第6話

  アーリ達が帰路に着いた時には、日はすでに西の山の向こうに隠れ始めている。この昼と夜の境目の時間は、昼に行動する怪物達が落ち着き始め、夜行性の怪物達が起き始める。


 森の中でオレンジ色の光を放つクリスタルランプの光が、オクトホースが走るのに合わせてゆらゆらと風に靡く炎のように揺れる。怖いほどに静かな森の中、オクトホースの蹄が湿った枯葉を踏みしめる音だけが虚しく響き渡る。

 

 家が見えて来ると彼らの顔に、僅かながらの安堵が見える。忙しい一日の終わりが近づいてきている、そんな安らぎを家が与えてくれる。



 玄関を開けると真っ暗な廊下が彼らを出迎えた。壁のスイッチを上げてライトをつけると、天井に設置された白いクリスタルライトが薄く淡い黄色を含んだ光を放つ。


 右手には二階への階段とバレントの部屋があり、正面突き当たりはトイレと風呂、左はリビングがあった。あまり飾り気のない玄関の木壁には、数枚の写真が額縁に入れて飾られているのみだ。

 

 バレントは自分の荷物を自分の部屋に投げ入れ、リビングへ向かった。

 テーブルと四脚の椅子、ソファーとその前に置かれた背の低いテーブル。木を貼り合わせた床と壁。お世辞にも豪華絢爛とは呼べないが、安心感のある家族の憩いの場ではあった。


「軽めの夕食でいいな?」リビングへ入るなり、バレントは昼よりも皺の寄った顔でそう言った。「明日は朝早くの出発だからな」

 バレントはリビングの奥にあるキッチンへ入り、冷蔵箱の中を掻き回し始めた。


 アーリは柔らかなソファーに飛び込む。

 体の疲れがソファーの綿の中へ染み込んでいく、そんな感覚に身を委ねていると眠気の波が押し寄せてくる。

 

 気が付くと、どこまでも続いている深く暗い森。キンキンとするなにかの甲高い叫び声。

 肌にべったりと張り付く湿気と何者かの視線を感じながら、奥へ奥へと進んでいく。

 恐怖と好奇心が犇めき合う中で、一歩また一歩と前へ出る足が重くなったり軽くなったりと不思議な感覚を繰り返す。


 ふと気づくと手には小さなナイフが握られていて、刃にはべったりと黒くなった血がこびり付いている。なんだか怖くなって後ろを振り返るが、先程通ってきた道とは呼べない道が続いているだけ——。

 後ろで何かの動く気配に視線を戻す。木々の切れ間で何か大きな影が動いている。

 

 声にならない声が喉の奥で悲鳴を上げている。


 十メートル程の巨体に似合わずそれは素早く動く。頭部と思わしき箇所にある赤く丸い瞳がぎょろりとこちらを見たかと思うと、それは人間五人分よりも太い腕を振るって木をなぎ倒す。聞いたこともない破砕音と何か鉄製の物が擦れる音が耳に届くのとほぼ同時に、大きな腕が自分を踏みつぶそうと振り下ろされた。

 動こうとするも足が何かに掴まれているように動かない。咄嗟に全身に力を入れ、それを受け止めようとするも、衝撃が——。


 ……り。

 

「……ーリ」

 聞き慣れた声に意識が引き戻される。

 背中に感じる重みがゆさゆさと自分の体を揺らす。目を瞑ったまま周囲の感覚を探ると、焼かれた香ばしい小麦の匂いとスープのような柔らかい匂いがしている。


 いつの間にか眠ってしまった。そう気づいたアーリはゆっくりと体を動かす。

「うー……」

「夕食ができたぞ、起きるんだ」

  

