第18話 巻子本の象形文字
真夜中のモンジュ通りを、一気に駆け抜けた有栖川哲人(ありすがわ・てつと)は、ブロカ通りのステュディオに戻るや否や、精も根も尽き果ててしまったかのように、激しい疲労感を覚え、ベッドの上に倒れ込むと、そのままの姿勢で眠りに落ちてしまった。
組んだ両腕を下にして、腕を枕にしていたため、目が覚めた時、哲人の両腕は激しく痺れていた。さらに、全力で走ったせいか、両脚も筋肉痛になっていたのである。
もしかしたら、昨夜、リュテス円形闘技場で起こった出来事は夢かもしれない、と思いもしたのだが、右の掌の鈍い痛みが、昨夜のパリでの出来事が、夢ではなく現実であった事を告げていた。
硬くなったバゲットとコーヒーだけの、軽い朝食を済ませた後、哲人は、しっかりと手洗いをしてから、前の日の夕方に、セーヌ河畔の奇妙な雰囲気を持つブキニストから購入した白い箱を開け、その中に収められている巻子本を取り出した。
なるほど確かに、貴重な本を取り扱う時には、手汗や汚れから資料を守るために、「白い手袋を着用すべし」という意見もある。
しかしながら、実は、手袋を着けると触覚が鈍くなり、紙の硬さや柔らかさ、あるいは、厚みに関する感覚が鈍くなってしまうのだ。
しかも、綿手袋を使った場合には、例えば、手袋でひっかけて紙を破くような、書物を損傷させてしまう可能性が高くなってしまう。
したがって、貴重な本を閲覧する場合でも、手袋をする必要はなく、入念な手洗いをするだけで、実は十分なのである。
それゆえに、哲人は、素手で巻子本を手に取ったのであった。
現在における一般的な書物形態である〈冊子本〉に対して、いわゆる巻物である〈巻子(かんす)本〉の開閉は、冊子本に慣れ親しんでいる現代人である我々にとっては、その扱い方は存外難しい。
例えば、巻物の後の方に書かれた内容を確認するために、読みたい箇所まで、かなり巻き開かなければならないし、また、閉じる場合には、慎重に巻き取ってゆかないと、巻物の形が崩れてしまうのだ。
哲人は、かつて、日本の博物館で催された巻物の企画に参加した事があったので、その時の体験を思い起こしながら、慎重に巻子本を巻き開いていったのであった。
巻子本を開くと、まず、哲人の目に飛び込んできたのは、彼には、全く馴染みの無い文字の羅列であった。
それは、文字というよりも絵文字のように哲人には思えた。
「これって、絵みたいだし……、もしかして象形文字……、古代エジプトのヒエログリフかな? でも、確証はないし、正直、門外漢なので、はっきりとした事は分らんな」
大学一年生の時に履修した、〈文字の歴史〉というオムニバス講義において、エジプトを担当した講師が、これと似たような文字を資料として提示してくれたように記憶しているのだが、その講義を受けたのも今は昔の話なのだ。
哲人は、机の上に巻子本を置いて、自然に巻き戻らないように重しで慎重に固定してから、デジカメとスマフォのカメラアプリで、紙面を写真に収めた。次いで、巻子本を丁寧に巻き閉じると、その写真をノートに書き写した。
それから、白箱に戻し入れた巻物とノート、そしてモバイルPCを鞄に入れ、アパルトマンを出ると、徒歩で十分くらいの距離にある、近所の大きな図書館に調べ物をするために向かったのであった。
モンジュ通りに近接しているムフタール通りという名の坂を上ってゆくと、サント=ジュヌヴィエーヴの丘の頂上に辿り着く。その丘の上には、フランスの偉人が祀られているパンテオンが建っているのだが、そのパンテオンの向かいに在るのが、サント=ジュヌヴィエーヴ図書館である。
サント=ジュヌヴィエーヴ図書館は、フランスの大学の共同図書館で、その多くの利用者は、パリの大学の在籍者なのだが、外国人でも申請をしておけば利用はできる。二ヶ月近くフランスに滞在する予定の哲人は、事前にWEBで、この図書館の利用者カードを作成していたため、円滑にサント=ジュヌヴィエーヴ図書館に入館することができた。
この図書館は七百十五の閲覧席を有しているのだが、コンピューターによる座席管理システムを導入しており、利用の際には、受付カウンターの端末で座席を予約しなければならない。
哲人は、割り当てられた席に着いた後、図書館の端末を使って、「文字の歴史」、あるいは、「ヒエログリフ」というキーワードで検索を掛けてみた。
この検索ワードでヒットした本は、閉架式の書架に置かれていたため、哲人は、図書受け取りの手続きをし、しばらく閲覧座席で待った後、やがて本が出てきたので、それらを斜め読みしながら、古代エジプトの文字の基本的な情報と、その要点をノートテイクしていったのであった。
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