1. 五人だけのソフトボール部

 長いようで短い夏休みが開け、二学期が始まった。

 天気は生徒たちの心の中と同様、生憎あいにくの空模様だった。朝からどんよりどよどよ曇っている。


「おはよう、ミナミ! 相変わらず学校来るの、早いよね」


 だがここに一人、そんな鼠色の空模様には負けない女子中学生がいた。ソフトボール部の新しい副部長、高田たかだ美里みさとである。

 制服である紺のブレザーとチェックのスカートを身に纏った身長155センチの体には、元気がこれでもかと詰め込まれたかのようだ。新学期早々、遅刻気味のこの時間に、靴箱の並ぶ玄関に飛び込んで来た。


「おはよう、ミサト……。言っておくけど、私が早いんじゃなくて、あんたが遅いのよ」


 美里に声を掛けられたソフトボール部の新しい部長、如月南はすらりとした背中越しに、そう返答した。美里に比べれば声に溌剌はつらつさはないが、彼女もれっきとした女子中学生であり、その表情は他の女子と同様、普通に愛らしい。

 ガラガラと派手な音をたてて内履きのシューズに履き替えた美里が、水槽の前に立つ南の傍に近寄って行く。


「あ、今日はミナミが金魚当番だったんだ。ご苦労、ご苦労」

「これは、これは……。ねぎらいのお言葉、ありがとうございます。あ、でもね、一応言っとくけど、明日はミサトが当番だよ。しかも、前回忘れたから明後日あさってもね」

「えー、そうだったっけぇ?」


 そんなすっとぼけた会話の中でも、南の視線は美里に向いてはいなかった。

 向いていたのは、金魚のいる幅60センチ以上はある大きめの水槽の中身だ。美里の言葉にもあったように、この学校では全校生徒が交代で玄関に置かれた水槽で飼育している金魚の餌やりをやっている。

 周りを靴箱やら誰かが勝手に置いた荷物やらに囲まれ、ぎゅっと壁に押し込まれたような形の水槽は見た目的にはちょっと狭苦しい感じも受けてしまうけれど、そんなことなどにはおかまいなし、五匹の流金が水中をゆらゆらと優雅に泳いでいる。

 お腹をぽっこりとふくらませた金魚たちは、餌の入ったケースを持つ南にその円らな瞳を使って熱っぽい視線を送り、長い尾びれをふりふり近づいて来た。いつもはどちらかというとクールな印象の南だが、パクパクと粒状の餌を食べる金魚たちに癒されているらしく、その目尻がぐっと下がっている。

 そんな南の背中越しに、美里が話しかけた。


「今日、あんまり天気よくないね」

「うん。午後の練習、グラウンドでできるかどうかは怪しいかも」

「二学期初めての練習だし、グラウンドでやりたいな」

「うん、そうだね。ところでミサト、ちゃんと宿題終わった?」

「……あら。そういった質問は、一週間ぶりに再会した親友にするものじゃないわね」

「そうかあ、今年もダメだったか……。うん、そうかあ……」

「んまあ! 今年”も”、なんて言い方はやめていただけるかしら」

「だって、去年”も”そう言ってた気がしますわよ、美里さん」

「あら、そうだったかしらね、南さん……。おほほほほ」


 すればするだけ空しい会話――。

 それをこの程度にとどめた二人は、玄関のガラス窓越しに見えるどんよりと広がった雲を、まるで老境に入ったおばあさんが孫を見るかのようなそんな優しい眼差しで、しばらく見続けたのだった。



   ◓ ◑ ◒ ◐ ◓



 担任に宿題の件で呼び出された、美里。


「家に置き忘れたって言っただけなのに、めっちゃ怒られたよ」


 そう言って、舌を出しながらプレハブの部室でユニホームに着替えた美里が、グラウンドに出たときには雨は既にぽつりぽつりと降り出していた。雲行きは、今まさに本降りへと移行する、そんな感じだ。洗いたての真っ白なベースボールキャップに落ちる雨音が、ぼつぼつと美里の耳に飛びこんで来る。


「しっかし、明日までに夏休みの宿題全部と今日の宿題も併せてやってくるように――なんて、ホント大人は無茶言うよね!」


 自分のことはすっかり棚に上げたままの美里のボヤキが止まらない。

 けれど、部活のことが頭をよぎった途端に彼女の表情が硬くなった。三年が引退した今となっては、二年が三人と一年が二人のたった五人しかいない部活なのだ。他の学校のソフトボール部と合同チームを組んだり、この学校の他の運動部などから゛助っ人゛を頼んだりしてメンバーが九人にならない限り、練習試合もままならないのが現実である。

 そう思うと悲しくなってくるが、とにかく今は練習するしかない。

 

 (ぼちぼち、部員の募集も進めなきゃね)


 そう心に決めた美里が、深く帽子をかぶりながら足を組んでだらりとベンチに腰掛ける、見た感じ起きてるのか寝てるのかよくわからない部活顧問に声をかけた。


河野こうの先生、遅くなってすみません。ちょっと担任の斉藤先生に怒られちゃってですね……。あ、いえ、なんでもありません。雨が降り出しましたけど、練習続けますよね?」

