第5話 非日常

 十時を過ぎた頃、そろそろお開きにしようと言うハリーの声に立ち上がった。

 ナオは先に部屋に戻り、熱いシャワーを浴びる。シャワールームから出ると、戻っていたセシルは大の字になって眠っていた。

「……お酒くさい」

 この分だと明日も寝坊だろう。ナオは隣に潜り込み、猫のように小さくなって目を閉じた。

 一度気になってしまえばなかなか寝付けない。

 風が木を煽り、雨もガラスを叩く。バーベキューをした昼間が嘘のようだった。

 時計を見ると、少し眠っていたのか三時を過ぎている。

 一度トイレに起きてベッドに戻ろうとしたとき、廊下から誰かの足音がした。

 ナオは恐がりながらも好奇心が勝り、ドアに隙間を作ってみる。

 パジャマを着ていて髪型も昼間と異なるが、アビゲイルだった。ナオはこっそりと音を立てずにドアを閉めた。

 彼女はなぜこんな夜中に出歩いているのだろう。気にはなるが、声をかける気にもならず、ナオはベッドに入った。

 数分後にはまた眠りについていて、起きたのは七時を過ぎた頃だ。

「んっ…………」

 外の天気はまだ風が強い。雨も一向に止む様子もなく、今日は中で映画かビリヤードもいいかもしれない。

 隣で寝ているセシルは、少しも起きる様子がない。布団をかけ直してやり、身支度を整えたナオはひとりで廊下に出た。

「……………………?」

 なんだか鼻につく臭いがした気がしたが、階段付近まで行くと甘い香りがしてきたのですぐにかき消された。

 食堂では、ステラがオーブンを見ている。

「おはようございます」

「ナオ様、おはようございます。お早いですね」

「まだみんな起きていないんですか?」

「リチャード様は一度顔を出しましたよ。先に食堂でコーヒーを召し上がっています。ナオ様の分もすぐにお持ちしますね」

「ありがとうございます。良い香りですね」

「ケーキの生地は作ったのですが、フルーツが足りなくて困っていたんです。この天気ですと買いに行けませんし、急遽ドライフルーツ入りのパウンドケーキに変えることにしました。リチャード様が買いに行こうとしてくれましたが……山で土砂崩れが起きる可能性もありますし」

