☆36☆ 彼女の選択。

 最後に教会を訪ねてからすでに一ヶ月が経ち、その間に約束していたトリスタンの誕生日訪問も流れていた。けれど二人きりの誕生日は例年通りできたので、ルネは残念だとは感じつつもあまり気にはしていなかったのだが――。


 問題は日に日にやつれて口数が減っているトリスタンの体調だった。仕事から戻ってもどこか上の空。くっつこうと近寄ればいつかのようにやんわりと拒絶され、夜眠るときに隣に感じていた温もりも朝までそこにあった気配がない。


 ルネが疑問をそのまま直球で訊ねても、トリスタンは平然と彼女の目を見て嘘をつく。喧嘩をしてみようかと思ったものの、目に見えて弱っている相手にそんな非情なことを言い出せるはずもない。こうなってしまうと少し足りない彼女の手には余ってしまった。


 そんな八方塞がりだった彼女の元に、救いの手が差し伸べられたのは今日のお昼。仕事に向かうトリスタンを見送ったあと、屋敷内の簡単な掃除を終え、表紙の擦りきれた植物図鑑と窓の外を交互に見やっているときに、屋敷門の外に彼等は現れたのだ。


 二人はルネにトリスタンの仕事風景を見学させて欲しいと申し出て、その申し出に彼女は大真面目に頷いた。彼からいつも一人で来てはいけないと言われていたが、三人で行けば怒られないだろうという何とも安直な理由で。


 果たして広場で見たトリスタンの仕事に体調不良を訴えて倒れたマリオンと、そんな彼女を抱き上げて笑うクリストフの隣で、ルネは三人の存在に気付いて驚くトリスタンを真正面から見ることができた。


 広場の狂気も臭いも大嫌いなルネではあったが、その実、広場の中央で背中を真っ直ぐに伸ばして佇むトリスタンを見るのは大好きだと、以前の見学のときに感じていたのだ。


 本当なら仕事が終わるまで待っていたかったところだったものの、ぐったりしてしまったマリオンを休ませなければならないということで、後ろ髪を引かれながらも先に屋敷に帰ったのだが――。


 その後一時間もせずに戻ってきた汗と煤にまみれたトリスタンを抱きしめ、クリストフとトリスタンのちょっとした衝突を経て、ひとまず汚れた夫を風呂場に連行する。


 彼女が髪を洗ってあげると提案したところ、トリスタンに丁重に断られたため、それならば浴室のドアの前で髪を拭こうと待ち構えて驚かれたりと、少々騒がしくしている間にマリオンが起き上がれるようになっていた。


「ええと……それでは改めて、誕生日おめでとうトリスタン。今日は急に訪ねて来て驚かせてしまったね」


「本当にそう思っているのなら、もう少しそのような表情をしてくれ」


「ええ? こんなに申し訳ないという顔をしているのに、酷いな」


 応接間にお茶の準備をして四人で来客用テーブルを囲んだ途端、トリスタンとクリストフの軽口の応酬が始まった。けれど一ヶ月ぶりということと、広場での仕事風景を見られてしまったことで、トリスタンの口調はぎこちなく、声音もどこかよそよそしい。


 テーブルを挟んで線引きをされているらしいということに気付いたルネは、トリスタンとの元から少ない隙間を埋めようと膝を擦り寄せた。ギクリと逃げようとする彼の膝頭に手を載せて、ちゃっかりとその動きを封じることも忘れない。


 朝にはなかった掻きむしったような傷のあるトリスタンの右手の甲に指先を滑らせ、労るようにそうっと撫でると、それまで厳しかった切れ長の瞳がほんの少しだけ和らいだ。


「あの……トリスタンの言う通りできていないわ、クリストフ」


「君までトリスタンの味方をするのかいマリオン? 困ったな、二対一だと旗色が悪い。ルネさんはわたしに味方してくれるかな?」


「ううん、わたしはトリスのみかたしかしないわ。しんぷさまじゃなくても、そうよ。トリスだけのとくべつだから」


「おやおや、三対一になってしまったか。けれど、ルネさんの言う通りそれなら仕方がないね」


 孤立無援になってしまった割にはそう楽しげに笑うクリストフを前に、いよいよトリスタンの表情が困惑の色を深めていく。しかしその右手はしっかりと味方宣言をしたルネの手を握っている。


 ルネが握り返すと、トリスタンは微かに唇の端を持ち上げて笑ったようだった。


「そちらを訪ねるという約束を破ったのはこちらの落ち度だ。手紙の関連は見張られている可能性があるせいで連絡する手立てがなかったとはいえ、無駄な時間と手間を取らせて本当に申し訳ない。そのせいでマリオンにも気分の悪い光景を見せることになってしまった」


