第十話 奇跡


 暑気をまだまだ感じる秋の候。でも風は涼しくなってきたなと思いながら、あたしはお昼休みに校庭をぶらぶら。浮けない程度の軽い身で色んなものをのぞき見た。

 猫の足跡、忘れられたラインカー、お空を覆ういわし雲。どれもこれもが面白くって、あたしの中に巣くう痛みを大いに忘れさせてくれる。

 でも、それでも消えきらない胸元の疼痛が、やっぱりちょっと辛い。


「うーん。今日はちょっと調子が良くないなあ」


 思わずあたしもそう零してしまう。素晴らしく完成された自然の中で、脈打つことにすら難儀する出来損ないは不似合だろう。

 遠景として輝く年似通った彼彼女ら笑みがからからと、あたしに届いて耳朶を打つ。あの壮健に交じれないことは、残念だ。

 でも、だからこそあたしはあたしを慰めるために美しい皆を求めるのだった。そうして一人端っこでとぼとぼ歩いていたところで出会ったのが葵だったっけ。


「ま、そう考えるとあたしがこんなのでも良かったのかもね」


 あたしにとって、葵との思い出こそがあたしを慰める一番のものだ。彼女亡き今を生き続けられている、その一番の理由と言ってもいいだろう。

 こんなあたしだからこそ葵と仲良くなれたのだとしたら、この痛みこそ愛おしいものに違いないのだ。

 そして、あたしに生きてとあの子は言っていた。ならば、醜くともあたしはこれからも生き続けなければならないのだろう。


「太陽、きれい」


 胸の奥の鉛のような重みを空気とともに嚥下するためにあたしはまた綺麗なものを見つける。

 雲の合間から光のラインを描く光芒は、正しく天使の梯子。美しい太陽の芸術。あたしはそれを、都合のいいお迎えとまでは思えない。

 そういえば、あたしが息をするのも辛いよと言ったら、菊子おばさんがそりゃあんた地獄だねと言ったことがあった。

 あたしには息をするのが平気な人の気持ちは分からない。けれども、そんなあたしが今も地獄の中というのは違うと思うのだ。


「だって、あたしはこんなに幸せだもの」


 あたしは微笑んで、断言する。歯の浮くようなセリフをふわふわと。でも、それに間違いないと信じながら。

 四苦八苦に歯を食いしばる時間が長くても、それでもあたしは優しい人の中で安堵出来ている。それが、どれだけ嬉しいことか。

 光の中の温とく輝く当たり前。あたしには、普通というものが殊更嬉しいもので。


「そういえば、去年のこんな時期だったっけ……葵があたしに奇跡が起きて欲しくはないかって、聞いたのは。あの時は欲しくないって返しちゃったけど、今もそれは同じかな」


 だから、あたしは彼女の言う奇跡を望まなかったのだった。あのときくらいだっけ、葵があんなに驚いた顔をしていたのは。

 あの日の葵の言葉の真意を、未だに私は理解できていない。あたしにとっては、彼女と出会えたことこそが奇跡だったのだけれど。


「ただ寂しい、な」


 今のあたしは辛くて、幸せ。でも少し寒いとも思った。

 独りでは決してない大勢の中でただちょっと、遠い。それだけなのに。

 あたしは、自分でも嫌な風に笑ってみる。そのまま言葉なくぼうっとしていると。


「百合」

「わっ!」


 そんなつまらないあたしを、彼女が抱き竦めた。びっくりするあたしを直ぐ隣から悲しそうに見つめて、少し震えながらふようさんは呟く。


「……貴女は、痛みも愛してしまっているの?」


 どこからどこまで聞いていたのだろう、彼女はそんなことを言うけれど、あたしは頭を振る。


「そんなことないよ。でも……」

「でも?」

「こんな辛いことはなかったことにしたくないな」

「そう……」


 あたしにタイムマシンは要らない。痛みは生きることに似ていると、あたしは思うのだ。あたしが負ってきた、辛いそれは失くしたくないもののひとつ。


「奇跡、かぁ」


 そして再び一年前を思い出す。

 ふようさんの質問と似たようにあの日の葵は、匙を投げたお医者さんがと似ているとまで称したあたしの病が奇跡的になくなってしまえばいい、とそんなニュアンスの話をしていた。

 でも、あの時あたしは既に、不治の病とされた命にだけは中々届かないこの病気と一生付き合う覚悟を決めていたのだ。だから、あたしは奇跡なんて凄いものは他の人に起きて欲しいと思って断っていたのだけれど。