「そうだったんですか。確かにこの天気だと外に出るだけで怪我しそうです。何が飛んでくるのか分からないし」

 挨拶を済ませたナオは食堂へ行くと、ハリーが食べ終わったばかりで席を立とうとしていた。リチャードは何か本を読んでいる。

「………………あ」

「やあ、おはよう」

 半笑いのリチャードの手から本を取り上げようとすると、反射神経は彼の方が何倍も上だった。

「な、なん、どうして、」

「セシルから借りたんだ」

「待って、待って、」

「まだ途中だから最後まで読んだら感想言うよ」

 見間違うはずもなく、ナオの書いた本だ。

 この本はナオの過去の想い出を主人公に投影させて書いたものだ。よりによって一番読まれたくない人の手に渡ってしまった。

「まだ最初だけど、読みやすい文章で好きだよ」

 好き。言われたのはナオ自身ではなく、文章だ。分かってはいるのに、頭をかきむしりたい衝動に襲われる。

「君がこんな才能を持ってるなんて、知らなかった」

「ありがとうございます……。リチャードも、法学部をたったの四年で卒業したって聞きました。勉強の才能があるのは、すごいことだと思います」

 リチャードは何か言いたげに目を細めるが、ちょうどステラが朝食を運んできたところだった。

 サニーサイドアップの目玉焼きが二つにカリカリのベーコン、それとワッフル。

「先に食べていようか」

「はい。セシルは多分、昼間で寝てますし」

「あいつはいつも寝坊だな」

 蜂蜜をかけたワッフルと塩味の強いベーコンを一緒に食べるリチャードをまねて、ナオも同じように口に入れた。

 癖になるようなならないような、微妙だが不味くはない。

 変な顔をしていたせいか、リチャードは声を上げて笑う。

「普段の食事が簡単に食べられるようなものが多いんだ。ハンバーガーとか、ホットドッグとか。皿に乗った食事自体、取ることが少ない」

「休憩も取れないほど忙しいんですか?」

「そういうときもある。でも本当はしっかりしたくて、休みの日くらいは手の込んだものが食べたくなる」

「作ったりします?」

「……努力はしている」

「努力の結果はちゃんと見えています。昨日のスモアもすごく美味しかったです」

「忘れてくれ……」

 初めて見たリチャードの照れた顔に、ナオは胸が張り裂けそうになった。

 ナオは持ってはいけない感情を隠すために、食後のコーヒーはあえて苦めでミルクも入れずに飲んだ。効果があるのか分からないが、落ち着いて目を見て話ができた。

 分かったことは、リチャードは一人暮らしだということ。彼女がいるのかは聞き出せないが、こんなに魅力的な人なのだから女性が放っておかないだろう。

 コーヒーを飲み終えそうな頃、アビゲイルとリンダが入ってきた。

「おはようございます」

「おはよう、眠れた?」

「はい」

 リンダは愛想良く答えた。アビゲイルはリチャードを見つけると隣に腰掛け、持たれかかるような仕草をする。

「君たちはまだ朝食を食べていないだろう?」

「あなたは食べたの?」

「ああ。ついさっきね。君たちも早く食べるといい」

 リチャードは立ち上がって、ナオを一瞥する。慌ててナオも席を立った。

 リビングまで戻ると、リチャードは大きく息を吐いてソファーに座る。ナオはどうしようかおどおどしていると、リチャードが隣を叩いたので横に腰を下ろす。

「学生時代からモテモテだったと、セシルから聞いてます。誕生日になると山ほどプレゼントを抱えてきたって」

「過去の話だよ。今は全然。……君は?」

「僕はモテませんよ。見ての通り」

「そうじゃなくて、もし俺に…………」

 青い瞳がナオを映す。吸い込まれそうになるが、階段の足音でナオは引き戻され、ほんの少し距離を空けた。

 起きてきたのはロイドだった。リビングを見回し、ふたりに気づくとイーサンを知らないか、と尋ねた。

 イーサンの名前を出され、ナオは反射的に身構えた。

「イーサン? 見ていないが……部屋にいなかったのか?」

「ああ。食堂で飯食ってんのかな」

「いや、食堂にはアビゲイルとリンダしかいない。食堂へ行くまでは、必ずリビングを通らなければならないが、俺たちは食堂からここまで直行して、それから誰にも会っていない」

 事務的にリチャードは答える。

「そうか。なら先に飯でも食ってるかな」

「ずっと部屋に戻ってきていないのか?」

「俺も二十分くらい前に起きたばっかりなんだよ。トイレかと思ったらいねえし、食堂かと思ったんだが」

「外はこの天気だ。出ていったとは考えにくい」

 リチャードは立つと、隣のナオもソファーから腰を上げる。

 念のため食堂まで戻るが、やはりいない。アビゲイルとリンダが食事をしているだけだった。

「どうしたの?」

 アビゲイルが聞くと、

「イーサン見なかったか?」

「ううん、昨日の夜からずっとリンダと一緒よ」

「あいつどこに行ったんだ……」

「車に忘れ物があって取りに行ったとか?」

「この天気でか? しかももう三十分以上見てないんだぜ」

「じゃあシアタールームとか? 今日は映画観るとか言ってたし」

 リンダは話には加わらず、おとなしくコーヒーを飲んでいる。

 リチャードは一歩離れたところから、彼らの会話に耳を傾けていた。

「まあいいか。腹減ったら出てくるだろ」

 イーサンは頭をかきながら席に着くと、ステラが彼の分の朝食を運んできた。

 リチャードが食堂を出ようとするので、ナオも後ろをついていく。

 階段上からわんわんと、犬の鳴き声がした。オリバーがおとなしく座り、舌を出して下りてきた。

「おはよう。いい子だね。昨日はどこにいたの?」

「多分、三階だろう。犬嫌いな人もいるから、別荘の中とはいえ放し飼いにはしていないんだ。この天気だから外へも連れていけないし」

 オリバーはセシルには冷たかったのに、リチャードを見るなり頭を撫でろと要求が始まった。ついでにお腹まで出し、ナオにもじゃれつく。

「遊んでくれる人を探してたのかな」

 オリバーは耳を動かすと立ち上がり、カーペットの上を歩いていく。ついて来ないと分かると、後ろを向いて立ち止まる。

「呼んでるみたいだな」

「ですね」

 オリバーはとある部屋の前で止まる。尻尾は下げ、上目遣いで小さく鳴いた。

 隣のドアが開くと、しっかり着替えはしているのに寝癖をつけたままのセシルが出てきた。

「おはよー……どうしたの?」

「寝坊助、イーサン見なかったか?」

「イーサン? さあ……今起きたところだし」

「ここは誰の部屋?」

「ナオの部屋じゃん」

 正確には、ナオだった部屋だ。鍵が壊れていたため、今は隣のセシルの部屋に居候している。

 ナオはドアノブを掴むと、ゆっくりと回した。

 虫の知らせというほどではないが、なんとなく嫌な予感がした。血液を流れる音がこめかみの辺りに響き、心臓が警鐘を鳴らし、手に細かな振動が起こる。

 夢であればどれほどよかったか。映画でしか観たことのない異様で言葉に言い表せない光景に、ナオは一瞬言葉を失った。

 後ろにいたセシルの叫び声に反応したのはリチャードだった。ドアを開け、素早く横の二人を振り返る。

「見るな!」

 リチャードは中へ入って行こうとするオリバーを押さえ、紐をナオに渡す。

「いいか? ゆっくりと後ろを振り返るんだ」

「は、はい…………」

「怯えなくていい。俺がついている」

 なんと頼もしい言葉だろう。ナオは口元を押さえながら、目を瞑って後ろを向く。

「セシル、お前はクラーク医師を呼んできてくれ」

「えっと……でも部屋が……」

「三階の三〇一号室だ」

「分かった…………」

「ナオはそのままでオリバーを見ていてくれ」

「分かりました…………」

 瞼を閉じていても、一度焼きついた残像は残ったままで、おまけに血の臭いは鼻にこびりつき胃に直撃を受ける。

 オリバーは悲しげな声を出し、ナオの隣に座った。

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