第25話 オー・シャン=ゼリゼ
コンコルド広場から凱旋門にまで走っている、幅七十メートル、約三キロにも及ぶ大通りが、「世界で最も美しい」と形容されている「シャン=ゼリゼ大通り」である。
この大通りは、日本において最も有名なパリの街路だ。
というのも、アメリカ人の歌手「ジョー・ダッサン」が歌唱した『オー・シャンゼリゼ』というシャンソンが、日本でもヒットしたからである。
コンコルド広場からまっすぐに伸びている、シャン=ゼリゼ大通りを前にした雷太は、一年生の頃、先生である哲人が、講義の中で語っていた事を思い出していた。
*
「そういった分けで、日本人の多くは、この曲を知っているんだよ。
で、パリを訪れた日本人は、この大通りを前にして、『おおおぉぉぉ~~~』って感嘆の叫びをあげる分け。
だけど、ここで注意したいのは、この『オー』というのは感嘆の言葉じゃないって点なんだよ。
この『オー』は、フランス語では、〈Aux〉って綴るんだけれど、これは、英語の《アト・ザ(At the)》か、《トゥー・ザ(To the)》に相当するんだ。
つまり、この『オー』は、感嘆ではなく、位置を表わす前置詞で、『シャン=ゼリゼで』、あるいは、『シャンゼリゼへ』ってのが、本来の意味なんだよね」
そして、ムッシューは、こんな風に続けたんだ。
「皆、このシャンソンを知っているので、『オー・シャンゼリゼ』って口ずさむんだけれど、この大通りに来た日本人の九割は、この部分しか分からないので、それ以外の箇所は、『フフフン、フフフン』って鼻歌しか歌えないんだよね。
でも、僕の講義を受けた君たちがシャン=ゼリゼに行くことがあったら、鼻歌ではなく、サビは歌えるようになっておいてもらいたいな」
そう言って、ムッシューは、ホワイトボードに、サビの歌詞を書いたんだ。
オ・シャン=ゼリゼ、オ・シャン=ゼリゼ
(シャン=ゼリゼには、シャン=ゼリゼには)
オ・ソレイユ、スー・ラ・プリュイ
(太陽の許で、雨の下で)
ア・ミディ、ウ、ア・ミニュイ
(正午でも、あるいは、真夜中でも)
イリア・トゥスクヴーヴレ・オ・シャン=ゼリゼ
(シャン=ゼリゼには、あなたが欲するもの全てがある)
「パリに行く前には復習しておいてね」
そして、ムッシューは話をこう締め括んだんだ。
*
シャン=ゼリゼ大通りを前にした雷太は、サビの部分を、哲人に披露してみせたのであった。
「偉いっ! ちゃんと覚えて来たんだな」
「完璧っすよ」
「大通りのコンコルド広場側は、自然あふれる並木道で、歌詞の中にあるような情景はシャン=ゼリゼの凱旋門側にあるんだよ。
そっちの方は、通りの両側に、欲しい物が何でも買える店が立ち並んでいるんだ。ヴィトンの本店もそこにあるんだぜ。
以前、僕が見た時は、ツール・ド・フランスの最終ステージの日だったんだけれど、店の外装は、茶色いヴィトンのバックになっていたんだ。もう圧巻だったよ。今も、そうなっているかどうかは、知…………」
「ちょっと待ってくださいっ! ム、ムッシュゥゥゥ~~~、あ、あれはっ!」
哲人が最後まで言い終える前に、雷太は、コンコルド広場の中央に直立している、高くて長い石柱に向かって駆け出して行ってしまった。
雷太が向かった先にあったのは、「オベリスク」で、元々、それは、古代エジプトのルクソール神殿の記念碑であった。
パリのオベリスクは、高さ二十二.五五メートル、重さ二三〇トン、その断面は四角形で、上方に向かってゆくにつれ、徐々に狭まってゆくような形状をなしている。その赤色花崗岩でできた側面には、エジプトの古代文字、ヒエログリフが刻まれている。そしてさらに、その先端部には、〈ピラミディオン〉と呼ばれる、太陽神を象徴するピラミッド状の金色の四角錐が置かれており、そのピラミディオンは、太陽光を反射して輝きを放つようになっているのだ。
