第142話 君はさよならを言わない






 本音と建て前という言葉がある。人が組織の中で、社会の中で生きていく上で必要な方法だ。


 本音を直接ぶつけないからこそ、別の利害関係をもつ人間との直接的な衝突を回避することができる。自分の醜い本音を隠し、擬態することもできる。


 だが建前というのは基本的に自分を守るための方便だ。相手のためと言いだしたら、それすらも建前である。回り回って自分の身を守る方便、それが建前である。決して相手のことだけを思って使うものではない。


 それは思ってもいないことを言っていると言う意味では、嘘ととらえることもできるだろう。だが、一般的な嘘は、人を欺き、あるいは陥れるために使用されるものである。故に基本的には、建前よりもより悪い意味で使用されがちだ。


 だがもし、その嘘が人のために使われることがあるとすれば、それはどのような時だろう。


 100%相手を想って使われるその嘘を、人は何と呼ぶのだろう。


 ましてや他者のために、自らに対して嘘をつくことを、なんと表現できるのだろうか。














「ベルフ一行は既に出立した。アイファも村に戻ったみたいだし……後は俺たちだけだ」


 政庁横の塔の上、町をながめているイエリナに佐三が声をかけた。


「長がこんな所にいたら心配かけるぞ」

「そうね。そろそろ行かなくっちゃ」


 そう言ってイエリナが戻ろうとする。すると、佐三が左手を横に伸ばして止めた。


「だから……既に皆には『塔の上で町を見てから行く』と伝えてある。もう少しだけ、ゆっくりしていこう」


 佐三はそう言って軽く口角を上げる。イエリナも小さく笑って、手すりに肘をかけている佐三の横に立った。


「この町も随分と変わったな」


 佐三が言う。イエリナは小さく「そうね」とだけ答えた。


 確かに規模は随分と大きくなった。広がった区画もあるし、廃屋同然だった建物が改修されたところも多くある。産業と呼べるようなものも、当時にはあってないようなものだった。


 しかしそれでも、イエリナの故郷である事に変わりなかった。


 両親から厳しいしつけを受け泣いていたときも、そんな両親が死んでしまって絶望に暮れていた日も、いつもこの塔から町を眺めていた。


 少しばかり見栄えは変わったが、それでもいつも通りの風が塔の上には吹いている。風の香り、町の匂い、広がる景色。それは今でも変わることはなくイエリナの心を支えてくれた。


 ここが自分の居場所なのだと。そう教えてくれる気がして。


(どんなに辛いときも、ここにいると安心できたっけ……)


 イエリナは昔を思い出す。こっぴどく怒られた後も、両親は必ず迎えに来てくれた。泣き疲れて眠ってしまったとき、まどろみの中で父親が抱きかかえながらベッドまで運んでくれた。


 両親が亡くなってからは、ナージャや従者達が支えてくれた。皆で辛さを分かち合った。だからこそ、イエリナはこれまで頑張ってこれたともいえる。


(でも、今回ばかりはダメみたい)


 イエリナは横目で佐三の横顔を眺める。かっこいいといえば、かっこいいのだろうか。初めは鋭い目つきと、悪人顔といった印象であった。しかし今では既に正常に判断はできなくなっている。


 時々する恐ろしい視線も、子供っぽく笑う顔も、ベルフと一緒にふざけているときも。どんな表情をしていても、その顔は魅力的だった。


(きっとこれが……最後の……)


「ん?どうしたイエリナ?俺に見とれたか?」


 佐三が「ニシシ」と子供っぽく茶化す。いつもは「もう!」とわざとらしく怒ってみせるのだが、今日は上手くできただろうか。彼は笑うのが上手いから、彼の表情からでは分からない。イエリナは心中そんなことを考えていた。


(思えば彼が来てから、たくさんのことがあった。いきなり飛び込んできて、求婚されて。そうかと思ったら救われて。そして契約という形で結婚までして)


 それから……とイエリナは思い返す。


(アイファを雇うとき、自分がいらなくなるってどこか不安になって。それでももらったこの外套がうれしくて。ハチさんの時は、パーティーで一緒に踊って、はじめて外の世界にも知り合いや居場所ができて……)


 イエリナは外套に手を触れながら、過去を振り返る。目の奥に熱を帯びるのを感じた。


 泣いてはいけない。イエリナは必死に堪えた。


(チリウさんのことで、はじめてサゾーに逆らって。それでもこの屋根の上から見守ってくれて。フィロさんの時は、サゾーが珍しく悩んでいたから、背中を押したっけ。私じゃない人にそこまで尽くすことに、何も思わないわけじゃないけど、それでも彼の悩みに寄り添えたことが、どこかうれしかった)


 佐三はぼんやりと町の眺めを満喫している。今だけはこちらを向かないで欲しい。そう願った。


(彼がこの世界の人間じゃないと話を聞いてしまったとき、すぐに信じてしまった。荒唐無稽だけど、この人ならばありえる。だからこそ私たちを救ってくれたのだし……)


「……こんなにも輝いているんだ」

「ん……何か言ったか、イエリ……」


 佐三がイエリナの方を向こうとした瞬間、イエリナが佐三を抱きしめ、顔を佐三の胸にうずめた。


 涙は見られたくない。咄嗟の行動だった。


「…………」

「…………」


 丁度風が吹いた。イエリナが何かを言った気がするが、佐三はうまく聞き取れなかった。そのはずだった……。


『行かないで』


 佐三には、イエリナが確かにそう言った気がした。


「いやね、私ったら、町の長なのに。こういうときこそしっかりしないと」


 イエリナは目元を擦り、両手で自らの頬をたたいた。そしてすぐさま笑顔を作ると、佐三に対して照れ笑いをした。


(こいつ……もしかして……)


 きっと二度と会えないことを、イエリナは感じているのだろう。勿論そう直接言うわけでも、そう匂わせたわけでもない。


 しかし佐三には直感的にそれが分かった。それが何故なのかは分からないが、イエリナの想いが嫌と言うほど伝わってきた。


「じゃあ、私行くね」


 イエリナはそう言って階段を下り始める。佐三から見えるか見えないかぐらいの位置で、イエリナは「またね」と言った。その表情は隠れていて見えない。


「………………」


 イエリナのその言葉は、佐三には『さよなら』と聞こえた。


 全く反対だが、確かにそう……。






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