第2話 むき出しの初恋

「あれ?」

 部屋に入ってすぐに鍵をかけようとしたのだが、何度やっても金属音がするだけでうまく施錠できなかった。

 隣のセシルの部屋に行きドアを叩いた。

「どうかした?」

「うん……ちょっと困ったことがあって」

 セシルにも確認してもらうが、やはり言うことは同じで「壊れてるね」。

「だよね? 僕の勘違いじゃないよね?」

「ここが横にさっと動くはずなんだ。錆びてるのかも」

「どうしよう」

「何かあった?」

 怯えているナオに、セシルは優しく肩に手を置く。

 先ほどまでのやりとりを、大まかに説明した。もちろん、セシルへの暴言はすべて避けて。

 案の定セシルは怒り、下に行くと言い出したが必死に止めた。

「大丈夫だよ。軽口程度にしか思ってないし。さすがに怖かったけど、実行には移さないと思う」

「それなら、俺の部屋に来る?」

「一緒に? 僕はその方が有り難いけど……いいの?」

 ナオは自分の性癖をセシルに話している。ゲイだと打ち明けても、一切友情が壊れなかったただ一人の友人だ。

「全然! つーかナオを一人にする方が怖いし」

「うん……ありがとう」

 リュックとスーツケースをセシルの部屋に移しながら、お礼というほどではないが、セシルの荷物整理も手伝う。セシルは細かなところを気にする大雑把だ。服はハンガーからずれていたりするわりには、ラックにかける順番が決まっていたりする。

 セシルは一度下に降りていくと、クッキー皿とコーヒーカップを持ってきた。

「やっぱり部屋で食べよう。あいつらまだリビングにいるし」

「大人たちはどこに行ったんだろ?」

「映画観たり温泉だって。あとで入る?」

「僕はシャワーにしておく。ここのもちょっと使いづらいけど」

「父さんの知り合いの建築家がデザインしたものなんだ。ガラス張りって開放的で、同じ部屋でも壁にするより広く感じるんだって。気になるならカーテン閉めておけばいいよ」

 ガラス張りは魅力的だが、やはり抵抗がある。美しいが、同時に直視できないほどの恥ずかしさで地団駄を踏みたくなる。

「子供の頃、騒いで大人に静かにしろって怒られてたなあ」

「ふふ……セシルは遅くまで起きてて昼まで寝坊だもんね」

 懐かしい日々だ。あのときはセシルの親戚と……もうひとりいた。

 ナオの憧れで、ヒーローだった人。今でもふと思い出す。

「ディックも来られれば良かったのに」

 突然初恋の人の名前を言われ、ナオの心臓がおかしな音を立てた。

 全身の毛穴が開き、発汗するほど顔が熱い。ごまかそうと慌ててクッキーに手を伸ばす。ステラお手製のクッキーは、甘さもちょうどよくさくさくだ。

 ディックとは愛称で、本名はリチャード・クロフォード。それとなく話題を出したら、有名な大学の法学部を卒業したらしい。

「誘ってみたの?」

「仕事で忙しいんだって。母さんも仕事だし、夏休みなんてないってさ」

「ふうん」

 セシルの母は弁護士だ。一家揃って雲の上の人で、なぜ仲良くなれたのか不思議なくらいだ。

 初めてリチャードと顔を合わせたのも、ここの別荘だった。セシルからは優秀な兄がいると聞かされていたが、そのときはそれほど興味を持てず話題を流してしまっていた。

 当時大学生で寮に住んでいたリチャードは、別荘に車でやってきた。

 初めて顔を合わせたとき、先ほどのような全身から汗が滝のように流れるほどの緊張と目眩がしたと覚えている。立ちくらみのような目眩ではなく、満たされて息ができなくなるような感覚。間違いなく、あれは初恋だった。

『初めまして。リチャードです。君がナオ?』

『はっはい……』

『日本では漢字を使うんだろう? どういう字?』

 広すぎるリビングで勉強していたところ、後からやってきたリチャードは覗き込み、顔の近さに緊張して手を震わせながら『奈央』とノートに記した。

『奈は優しさを表しています。央は、真ん中……人の輪の中にいるようなイメージです』

『君にぴったりだね』

 顔を真っ赤にしたナオに、リチャードは優しく微笑んだ。

 とにかく存在感があり、芸能人に会ったときのオーラみたいなものに当てられた。一瞬で何もかも奪われてしまったのだ。同時に、自分が女性よりも男性が好きだと知った瞬間でもあった。

「夕食って何時かな? クッキーだけだと足りないんだけど」

「下行ってみる? コーヒーのお礼も言いたいし」

 外側のドアには鍵穴があり、外からも鍵をかけたり開けたりできるようだ。鍵は家主か、あるいはメイドのステラが管理しているのかもしれない。

「まあ、本日は来られないと伺っておりましたわ。お久しぶりですね」

「やあ、久しぶりに家族に会いたくなってね」

 柔らかで低い声を聞いた瞬間、ナオはその場で硬直してしまった。

「ディック! 久しぶりじゃん!」

 セシルは二階から大きく手を振り、兄の名を呼んだ。

 どたどたと大きな音を立てて降りていく弟にリチャードは苦笑いだが、ハイタッチをして久しぶりの再会を喜んでいる。

「メールしたら返事は遅いし、変な時間に返ってくるし」

「ちょっと仕事が立て込んでたんだ。休みがほしいとぼやいたら、上司に初めて夏休みをもらった」

「元気そうで良かったよ」

 家族の再会に出ていくか悩んでいると、リチャードが先に気がついた。

「……おいで」

 甘ったるい優しい声で首を傾げる。

 ナオの心臓が早鐘を慣らしながらも、なんとか階段を下りていった。

「は、初めまして……」

 馬鹿だ、と自身に鞭を打った。

「……俺のこと、覚えていないかな? 前にここで会ったことがあるんだけど」

「あ、あの……覚えています……。その……お久しぶりです……」

「良かった。忘れられたかと思ったよ」

 忘れたことなんて一度もないのに。

 何年かぶりに会ったリチャードは、前に比べて身体が大きくなっていた。スーツ越しでも分かるほど男らしい肉体と、大きくて厚い皮に覆われた手は、さらにたくましさを増していた。

