☆42☆ 彼女の思案。
深い茶色の艶やかな髪がバラリと広がるベッドの上。その脇には絡まった刺繍糸の残骸が転がっている。美しい色彩の束からそっと引き抜くことができないと、もうどこまでもこんがらがる悪魔の糸。それが刺繍糸である。
「アドリニア、コンバート、きんこうの、きょうかい」
つい先程そんな刺繍糸との訣別を決めたルネは、だいぶ地色の白が少なくなったベッドカバーの上に仰向けに寝転び、紙に書かれた文字を読み上げる。読み上げられたそれらは、ガーダルシアと国境を接する隣国の名とその地名だ。
屋敷にあった古い地図を広げてトリスタンが教えてくれたそこは、ここからいつも乗る辻馬車でなら五日ほどの道のりだった。トリスタンの説明では、車を牽かない馬だけならもう少し早く到着できるらしい。
クリストフに手渡されてから、もう何度も開いて閉じてを繰り返した紙はところどころが破れ、撫でられ続けた文字は滲んでいる。むしろもう紙がなくても諳じられるそれを、それでも彼女は捨てずに大切に持っていた。
いつか会いに行けるかもしれないと思っているというのもあるが、素直にこの紙に手を伸ばせなかったトリスタンのためという方が大きい。そんな彼女の愛して止まない夫は、ここのところ処刑もないのに多忙だった。
夕食を二人でとるために一旦屋敷に戻って来たあとは、再び城に戻って日付が変わるまで帰って来ない。帰ってこない理由は分かっている。聖女だ。
拘束された聖女が大きな鳥籠のような檻に入れて連れ帰られてから、今日で二週間。当日はトリスタンと一緒に屋敷に待機するよう通達があったので、久々に二人でゆっくりと遅めの朝食をとっていたら、離れた大通り地区の方から歓声が上がり、まるで戦の凱旋かお祭りのような騒ぎだった。
国民が魔女と信じる存在の親玉が捕らえられたのだから仕方がないのだろうが、集団で熱病に罹っているようだとトリスタンは嗤っていた。ルネも彼も聖女とやらの容姿をまだ見たことはない。処刑人のトリスタンはともかく、ルネに至っては知ることは一生ないだろう。
ただ夕食時にトリスタンが城で耳にした話を教えてくれた内容では、平民とは思えないようなとても美しい娘だということだった。彼がその話をするときに見せた翳りを、足りない彼女は何故だか好ましく思った。
けれど彼女が捕まったことにより下っ端の魔女が焼かれることはなくなり、トリスタンの負担は減る……はずだったのに。
『処刑までの間は少し帰りが遅くなるかもしれないが、心配しないでくれ。戸締りはしっかりして……できれば、寝ないで待ってくれていると嬉しい』
そう言って笑ったトリスタンの深緑色の切れ長な双眸は、彼のことなら些細な変化も見逃さないルネにはどこか不安げに見えた。だからとてもではないけれど、あの言葉が本当のことではないとルネは感じている。
でも、そのことを口にしてみたことはない。言わないで辛いのがトリスタンなら、言いたくて言えないのもトリスタンだ。そのことをルネが無理矢理暴いたところで彼は喜びも安らぎもしないだろうということは、感覚で生きている彼女にも分かっていた。
どのみちあと一週間後には刑が執行される。そうなればトリスタンの心労も減ることだろう。その前にルネの誕生日も挟んでいるが、流石にその日だけは早く帰ってくると約束してくれた。
――となればあとはあの可愛らしいお願い通り、起きて帰りを待つことが一番の使命ということだ。
「そろそろ、おひるね、しなくちゃ」
彼女はそう言うとベッドの上にあったクッションを二つと、薄手の毛布を一枚を抱えて部屋を出た。今日の昼寝場所は二階の南側にある一室の暖炉の中だ。昼を少し過ぎたこの時間なら、きっとあの部屋の暖炉裏の隠し部屋は程好く暖まっているだろう。
「……ねすぎないように、しないとだめね」
人より少し足りない彼女は、何をするにも全力だった。そう……昼寝ですらも。あわや夕飯の支度に間に合わないかもしれないという危機も、実は一度や二度ではなかったりする。
おかげで夕方には郵便受けに投函されている父親からの手紙も、うっかり回収を忘れそうになったりもした。あれがもしもトリスタンの手に渡っていたらと思うと、今でも背筋に冷たいものを感じるルネだった。
けれど春のポカポカとした廊下を歩くだけで、すでに欠伸を噛み殺している彼女がそれをいつまで憶えていられるのかといえば怪しいもので。案の定そんなルネが大慌てで食事の準備に取りかかったのは、これより四時間後のことだった。
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