 手を握ったままそう言って向かいに座る二人に頭を下げたトリスタンを見て、ルネもそれにならい頭を下げると、向かいに座るクリストフから「待ちなさいトリスタン。早とちりはよくないよ」と声がかけられる。


 頭を下げたまま苦し気な表情をしているトリスタンの代わりに、叱られることには慣れっこなルネが先に顔を上げると、つられるようにしてトリスタンの顔も持ち上がった。


「今日見学したいとルネに頼んだのは私なのよ。貴男が謝ることではないわ。むしろ勝手なことをして貴男を傷付けてしまったのは私達の方だもの。どうしても貴男の状況を知りたかったのよ。ごめんなさい」


 カップから上がる湯気の向こうで不安げに揺れる紅玉の瞳を、トリスタンの切れ長な深緑の瞳が見つめる。真意を探るようなその視線に紅玉の瞳が逸らされる気配はない。


 短い睨み合いの末に先に口を開いたのは、トリスタンの方だった。


「だとしたら――……さっきの魔女狩りを見たのなら分かると思うが、一ヶ月の間に複数人の処刑をしたのは今日だけではない。もうこの国は駄目だ。たった一人を捕らえることに手段を選ばなくなってきている。年内とは言わず、貴男達はできるだけ早く残りの子供達と脱出してくれ」


 そんな疲労と焦燥の滲んだトリスタンの言葉を聞いたところで、不意にパンッと乾いた音が響いた。三人の視線は一気に膝を叩いて音を立てたクリストフへと向けられる。


「よし、やっとその話ができるね。今日の第一目的は誕生日を祝うことだったのだけれど、第二目的はそれなんだよ」


 そう言いながら、トネリコの枝葉を模した首飾りをテーブルの上に置いたクリストフに対し、トリスタンが「どういうことだ?」と首を傾げる。


「トリスタンとルネさんも、わたし達と一緒に逃げないかと思って誘いに来たんだ。どうせもうこの国は駄目なのだろう?」


 そうあっけらかんと、何でもないことのように。薄い水色の瞳に僅かな愉悦を含ませて、二十年以上もの年月を神父として過ごした男は笑った。その言葉にトリスタンは一瞬信じられないものでも見るように目を見開く。


 ルネはといえば、クリストフの言葉を後押しするように彼の隣で何度も頷くマリオンと、凍り付いている夫の横顔を交互に見つめて成り行きを見守っていた。湯気を隔てた空白が、テーブルの上に横たわる。


 長いようで短い膠着時間はけれど、溜息をついたトリスタンの「大変に魅力的な申し出だが、それだけはできない」という拒絶の言葉で再び動き出した。


「どうして? この国は貴男達の一族だけに酷いことを強要している。今日の広場でそれが充分に分かったわ」


 女性にしてはやや低い声でそう言うマリオンの言葉にも、トリスタンは首を縦には振らない。今さら他者から言われるまでもなく、彼にもそんなことは分かっていたからだ。


 あの場の狂気に染まらない一族だからこそ、長い年月をかけて自分達を卑下するように仕向け、飼い殺した。精神のまともさを保ちながら誰にも助けを求めず、自壊するように狂い死ぬまで使われ続ける憐れな一族。


 誰からも憎まれ、憎むことを許される存在。

 愛を求めることを知らずに、自らを顧みることも忘れた一族。


 身分の差異なく誰からも絶対悪として断罪される地位の、人ならざる者。他国にまで名を知られたガーダルシアの“死神”は、そうして作り上げられた。


「私がこの国で唯一の処刑人一族……ダンピエール家の当主だからだ。死神と呼ばれ、蔑まれ続けて生きてきた我等・・にとっての“誇り”はこれしかない。たとえそこにあるのが皆の求める正義ではなくとも、最後の一人を断罪するまで、私はここから離れることはできない。だが――、」


「トリスがいかないなら、わたしもぜったいにいかない」


「――だそうだ。こうしてここまで誘いに来てくれたことには、感謝する。ありがとう、二人とも」


 彼が次に口にしようとしかけた言葉を察したのか、それを遮るように横からルネが言葉を被せ、諦めたようにトリスタンが笑う。そんな二人の様子を見て悲しげに表情を曇らせたマリオンの肩をそっと抱き寄せたクリストフは、上着の内ポケットから一枚の紙片を取り出した。


「もし君の気が変わるか、この現状をどうにかできたらここを訪ねて来るといい。わたしたちが次に移住しようと思っている場所だ。これも誕生日の贈り物だと思って受け取ってくれると嬉しいよ」


 押し付けるでもなく、諭すでもないその言葉に逡巡するトリスタンの代わりにその紙片を受け取ったのは、ほっそりとした指先の、少し足りない妻だった。

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