 瞼を開けると、見慣れたループとバレントの顔がそこにあった。

 悪夢から目覚めた安心感にアーリは胸を撫で下ろす。


「冷める前に食べるぞ」

 バレントはテーブルに並べられたパンとスープに手を伸ばし始めた。ループは皿の中に鼻先を突っ込むようにそれを食している。


 アーリもぼーっとする頭をゆさゆさと揺さぶりながら席についた。

「いただきまーす」

 スプーンでそれを掬うとじっくりと煮込まれたトマトのスープの中に、ハーブでしっかりと下ごしらえされた鹿肉と細かく切られた野菜が入っていた。

 口に入れると少しどろりとしていて、トマトの程よい甘みと酸味が、しっかりとした弾力のあるムムジカ肉を包み込んでいる。

 寝起きの体にもすんなりと受け入れることができ、お腹の中からじんわりと暖かくなる。

 

 バターを塗って焼かれたパンを少しちぎってスープに入れる。口の中に放り込むと、カリカリとした食感とバターのまろやかさが、トマトスープのまた違う表情を引き出してくれる。


「おいしいね、作ってくれてありがとう」

「ああ」バレントはどこか恥ずかしそうに返した。「俺がいない間、アーリが料理を頼むぞ」

「出来るかなぁ……」


 アーリは料理が出来るかどうかというよりも、バレントがいなくなるという事に不安を覚えた。彼女がこの家に来てから一度もバレントがいなかった時はなかったのだ。


「それもハンターの修行だぞ、アーリ。バレントだってお前が小さい頃は料理下手だったからな」

「ああ、俺も練習したんだ」そういうとバレントは席を立ち、キッチンへ歩いていく。「ここにノートがある。俺の試行錯誤や街の料理人から聞いたレシピ達だ」


 バレントはキッチンから四冊の厚表紙の本を持ってきて、アーリの前に置いた。かなり書き込んでいるのだろうか、かなり皺がよって手垢で汚れている。


「困ったらこれを読んで作ればいい」

「うん! やってみる!」

「ああ。後な……」そういうとバレントは席に戻った。「能力の鍛錬と狩猟についてはお前の判断でやっていい。もうアーリも子供じゃない。責任も自分で取れるし、危険を掻い潜る能力も知識もあるはずだ」


「えっと……うん……」


 アーリは自分の世界が急に拓けていく感覚を覚えた。


 それは先ほどの夢で森の中を歩いている時のような未知への恐怖と探究心。子供が初めて親元を離れた時の感覚。そして巣から突き落とされる雛鳥のような気持ち。あらゆる責任という重りが一斉にのしかかってくる。


 戸惑うアーリを見てループはいつも以上に優しく声をかけた。

「私もいるんだ。そう慌てる事もない」

「ああ、それに俺がいないのは三日間くらいだろう。心配するな」

「……うん」


 その日、ベッドに寝そべったアーリはうまく寝付けなかった。先程寝てしまったのもそうだが、なんだか落ち着かなかった。結局眠りについたのは、二時間ほど後であった。


 アーリが翌日の朝に目覚めると、日はすでに明るく外の世界を照らしている。

 階下に降りるとそこはいつも通りコーヒーを啜っているバレントの姿はなかった。


「行っちゃったのか……」

 コーヒーの残り香が残るリビングを後にし、バレントの部屋を覗きに行った。意外と綺麗に片付けられている室内。窓に付けられた淡い青色のカーテンは長年使っているからか少し綻んでいるのが見て取れる。

 壁に掛けられた怪物の角と三人で写った写真、小さい頃に三人共同で完成させたパズルが飾られている。


 しかし、そこにもバレントの姿はなかった。

 大きくため息をつくアーリだが、彼女自身にも自分がなぜこんなに寂しいのか理解が出来ていなかった。

 

 しばらく部屋の前で立っていたアーリの背中をツンツンと冷たい鼻先が突いた。

「あいつならすぐ帰ってくる。朝飯にしよう」ループはその大きな体を翻してリビングへと向かう。「……と言ってもアーリが作るんだがな」


 長年一緒にいるバレントがいなくなって、ループも少なからずの不安を覚えているだろう。だが、そんなことを微塵も感じさせない振る舞いや言動は、少女を日常へと連れ戻してくれた。


「……うん!」

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