「高田君。そんな判断くらい、副部長ふくキャプテンである君に任せるよ」

「……あ、はい。じゃあ、とりあえず続けて、様子を見ますね」

「ああ、そうしてくれ」


 ピクリとも顔を動かさず、無精髭だけがやけに目立つ三十二歳の理科教師がそう答えた。

 まったく、ぶっきらぼうな人である。だが、いつものことなだけに、美里はそんな彼の応対は気にもかけなかった。

 顧問から視線を外した美里は、グラウンドで躍動する中学少女たちにそれを向けた。キャプテンの南が、一年生の二人に守備練習のシートノックをしている真っ最中だった。

 さすがはエースで四番。その打球の球筋には鋭いものがある。

 その打球を、南よりさらに五センチは背の高いひょろりとした感じの一年生の小川おがわひながトンネルをし、ボールを後ろへとらしてしまった。水はけが悪く、既にだいぶ水がたまり始めているグラウンドを白いソフトボールが水しぶきをあげて疾走していった。

 が、やがてそのボールは、人数が足りなくて誰も守備をしていない外野でぴたりと止まった。


「こら、ひな! 何度も言ってるでしょう? その捕り方はダメだって……。グローブの出し方が反対になってるよッ」

「す、すみません。ボール、拾ってきます!」


 指導したキャプテンに向かってぺこりと頭を下げたひなが、外野へと走り出した。

 バッターボックスに立ち、小さな溜息を吐いたキャプテン。

 彼女に新しいボールを手渡したのは、その横に立つもう一人の二年生、田丸たまる美加みかだった。南と同じくらいの背恰好で目立ちたがり屋の彼女は、守備位置決めをしたときに地味なポジションというイメージがあるキャッチャーになることを固辞し、ファーストになった経緯がある。それで、副キャプテンの美里がキャッチャーになった訳であるが……。


 と、そのとき外野から一際甲高い声がした。ボールを拾いに行った、一年のひなだった。


「すみません、如月先輩!」

「どうしたの、ひな」

「このボール、泥だらけで“持つとこ”がありません。どうしたらいいですか?」


 どうやらひなは、ボールの白い部分が無くてボールを持てない、と言いたいようだ。

 それを聞いたショートの位置でノックを受けているもう一人の1年、中山なかやまかおりが、肩をすくめた。彼女はソフトボール大好き少女で、あまりソフトボールには興味の無かったひなを無理矢理に入部させた張本人でもある。150センチの小柄な体だが、パワフルな熱血漢だった。

 頭を抱えて、南が言った。


「あのねえ、ソフトボール部員が泥で手が汚れることくらい気にしない! とっとと掴んで持ってくる!」

「ええーっ、そんなあ……。もう、持つとこないし!」


 最初は爪先で摘まもうとしたものの上手く持てず、渋々、ボールを親指と人差し指の指先で挟んで持ち帰ろうとする、ひな。まるで苦虫でも噛みつぶしてしまったかのような顔をして、眉間にしわを寄せている。

 そのとき、ベンチにいる美里の背後から怒気を含んだ女子の声がした。


「心配して来てみたら、案の定、ひどいもんだわ……。元々、あんまり期待はしてなかったけど、まさかここまでとはね!」


 それは、前部長の阿部あべ あおいのものだった。

 引退したはずなのになぜかここにいる、彼女。右目に掛かった前髪をはらりと払いながら、すぐ傍に居る顧問の河野を睨みつけた。

 視線を感じた河野が、仕方なく口を開いた。


「まあ、そういうな阿部……。人間、その気になれば勝手に育っていくものさ」

「先生がそういう風にテキトーで甘いから、こうなるんですよ」


 この場にいること自体がまずいような気がしだした美里は、ベンチを出てグランドへ走ろうとした。が、そのとき美里は、校舎の窓からこちらをじっと見つめる二人の人物がいるのに気付いた。


(あれは、生徒会長の金子かねこと生徒会顧問で我が担任の斎藤さいとう先生?)


 当然、二人の会話は聞こえない。

 けれどその意味有りげな視線に、美里は寒気に近い違和感を感じたのである。「今はそんなことにかまっている時間はない、とにかく練習だ」と思い直し、グラウンドの仲間のいる場所へと合流した。

 それと同時だった。

 窓際に佇む細身の眼鏡男子が、横に並ぶグレーのスカートスーツもバッチリ決まった三年目の若い女性教師に言ったのだ。


「斎藤先生、あんな五人しかいないソフトボール部なんて存在意義がないと思うんですよ。廃部手続きを進めますか?」

「あら、金子君。それは、あまりにもひどいですよ。公明正大をモットーとする生徒会がそれではいけませんね。でも……人数も少ないことですし、いずれ自然消滅するんじゃないかしら」

「まあ、そうかもしれませんね。それまで待ちますか」


 柔和な笑顔で生徒会長を諭した、国語教師の斎藤先生。



 ――そんな出来事のあった、次の日の事だった。

 ソフトボール部の部室から、すべてのボールが消えてしまったのである。

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