さんがナースコールを連打する。すぐさまお医者さんとナースが駆けつけてきた。


 髭が生えた初老くらいのお医者さんは微笑むと、「よかった。焦点も合ってる。喋れるかな?」とゆっくりと低い声で聞いてきた。


「はい……。あの、なんでぼくは病院に?」


「覚えていないか。君は車に轢かれて、ここ三日間眠っていたんだよ」


「車に……」


 霧散していた記憶が徐々に形になっていく。そうだ。ぼくは確かに車に轢かれた。受験に落ちたショックで、ぼうっとしながら横断歩道をふらふらと歩いていて、軽自動車が突っ込んできて、ものすごい勢いで地面に叩きつけられて……。


 痛む頭で記憶を手繰っていると、母さんがぼくの体をきつく抱きしめてきた。


「本当によかったわ! てっきり二度と目を覚まさないかと心配で……!」


「うん」


「頭は大丈夫? まさか、わたしの事忘れてないわよね? 家の電話番号は覚えてる?」


 お医者さんが「奥さん、今は目覚めたばかりですので、ゆっくりと」と忠告する。しかし母さんは無視して、持っ

ているバックの中から参考書の束を取り出した。


「英文保や数式はもちろん忘れてないわよね? そんなことになったら、今までの人生がパァですもの。大丈夫よね?」


 必死の形相でぼくの目を覗き込んでくる。お医者さんが困った顔で、「奥さん、賢治君は覚醒したばかりです。このように難しい参考書を出されては、混乱してしまいますよ」と母さんを諫めた。


「でもこの子は来年受験なんですよ」


「それは退院してからでもできることです。今はしっかりと体を休めてですね」


「先生は口を出さないでください。例えお医者さまで偉かろうと、ウチにはウチのルールがあります。朝陽高校に入るには、一分一秒も無駄にできないんですよ!」


「しかし……」


 お医者さんが困り顔で諭そうとするも、「あなたは診察だけすればいいんです! 余計なこと言わないで!」と母さんはヒステリックに突き飛ばした。


「まだあるのよ。一昨年から去年まで全部の問題が入ってるやつに、これは細かい解説書付き。ほら見て、これは有名な先生が選出した、よく出る問題傾向の対策集よ。すごいでしょう。これさえあれば、今年こそ受かるわ」


「母さん……」


「大丈夫よ。有名な会社の社長や政治家の先生だって、人生で一回くらい失敗したっていうじゃない。一年くらい浪人したっていいわ。そう、一年くらい」


 その口調は、まるで自分に言い聞かせているかのようだった。


「いい? 一年間は八千七百六十時間。その間、文字通り必死になって勉強しなおしなさい。一度やったんだから、きっとできるはずよ。絶対に受かるのよ。わかった? あなたはわたしの期待を裏切らないでちょうだい」


 手を痛いほど強く握ってくる。ぼくは恐怖を感じながら、首を小さく縦に振った。いや、縦に振るしかなかった。もし、否定でもしたのなら、冗談ではなく殺されてしまうかもしれないから。

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