古代エジプトにおいて、巨大なオベリスクの影は、日時計としても用いられていたそうである。
パリのコンコルド広場には、広場中央のオベリスクを軸として、石畳の上に放射状の線が書かれており、その各線にはローマ数字が添えられていた。実は、この線に落ちる影の位置によって、時刻が分かるようになっており、現代パリのオベリスクもまた、日時計として機能しているのであった。
そして、雷太が駆け寄った、まさにその時、オベリスクの影は「Ⅴ」の線の上に差し掛からんとしていた。
オベリスクのすぐ傍で、雷太は、壁面を見つめながら、何やら呟いていた。
雷太に追い付くや、哲人は問うた。
「おい、サンダー、何をぶつぶつ言っているんだ?」
「あっ! ムッシュー、オベリスクに書かれているヒエログリフを読んでいたっす」
「えっ、えええぇぇぇ~~~。お前、ヒエログリフ、読めるんかっ!?」
「自分、古代好きなんで、高校時代から、独学でヒエログリフを勉強してきたんすよ」
「お前、ドジっ子だけど、案外、色んなスキルを持っているよな。たしか、高校時代は、八種競技でインターハイ優勝してんだろ」
「そうっす、高校時代は、『サンダー・ボルト』って、皆に呼ばせていました」
「呼ばせてたんかいっ!」
「でも、この二つ名で呼んでくれる人、あんまり、いなかったっす」
「そ、そうか……。ところで、お前、ヒエログリフ、どの程度、読めるの?」
「語彙力や文法はまだまだっすけど、ヒエログリフって表音文字、つまり、ひらがなやカタカナみたいなものなので、音読するだけなら分けないっすよ」
「なら、これ、ちょっと、読めるか?」
「なんすか、ムッシュー」
哲人は、他の観光客の邪魔にならないように、広場の端、チュイルリー公園との出入口付近にまで雷太を連れて行った。
そこには、金色の銅像があった。
「ところで、ムッシュー。この金ぴか、何すか? ガイドブックには載っていなかったんすけど、広場に、こんな銅像もあったんすね」
哲人は、銅像の足下にあった小箱に一ユーロを入れた。
「これ、銅像じゃないよ。路上パフォーマーだぜ」
「ま、まじっすかっ! 全然動かないし、本物の銅像にしか見えないっすよ。そういえば、『アメリー』のモンマルトルの丘の場面にもいましたっ!」
「銅像さんのお仕事の邪魔になるといけないので、もう少しここから離れようか」
哲人は、雷太を連れて、銅像から距離をとると、鞄の中からノートを取り出し、雷太に差し出した。
研究者の性なのか、哲人は、いったん気になると、一刻も早く知りたくて仕方がなくなるのだ。
「これ、さっき話した巻子本に書かれた古代文字を書き写したものなんだけれど、読めるかい?」
雷太は、真剣な眼差しになってノートに目を走らした。
「これ、ヒエログリフっすね」
「で、分かるのか?」
「もちの論す」
この時、オベリスク先端の三角錘が反射させた太陽光が、雷太の手元を照らし出した。
雷太は、照射されたノート上のヒエログリフを声に出して読み始めた。朗読を終え、顔を上げた雷太の視線の先には、シャン=ゼリゼ大通り西端の凱旋門の屋上があった。
すると――
哲人が寄り掛かっていた壁に扉形の黒い穴が出現し、突如、支えを失った哲人の身体は、背中から穴の中に倒れていったのだ。
「ム、ムッシュゥゥゥ~~~」
そして、雷太もまた、慌てて、その穴の中に飛び込んでいった。
穴の中に吸い込まれていった哲人と雷太の様子を、黄金色の銅像だけが、その端目で見ていた。
数瞬後――
アリス&サンダーの姿は凱旋門の屋上にあった。
そこからは、コンコルド広場にまで続くシャン=ゼリゼ大通りを見渡すことができ、師弟コンビの二人は、思わず感嘆の叫びを、同時に上げてしまった。
「「おおぉぉ~~、シャンゼリゼ!!」」
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