 でも、葵は違ったみたいだった。あの時の驚愕の表情は、かもしたら己の全てを否定された時にするようなもののようですらあったのだ。


「どうして、葵は奇跡って言葉にあんなに拘ってたんだろう」


 そんな面白くもない独り言は、風に飛ばされて消える。そのはずだった。


「……知りたい?」


 しかし、博覧強記で更にその発展を空想し続けた彼女にあたしのそら言は聞き流せるものではなかったみたいだ。

 何時もの無表情を少し困らせて、ふようさんはあたしにそう尋ねる。


「うん」


 真剣な彼女にあたしはこっくりと頷くのだった。




「……これから話すのは私の空想。そしてきっと、この世で一番真実に近い妄想でもあると、思ってる」

「えっと……?」

「簡単に言えば、これから私は信じ難いことを話すから。……百合にはそれを聞いて欲しい」

「うん。分かった」


 頷く百合に優しく微笑んでから、ふようはどこから話し出そうか考える。

 そして、鋭く傷つけてしまっても結論から切り出そうか、なんて血迷ってみたが、直ぐに気を取り直して丁寧に普通の最初から彼女は始めた。


「……私は、葵が死にかけの猫を手をかざす行動だけで癒やした姿を目撃したことがある」

「え? そんな……魔法みたいなこと、ホント?」

「間違いない。……直に私が葵に問い詰めたところ、彼女は『手当て』をしてあげたのだという独特な言い回しでその他者に働きかける奇跡的な治癒力を認めていた」

「凄い……そんなの葵、あたしに言ってなかったけど……」

「……自分が力持ちであることなんて言いふらすことではないと、葵は知っていたのだと思う」

「へぇ……」


 きらきらと、大粒の瞳は今は亡き彼女の知らない面に興味に輝く。話の調子に合わせてタクトのように動くふようの指先に、百合は釘付けだ。

 しかし、なるほどと驚くばかりで疑問を抱かない、そんな少女の無垢にふようは組みやすさを感じながらも強い不安を抱く。

 百合は真剣なふようの瞳をまるきり信じる。それは、友達を疑わないからではなく、間違っていたとして信じて痛い思いをするのは自分だからと呑み込んでしまうからだ。

 少しそのことを痛ましく思いながら、続ける。


「百合は、信じるんだね。でも私は簡単にはそれを信じられなかった。だから……」

「だから?」

「……葵の前で指先を切ってみた。そして、本当に力があるなら治してと言った」

「えー……」


 指先から血をたらたらさせながら治してと迫るふようを想像し、げっそり。自分を大事にしないそんな行動に、百合は気持ちを引かせる。

 一番自分を大切にしていない貴女が引くのかと思いながら、だが特に気にもせずにふようは続けた。


「……そうしたら、葵は笑いもせずにこう返した。――――この奇跡の力は命と交換するモノだから、そう簡単には使ってあげられないよ、と」

「ふぁー……なんか、凄いねえ。等価交換っていうのかな? そこまで言うなら本当なんだ!」

「私も彼女の表情からそれを誤魔化しではないと判断した。……そして泣く泣く、裂けた指先は絆創膏にて処理することになった」

「あ、それがあったね……大丈夫だった?」

「指を噛み切ったのは……二年より前のこと。それに化膿もせずに完治したから、大丈夫。ほら」

「あはは。綺麗な指先だー!」


 ふようの妄言地味た言葉を当たり前のように呑み込んで、会話に日常を織り交ぜる百合。そのどうしようもなさを、最近かけるようになった眼鏡の奥から彼女は満足げに望んだ。

 年頃の少女はロマンこそを信じる。信じがたい信じたいものを愛することだってあった。

 そして、大好きが実は物凄かったと言われたら、嬉しくなってしまうものでもある。その言葉が友達のものであるならば、尚更。

 後ろ髪をはらりとなびかせる風一陣。冷たいそれから百合を庇うように動いてから、ふようは続ける。


「……私は以上のことからこう考えている。葵の命が奇跡に換わるのならば、それはそもそも彼女自体が奇跡そのものではないのか、と」

「うーん……なるほど、そうなる、のかな?」

「……ここから、私の想像は飛躍する。奇跡は因果を壊すもの。それは言うなれば結果へと最短に繋げる重り。その効果を自在に出来るというなら、葵という生命の密度は最早、特異点とすら呼べる」

「うむむむむ……なんだかあたしには分かんなくなってきたー!」


 それは賢くなりきれなかった、頭でっかちにお得意の空想の吐露。白いノートに認めて満足すべきそれを、友人に当てはめて悦に入るふようは、おかしい。

 だが、それも彼女には当たり前のことなのだった。何しろ、奇跡という意味不明をどうにか理解しなければ、ふようはそれに怯えるばかりになっていただろうから。

 恐怖を克己するために必死に紡ぎあげられた理屈。小難しいが連ねられるそれに、百合はたじたじになった。オーバーヒートした頭に触れかね、頬を押さえた彼女はその小さな手で紅いほっぺをむにむにとこねだす。