 目を合わさず握手を交わし、ナオは握った手を左手で包み込んだ。

「父さんは?」

「多分、映画かビリヤード」

「了解」

「リチャード様、先にお部屋を案内します」

「ああ、頼む。じゃあ、また後で」

「はいっ…………」

 後ろでは、美貌と存在感に圧倒されている例の大学生たちがいた。開いた口が塞がらないほど、身動きが取れないでいる。

 セシルはお腹が空いたと独り言を言いながら、キッチンへ入っていった。


 夕食だと呼ばれ食堂に行くと、リチャードは父のハリーと談笑していた。

 大学生組とは席が離れていて、ナオはほっとした。

 セシルはハリーの前に座ると、ナオは隣に座るしかない。目の前はリチャードだ。

 なるべく音を立てないようにしながら椅子に腰掛ける。

「やった、チキンだ。俺大好き。ナオも好きだよな?」

「うん……好き」

「お酒は飲める?」

 突然リチャードに話しかけられ、ナオは上擦った声を上げる。

「あまり、得意じゃないです」

「ワインは?」

「……ほとんど飲まないです」

「ならジュースがいいかな? ステラ、何かある?」

「ええ、ジンジャーエールがありますよ」

「あっ俺も飲みたい」

 セシルもワインよりジンジャーエールがほしいと伝える。

 ナオとセシルはジュースで、大人たちはワインで乾杯した。

 チキンは柔らかいし、トマトのスープは野菜がたっぷりで甘みがある。けれどナオはほとんど味が分からなかった。

 いきなり現れた初恋の人が目の前にいて、しかもさらに男らしさが増している。

 柔らかい微笑みで父と話す彼を盗み見していると、リチャードと目が合った。

「美味しいね」

「………………はい」

 しまった、と思うにはもう遅い。

 ぶっきらぼうに目を逸らしてしまい、後悔しか残らない。

 ゲイだと知られ、いい思いはまったくしてこなかったので、ばれやしないかとどうしても保身に走ってしまう。

 ナオが恋愛ができない理由だった。元々控えめな性格も重なり、言い寄られることはあっても首を縦に振れず、タイミングを逃してしまう。

 それに頭を常によぎるのは、初恋のリチャードだ。出会いがあまりに強烈すぎたため、いけないと分かっていてもつい言い寄ってくる人と比べてしまう。

 結局、リチャードとほとんど会話ができずにディナーを終えた。

 ブラウン夫妻は早々に寝ると言い、二階を上がっていく。

「なあなあ、一緒にビリヤードしない?」

 セシルはナオの腕にまとわりつく。

「ごめん、パス。今日は早めに戻るよ」

「そっかあ。じゃあ明日にしようか」

「うん。セシルも運転してくれて疲れてるでしょ? 早めに休もう」

「そうしよっか」

 リビングにいたはずのリチャードがいなくなっていた。

 二階の踊り場でアビゲイルの後ろ姿が見える。むき出しの太股を見ないようにし、階段を上がると、誰かと一緒にいた。

 リチャードだ。アビゲイルはワインを煽るように飲み続けいたせうかふらふらしているが、リチャードはお酒を飲んだとは思えないほどまったく変わらない。

 先にリチャードが気づいて、ナオとセシルに視線を送る。

「ビリヤードはいいのか?」

「話し聞いてたの?」

「吹き抜けだとリビングの話は筒抜けだな」

 そう、筒抜けなのだ。アビゲイルが襲えと言った発言も、汚らしいスラング用語も何もかも。

「じゃあおやすみ。君も早めに寝た方がいい」

 リチャードはふたりに微笑むと、アビゲイルを置いてさっさと一階に行ってしまった。

 後を追うように、アビゲイルも下へ行ってしまう。

「何話してたんだろうね。おかしな組み合わせだなあ」

「さあ……先にシャワー浴びてもいい?」

「いいよ」

 さっさとシャワールームに入って熱いお湯を浴びたい。

 ガラス張りなだけあり、ベッドも机も丸見えだ。セシルがスーツケースをあさっている姿も見える。

 ナオはカーテンを閉め、一気に服を脱いでお湯を浴びた。

 狂わしい何かが身体の内部をおかしくさせる。分かってはいるが、リチャードはゲイではない。万が一すら起こるわけがない。女性と一緒にいるところを目に入ると、過去の出会いすらなかったことになればいいと自棄を繰り返す。

「……大事な想い出なのに」

 閉め切ったドアでは、外にはため息は漏れない。ナオは声を乗せておもいっきり息を吐き、シャワールームを出た。

 入れ違いにセシルがシャワーを浴び、継続的な水の音に眠気を誘われ、ナオは勝てずに瞼を閉じた。

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