第27話 虚無感
朝食後にリチャードが入れてくれたコーヒーを手に、ソファーに座り直した。
「アガサは、俺が前に付き合っていた女性だ」
聞きたくない一番最悪なパターンだった。前にお世話になった人だの、ホームワークを見せ合った仲だの学生らしいエピソードが飛び出してほしかった。
「それと君が会った女性は、アガサじゃない。アガサの親友だ。俺と彼女の面識はそれほどないが、アガサの名前を出せば俺から連絡がくると思ったんだろう。身体と心の不調が続いて、家と病院を行ったりきたりしているらしい。風の噂で聞いた程度だったが、噂は本当だったようだ。君にも来てほしいといったが、俺への付き添いでだ。俺のわがままだ」
「一緒に行きます」
「……ありがとう」
僕を抱きしめる手が震えていた。元恋人に会いに行くだけではないと直感した。彼にも乗り越えなければならない山がある。
全部終わったら話す、とリチャードは小声で言うと、僕からコーヒーカップを奪ってテーブルに置いた。
車の窓から見える景色は見慣れたものでも、気分が違うだけで見え方がこうも変わる。
最近は幸せそうに歩く男女を見ても何とも思わなかったのに、あれが人間本来の姿だと、胸が痛い。子供を生む生殖器を考えても、生物的にも何ら反したことはしていない。
もし、リチャードが元彼女とずっと一緒にいたのなら。結婚して子供が生まれて幸せな家庭になれただろうか。
別れた原因は聞いていないが、リチャードの性格を考えると浮気とは思えない。学生には乗り越えられない何かが起き、愛する二人を引き裂いた。この方がしっくりくる。
「何を考えている?」
ちょっと怒ったような口調なものだから、僕は運転席を向いた
「今外にいた人、見ていただろう?」
「え?」
慌てて外を見てみると、リチャードの髪色に似た男性が散歩中の犬と戯れている。一言で言うなら、ハンサム。
「俺を見てくれないと、不安になる」
「リチャードがそんなことを言うなんて」
「本当さ。君は魅力的だから」
安全運転を心がけているアメリカを守るヒーローは、嫉妬を隠さない。かわいい。和む。
病院に到着すると、僕はロビーで待つことになった。
彼が面会の予約を取っていると、先日アガサと名乗った女性が座っている。
目が合い、自分から声をかけた。
「アガサさんじゃなかったんですね」
「え?」
大きな疑問の声は、僕の質問に対してではないと感じた。
「やっぱりあなたが恋人だったの? リチャードが恋人と一緒に来るっていうから……いつからバイになったのよ。信じらんない」
咎める言い方に、心が痛む。リチャードは元々女性が好きだった。彼を知る人からすれば、僕がたぶらかしたと捉えるだろう。
「騙すつもりじゃなかったのよ。アガサの名前を出せば、リチャードは絶対に反応してくれるって分かってたから」
この前はディックと呼んでいたが、今はリチャードだ。ディックと呼んでいるのはアガサで、彼女はそれほど親しい間柄ではないようだ。
「どこまで聞いてるの?」
「アガサさんと付き合ってたってことです」
「本当にね、誰もが羨むほど美男美女のカップルだったのよ。いろいろあって別れることになって、卒業してからはみんなリチャードと音信不通になった。リチャードは電話番号も変えたみたいだし、誰も彼と連絡を取り合う人がいなかったのよ」
彼はFBIに入るために、築き上げたものを過去に置いてきたのだろう。
尊敬もするし、寂しくもある。孤独と夢は常に肩を組んでいて、どちらか片方が崩れてもきっと遠のいた。孤独は覚悟の表れだ。同時に、今は独りぼっちと感じていやしないかと不安にもなる。
「リチャードとたまたま会って、連絡を取るしかないって思った」
「もしかして、ピザ屋の件はあなたですか?」
「……ごめんなさいね」
ピザ屋を利用して、誰が住んでいるのか確認をした。リチャードに報告すれば良かった。
「王子様みたいで、誰にでも優しくて、本当に素敵な人だった」
友達の元彼氏を褒めるには、話が大きい。もしかして彼女も……といらない妄想が膨らんでいく。
「リチャードとどこで知り合ったの?」
「彼の弟と仲がいいので」
尋問されているみたいだったが、隠すことでもないので簡潔に答えた。
自分から話しかけないでいると、彼女ももう話さなくなった。
話したところで僕の愛は変わらないし、彼からの想いも変わらないと信じたい。
「どうして……男の人だったんだろう」
差別主義者か判断つかないが、『ナオ』という一個人が付き合っているのが気にくわない、または男だから納得できない。はたまたリチャードと付き合う人間はみな許したくない。どれかであっても、ぶつけられては言い返さなくてはならない。
「僕だけが選んでも恋人になれません。相手も僕を選んでくれないと。昔とは違い、好みも変わるし考えも変わる。僕は彼に出会えてよかったと思ってますし、結婚したいとも考えています。別れるつもりはありません」
「私は、昔を思い出してアガサともう一度仲良くしてほしいのよ。恋人じゃなくてもいい。アガサに笑顔が戻ってほしいだけ。彼女は私の親友だから」
僕にも親友がいる。親友のために、ピザ屋を利用して中に誰かいるか確認したりするだろうか。
できないし、やれるはずがない。僕がセシルの立場でも、なぜそんな犯罪すれすれ行為をしたのかと咎めるだろう。
「ナオ、待たせてすまないね」
「リチャード……」
「さあ、帰ろうか」
表情からは何も感じ取れず、少し怖い。アガサと何を話してきたの、元恋人のことはどう思っているの、僕とはどうなるの。山積みになった瓦礫はさっさとなくなってほしいのに。
「世話になった」
「アガサと何を話したの?」
「それはアガサ本人から聞いてほしい。それと、この件に関してはナオは関係ない」
仕事の義務のように、彼はきっぱりと告げる。
「俺は二度とここには来ない。来るべきじゃない」
「でもアガサはあなたに会いたがってる」
「そうか? そうは見えなかった。本当の目的は、他にあったんじゃないか? 俺は優しい人間じゃない。本心を隠して言わないのが、優しく見えるならそれは優しさじゃない。秘密主義っていうんだ。心からアガサを親友だと思うなら、解放すべきだ」
ロビーの受付から覗く目はさっさと帰れと告げている。どうしようかとリチャードを二度見すると、彼は小さく頷いた。
「久しぶりに会えて嬉しかったよ。小さな同窓会みたいだった」
「……分かっていて、リチャードはとても残酷な人」
「ありがとう」
僕が思っていたのとはまるで違う、さようならもまたもない、あっさりした別れだった。
車に乗る直前、外の病室から誰かがこちらを見ていた。
長い髪を一つにまとめ、首筋は痛々しいほど細い。
彼女は笑い、こちらに向かって手を振った。
車に乗ってもリチャードは話さず、僕はぼんやり外の風景を眺めた。行きとも帰りとも違う、またもや違う風景に見えた。
腹の虫がくう、と小さく鳴る。
「お腹空きません? ドーナツでも作りましょうか」
食べたかったのは本当で、声をかけるとようやくリチャードは顔の筋肉をほぐした。
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