 そんな愛おしいものを目の前にして、しかしふようは心動かし切ることなく、勝手にも結論付けるのだった。


「つまり――――水野葵はきっと、この世界の主要人物だった。或いは彼女自体が主人公のシノニムであったのかもしれない」

「主人、公?」

「……そう。おそらく葵は

「えっと……」


 意味が分からない様子の百合に向けて、ふようはおもむろに開いた手を差し出して、ぐーぱー。そうしてから、続ける。


「このように手を動かすには、私という主体が必要。似たように……奇跡的なほどに意味がある、そんなあの子を通じてナニカがこちらを観ていたとしても、私にはなんら不思議とは思えない」

「ふぁー……つまり葵には神様の力があったってことなのかなあ」

「……惜しい。神のような何かに通じる力を持っていたからこその、主人公なのだろうと私は考えている。経過観察の記憶から察するに神はきっと観ているだけか……或いは影響選択肢を与える程度でしかない」

「神様でも、好き勝手は出来ないんだ」

「きっと、それくらいに距離……いいや、スケール《次元》が違うのだと思う」


 誰知らず、淡々と語るふようの話の内容は、この世の真実に近寄って行く。そう、それこそここがゲームのような世界であるということに、気づきかねない距離にまで。

 ふようはプレイヤーを知らない。しかし、奇跡というものの存在は知っていた。そこからの逆算。

 天才ではないが、凡愚でもないふようはなればこそ、空想を重ねて迫真に至る。未知への恐怖は世界を侵略して、そこまで認識を届かせていた。


「ふぅ……」


 間隙。少し言い難そうにするふよう。ため息を一つ吐いてから、彼女は今まで誰もが触れてこなかった域へと言葉を続けていく。


「……しかし、主人公は死んだ」

「っ!」


 その遠慮のない言葉に思わず、息を呑む百合。痛みにあえぐ矮躯が、治癒しきっていない心の罅が軋むのを覚えた。


 そう、いくら語ろうとも水野葵は死んでいる。百合とのデートの最中、唐突に血を吐いて亡くなったのだ。それを、泣き続けた百合はよく知っていた。

 そして、あまりに突然のこと故に事件性すら疑われ、行われた検死の結果だって貴女は葵の一番のお友達だからと親族に教えて貰ったことから、百合は知っていたのだ。

 死因は、内臓の異常な衰弱。極度の老いの衰えにすら似ていると言われた謎のそれ。認めたくなかったその死にまつわる全てが百合の頭の中を駆け巡る。


「うぅ……」


 思わず顔を真っ白にして、俯く百合。愛する人の血に触れたあの感触。必死に助けようとしてもどうしようもなかった記憶。そんな全てがフラッシュバックして、彼女を責め立てる。

 そんな彼女に、酷く冷静にふようは声をかけた。愛しているからこそ、彼女の周囲が理解に寄って明るくって欲しいと思い、残酷にも。

 押し付けがましく、ふようは蜘蛛の糸を垂らすのだった。


「あの死は、命というものを使い切ったと思えば理解できなくはない。つまり……私は、葵が対価を賭けたのだと思っている」

「……命を?」


 縋るように、見上げる小さな彼女の瞳を認めぬように瞳を閉じて、ふようは暗闇の中に還る。

 そして、真っ暗な中に、確かに肌に感じる世界を覚えて、結論付けるのだった。



「……バッドエンドの先に、なにもないと私は思えない。――――奇跡は既に、起きている」



 再び、綺麗なばかりの硝子の瞳を開くふよう。彼女には、百合が呆然としている姿が映った。

 確信持った妄想語りを真に受けて、それでショックを受けている彼女。それに、ふようは何か言葉をかけようとする。だがその前に、薄い桜色の唇が花開いて、オウム返しに言った。


「奇跡……」

「……そう。……私はね、葵がただ台無しになったとは、とても思えないんだ」

「奇跡が残って……なら、葵の意志は続いてる……?」


 言葉の弦に惑わされ、そうしてどうしようもなく彼女の認識はメタになる。それこそ、こんてぃにゅーという真実のほど近くまで。

 やがて少女は蜘蛛の糸を見つけて、掴んだ。そして、きっと百合はこんなにも迂遠な元気づけをしてくれた友達を見返して、新たに方針を発表しようとする。


「ならあたしは……ん?」


 その時、がさりと彼女らの後ろで茂みが動いた。


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