第23話 カルチエ・ラタン探訪記
哲人と雷太は、ムフタール通りを上って、この坂道に面しているケバブ屋に入った。
ケバブとは、ローストした肉や野菜をパンに挟んだ中東料理で、これに、フリットと呼ばれる、多量のフライドポテトが添えられる。ヨーロッパでファースト・フードといえば、何はともあれ、このケバブなのだ。
「実は、飛行機の機内食以外、自分、何も食っていなかったっす」
目の前の雷太はケバブにがっつき、あっという間に、二個も平らげてしまった。
「腹が膨れて、少しは落ち着いたか? んじゃ、この界隈を軽く回ってみようぜ。パリの観光地は、ノートル=ダムや凱旋門、そしてエッフェル塔だけじゃないからな」
そう言った哲人は、雷太と共にケバブ屋を出て、ムフタール通りを、さらに上っていったのであった。
〈エスカルゴ〉とも呼ばれているパリは、二十の区(アロンディスマン)によって構成されている。そして、それぞれの区は、かつては行政上、四つの〈街区(カルチエ)〉に分割されていた。カルチエは、四分の一を表わす〈カール〉と語源を同じくし、つまり、カルチエとは区の四分の一を意味しているのだ。
行政区分としてのカルチエは、現代のフランスでは、もはや用いられてはいないのだが、場の名称としては現存していて、その代表の一つが、〈カルチエ・ラタン〉なのである。
〈カルチエ〉は四分の一区、〈ラタン〉とはラテン語のことである。
そして今まさに、二人が上がっているのが、パリの守護聖人である〈サント=ジュヌヴィエーヴ〉の名を冠した丘で、そして、この丘を登り切った先にある界隈が、カルチエ・ラタンなのだ。
この界隈に、〈ラテン語〉という名称が冠されているのは、かつてこの辺りに、欧州最古の大学の一つであったパリ大学の神学部の学生寮があって、この界隈では、欧州各地から集まってきた学生たちが、宗教や学問に関して、大衆には理解できない言葉である、ラテン語で会話をしていたからであった。
そして、今なお、この界隈は、ソルボンヌ大学やコレージュ・ド・フランスなどが点在している文京区になっているのである。
「そういえば、ムッシュー、一年生の最初の講義の時に、ラテン語っていう一般人に理解できない言葉で書かれた本が〈魔術書〉、グリモワールで、ラテン語を扱える人こそが〈魔術師〉って話をしていましたよね?」
「おっ、よく覚えているな」
「それだけ印象的だったって事っすよ。
で、その理屈から言うと、この界隈こそが、中世の〈魔術師〉の本拠地ってことになりますよね?
現代日本の魔術師アリスとその弟子サンダー、魔術の本拠地に、ついに至れり。なんてね」
「アハハ、上手いこと言うな。じゃ、まず、ここから入ってみるか」
哲人と雷太は、丘の上に立っている図書館に入ってゆくと、受付で、見学したい旨を伝え、パスポートを提示したのであった。
サント=ジュヌヴィエーヴ図書館は、閲覧利用するためには事前手続きが必要なのだが、しかし、観光客向けに、午後の二時から六時までの間、スタッフの付き添いの下、見学することも可能なのだ。
「天井、たっかっ! そして、壁いっぱいのグリモワール、これぞ、憧れのヨーロッパの図書館って感じっすね。映画『太陽と月に背いて』のデカプリオみたいに、『ウオオオォォォ~~~』って叫びたくなりますね」
「ここは、僕がよく使う図書館なの。だから、絶対にやるなよ。出禁になったら、洒落にならん」
それから、図書館を後にした魔術師アリスと、その弟子のサンダーは、図書館真向かいの、ドームとコリント式の柱が特徴的な、ギリシア風の建造物たるパンテオンに入った。
このパンテオンの内部では、十九世紀半ばに、地球の自転現象を証明するための、「フーコーの振り子」の公開実験が行われたのだった。
地球の自転実験とは、振り子を長時間振動させると、その振動面が少しずつ回転するというものである。地球の自転の観察のためには、長い時間がかかり、また、振り子の装置は大型でなくてはならず、そのため、巨大建造物であるパンテオンが用いられたのであった。
