第27話 シャン=ゼリゼの似顔絵師
「な、何も起こってないっすよね……? ムッシュー」
シャン=ゼリゼ大通りの東地域、コンコルド広場側の自然区域に立っているマロニエの木の下のベンチに腰を掛けていた有木雷太は、自信無さげに小声で疑問を口にしながら、静かにゆっくりと腰を上げた。
「自分、さっきは、ベンチから一センチさえ動いていなかったすよね? ヒエログリフ、読みにミスは無かったと思うんすけど……」
再びベンチに腰を下ろした雷太は、ノートに書かれているヒエログリフと、その下の振り仮名の一つ一つを再確認し、読み飛ばしをしないように、指で辿りながら、もう一度、ヒエログリフを慎重に読み直した。
今度も間違えはなかったはずだ。だが、結果は、一回目の時と同じく、何も起こらなかった。
その様子を見ていた有栖川哲人は、ノートを雷太から受け取ると、フリガナを、自分のタブレットのメモ帳アプリに、タッチペンで写し取った。その後でもう一度、雷太にヒエログリフの音読を試みさせたのであった。
その間、雷太の様子を注視しながら同時に、教え子の声に耳をそばだて、哲人は、タブレット上のメモ書きを、ペン読みしながら黙読したのだが、雷太の読みに、一言一句、間違いは認められなかったし、教え子の周りで、何らかの不可思議な事象が生じる事もなかった。
「空間転移、再現されないな……」
「ムッシュー、自分、やっぱ、言い間違えてないっすよね?」
「ああ、サンダー、その音読の評価はAプラスだ」
「メッシュー(殿方たち)、ヴゼット・ジャポネ(あなた達は日本人ですか)?」
アリス&サンダーの師弟コンビの、その遣り取りに割って入ってきた者がいた。
突然あらわれた男が、マロニエの木の下のベンチに座っている、哲人と雷太の二人に、いきなり声を掛けてきたのだ。
「この人、何の用っすかね? ムッシュー」
自分達の前に立っている外国人の様子を一瞥した哲人は、教え子の質問に応えた。
「このフランス人、似顔絵描きだよ」
「へえええぇぇぇ~~~、似顔絵を描く人って、モンマルトルの丘にしかいないって思ってました。パリの北以外の場所にもいるんすね」
それから、哲人は、そのフランス人の流しの画家と、フランス語で、何やら話をし始めた。
「なあ、サンダー、せっかくのシャン=ゼリゼの記念に、一枚、描いてもらおうぜ」
「それっ、イイっすね!」
「ちょっと交渉してみたんだけれど、なんでも、今日はもう仕事は終いだから、〈ベンキョウ〉してくれるってさ」
「この人、絵を勉強させてくれるんすか?」
「…………。『ベンキョウ』って、お安くしてくれるって意味だよ」
さらに、哲人は、似顔絵描きと何か話をつけたようであった。
「二人一緒に描いてくれるってさ」
「おっ! それは、アリス&サンダーの麗しき師弟愛の証になるっすね」
「お前、恥ずかしいセリフを、何気にさらっと吐くよね」
「まっ、いいじゃないっすか、ムッシュー」
そのフランス人の似顔絵描きは、ものの数分で、沈みゆく夕陽に照らし出されている哲人と雷太の姿を描き終えたのであった。
料金をベンキョウしてくれるという話だったのだが、哲人が、少し多めにフランス人に紙幣を手渡すと、フランス人の画家は満面の笑顔を浮かべ上げた。
「「オ・ルヴォワール(さようなら)」」
その画家と別れた後、筒形に丸めた紙を片手に、並木道を歩き出した哲人は、雷太に語り掛けた。
「なあ、サンダー」
「なんすか?」
「さっきは、僕と一緒だったから良かったんだけれど、おまえ、独りでいる時には、気を付けろよ。観光客を狙って、勝手に似顔絵を描いて、法外な料金を請求してくる、そんなタチの悪い流しの絵描きも、結構いるからな。その場合は、描かれる前に、『ノオオオォォォ~~~ン』って断固拒否しろよ」
「ウイっす、ムッシュー」
雷太の返事を聞きながら、哲人は、大学生の頃、初めてパリを訪れた時の苦い記憶を思い起こしていたのであった。
*
コンコルド広場方面に向かってゆく、ジャポネの背中を見送りながら、まだ記憶に残っている二人の日本人の姿を、フランス人の似顔絵描きは、素早く紙上に再現させていた。
それから、描いたばかりの絵をスマフォで撮影した似顔絵描きは、写真を、とあるサイトに投稿した。
それは、一ヶ月ほど前の事である。
パリ市内の掲示板やSNS上で、あるサイトにて「パリで見かけた日本人の似顔絵」が募集されている、という情報が仲間内で出回ったのだ。
一枚投稿しただけで五〇ユーロが支払われ、募集主がその似顔絵を気に入った場合、さらに、高額な報酬で原画を買い取ってくれるらしい。
そして、この情報は、パリの似顔絵師の間で、あっという間に拡散していったのである。
シャン=ゼリゼの似顔絵師が、アリス&サンダーの絵を投稿してから僅か数分で、募集主から、そのフランス人の似顔絵描きの許に連絡が届いた。
投稿された絵の実物が欲しいので、直接会いたい、との事である。
似顔絵師は、少し怪しい、と思ったものの、募集主が提示した、多大な報酬額は実に魅力的であった。
そこで、万が一の場合に備えて、ランデヴー(待ち合わせ)は、サン=ジェルマン大通りに在る、画家行きつけのバールにした。
それから一時間後——
画家が指定した、その飲み屋に、一人のイタリア人が現れた。
その男は、鼻を怪我しているらしく、顔の中央に絆創膏を貼っていた。
早速、フランス人の画家が日本人達の絵を手渡すと、絵を持ったイタリア人の手は震えていた。
「ま、間違いない。こ、このジャポネェェェ~~~ゼっだっ!」
勢いあまって、イタリア人は、手にした紙を引き千切ってしまった。
結果として、似顔絵師は、件の日本人の似顔絵を、その場で描き直す事になってしまった。しかし、イタリア人から追加料金を支払ってもらえたので、フランス人の似顔絵師には何の文句もなかった。
「みんな、今日は、ワシが一杯おごるわ」
イタリア人の募集主が立ち去った後、フランス人の似顔絵師は、バールにて仲間達と、一晩中飲み明かし、結局、得たばかりの絵の報酬を、一夜で使い切ってしまったのである。
宵越しの銭は持たない。
それに、シャン=ゼリゼでジャポネを一人見つければ、それだけで、五〇ユーロがまた入ってくるって話さ。
だがしかし――
翌朝、二日酔いの状態で、似顔絵師が、「パリで見かけた日本人の似顔絵」のページにアクセスを試みたところ、そのページはネット上から削除されていたのである。
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