振り子は、二十四時間かけて、地球の自転とは逆向きに回転してゆく。もし仮に、振り子を真上から見た場合、北半球では右回り、南半球では左回り、赤道上では無回転になる。つまり、振り子の回転は、地球の緯度と関連があるのだ。例えば、緯度が北緯四十八.五度のパリで、振り子を振動させた場合、一時間に約十一度、一日に二六四度回転することになる。
そして、現在のパンテオンにおいてもなお、フーコーの振り子は天井から吊り下げられており、ゆっくりと右回りに回転しながら、時を刻むように展示されているのである。
「ムッシュー、これが、『フーコーの振り子』っすか。自分、ど文系なんで、理屈はチンプンカンプンなんすけど、実物を見れただけで、サイコウっす」
「んじゃ、次は、『ど文系向け』に、博物館にでも行くか?」
「ルーヴルっすか? オルセーっすか?」
「いや、そういうメジャーなとこは、いつでも行けるし、ちゃんと鑑賞しようとすると時間がかかるから、今日じゃなくても構わないかな」
そう言った哲人は、雷太を引き連れて、ソルボンヌ大学に面した細道を下って行った。
「とおおおぉぉぉ~~~ちゃあああぁぁぁ~~~っく、ここが、ソルボンヌ傍のクリュニーな。ここってローマ時代の遺跡で、中世博物館なんだよ」
「ローマなだけに、浪漫がある場所っすね。それに、ソルボンヌ蕎麦って美味いんっすか」
雷太は、蕎麦を啜るような仕草をして見せてきた。
「…………」
哲人は、一言も発さずに入場券売り場に向かっていった。
「ちょ、ちょっと待ってください。いけずっすよ、ムッシュゥゥゥ~~~」
それから、クリュニー博物館に入った師弟コンビは、照明が落とされている円形の展示室に至った。
「これがこの博物館の目玉の『貴婦人と一角獣』だよ」
この展示室の照明が暗いのは、このタペストリーを守るためなのである。
「ムッシュー、『ガンダム・ユニコーン』で、コレ、観ましたっ! 自分、こ、興奮っす」
雷太は、肘を直角にして、両腕を何度も何度も上下に振っていた。
「このタペストリーは十五世紀末のもので、パリで下絵が描かれ、フランドルで織られたんだよ。日本でも二〇一三年に展覧会があったんだぜ」
「自分、高校生の時、観に行ったっす」
「この六枚のタペストリーには、若い貴婦人に連れ添うユニコーンが描かれていて、それぞれ、人間の五感を象徴しているんだ。左から、触覚、味覚、嗅覚、聴覚、視覚になっているんだ」
他に鑑賞者がいなかったので、哲人は、ここで、講義を始めてしまった。
「〈触覚〉では、貴婦人はユニコーンの角に触れているだろ。
そして、〈味覚〉では、貴婦人は、侍女が差し出す盆の中の飴を手に取っていて、その足元では、そこからこぼれ落ちた飴を猿が食べているんだ。
〈嗅覚〉では、貴婦人に、侍女が花が入った籠を差し出している。その花の香りを猿が嗅いでいるよな。
この〈聴覚〉では、貴婦人は、小型のオルガンを弾いていて、おそらく、ユニコーンだけではなく、周囲の動物たちもオルガンの音を聴いているみたいだろ?
〈視覚〉では、貴婦人は手に鏡を持っていて、その鏡にユニコーンが映っているのが分かるか?」
「なるほど。でも、ムッシュー、一枚、多いっすよ。しかも、これだけでっかい」
「最後のは、謎多き一枚なんだよね。サンダー、六枚目の中央にある、青色のテント上の金色のフランス語を読んでみな」
「えっと……、ア・モン・スール・デジール(À mon seul désir)……、これ基本単語ばっかりっすね。自分にも意味わかるっす。『我が唯一の望みへ』」
「この六番目は、一般的には、〈理解〉や〈愛〉って解釈されているんだけどな」
「でも、ムッシュー、この六枚目は第六感で、観た人が、その〈直感〉で、それぞれ独自に自由に解釈しろってことじゃないっすかね?」
「おっ! なるほど、〈直感〉か……、お前、時々、センス良いこと言うね」
その後、二人の後に他の見学者が入ってこなかったので、雷太は、『貴婦人と一角獣』のタペストリーを、心ゆくまで鑑賞したのであった。
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